コラム
ミクロ経済学と合理的選択
(裏題名:『読むエコ』の読み方)
一橋大学大学院商学研究科教授 伊藤秀史〔Itoh Hideshi〕
サッカーW杯の時期になると評論家が増殖します。今回は日本代表に対する批判的なコメントが目立ちますが、代表監督だったザッケローニ氏はこのように語っています。「代表では指導できる時間が短いので、選手はどうしても所属するクラブで慣れているプレーをしてしまう。それを修正することもできるが、そうしてしまうと選手の感覚や本能的プレーを削ってしまう。メリットとデメリットをてんびんにかけて、本能の部分を失うのはよくないという結論にいたった(朝日新聞DIGITAL2014年6月26日21時18分記事)。」経済学を勉強した人ならば、ここで「トレードオフ!」と叫んでほしい。「トレードオフは不可避」は、経済学の基本的な考え方のひとつですからね(以下、本稿では経済学=ミクロ経済学です。マクロ経済学について僕には語る資格がありません)。
副読本『ひたすら読むエコノミクス』(通称『読むエコ』ですよ、お忘れなく)を有斐閣より出版し、『書斎の窓』に宣伝記事を書かせていただいたのは2012年の夏(『読むエコ』登場、2012年7―8月号、http://yuhikaku-nibu.txt-nifty.com/blog/files/_201278.pdf)。2年後の今回『書斎の窓』に執筆する機会を再びいただいたのですが、お題は『読むエコ』の宣伝ではなく、「初学者、他分野の人に対して経済学の学び方を伝える」です。『読むエコ』は副読本として関心を深めてもらうことを狙ったので、きちっと学ぶには教科書の出番ということになりますが、教科書の著者にとっても「トレードオフは不可避」です。米国製の分厚い入門教科書のように何でも詳しく書くことはできませんから、何を書いて何を書かないか、どのくらい詳しくていねいに書くか、の選択を強いられるからです。経済学には「対象」としての顔と「文法」としての顔(『読むエコ』登場、を参照のこと)がありますが、大部分の教科書は「対象」に沿って書かれています。そして、ミクロ経済学の主要な対象は、交換の利益を実現する場である「市場(マーケット)」にあります。
「対象」としての経済学
標準的な教科書は、市場の分析を大まかにふたつのステップに分けて説明します。第1のステップは「(完全)競争市場」と呼ばれる「理想的に機能する市場」の分析です。このステップの中身は、通常次のような順番で進みます。
(ⅰ)特定の財(製品・サービス)の市場において、需要曲線と供給曲線がすでに与えられているときに、「需要=供給」で価格と取引数量が決まる状態(市場均衡)を説明します。
(ⅱ)需要曲線が、消費者の消費計画の選択からどのように導き出されるのかを説明します。
(ⅲ)供給曲線が、企業の生産計画の決定からどのように導き出されるのかを説明します(逆に、供給曲線→需要曲線の順番の教科書もあります)。
(ⅳ)市場均衡が「効率性」の基準で素敵な性質を持っているということ、「介入」によって効率性が失われることを説明します(余剰分析)。
(ⅴ)特定の財の市場だけに注目した「部分均衡分析」から、すべての財の競争市場が同時に機能する「一般均衡分析」に拡張して、すべての財の競争市場が均衡する状態が素敵な性質を持っている、ということを説明します。これが「厚生経済学の基本定理」と呼ばれる結果で、「理想的に機能する市場」の分析のひとつの到達点です。
以上の第1ステップを勉強するときには、常に自分がどの部分を勉強しているのかを確かめるようにしましょう。
第2のステップは「市場の失敗」です。理想的に機能する競争市場の前提が満たされないと、市場均衡は素敵な性質を持つとは限りません。均衡自体が見つからない可能性もあります。第2ステップでは、このような「市場の失敗」をもたらす原因を説明します。典型的には、3種類の原因ごとに並列して説明されます。
(a)企業が「市場支配力」を持つ場合(独占や寡占)。
(b)外部効果(外部性とも言う)がある場合(汚染、混雑、公共財など)。
(c)情報の非対称性がある場合(モラル・ハザードや逆淘汰)。
それぞれの原因ごとに、市場が失敗するロジックと市場の失敗をいかにして回避するかを考察します。
この第2ステップは、最初のステップほど体系的ではなく、市場の失敗をもたらす原因ごとに個別に勉強することもできます。ただし、「文法」は共通しているので注意が必要です(以下を参照のこと)。
標準的な教科書は両方のステップをこの順番でカバーしていますが、「トレードオフは不可避」ということで、カバーする範囲と個々の内容の詳しさで違いがあります。たとえば、少数派ですが第1ステップに(ほぼ)特化して詳しく説明した入門書(神戸伸輔・寳多康弘・濱田弘潤『ミクロ経済学をつかむ』有斐閣、2006年)があります。また、両方のステップをカバーしていても、他とは異なる性格を持つ独特な入門書もあります。経済学を学んだことのない読者を想定して、個々の内容をぐっと絞り込んでていねいに説明した超入門書(安藤至大『ミクロ経済学の第一歩』有斐閣、2013年)、日本における経済政策問題を数多く紹介し、余剰分析に特化した入門書(八田達夫『ミクロ経済学Expressway』東洋経済新報社、2013年)、第1ステップを全体の3分の1程度に抑え、ケース・スタディやコラムを数多く配置して第2ステップに多くの紙幅を割いた教科書(柳川隆・町野和夫・吉野一郎『ミクロ経済学・入門――ビジネスと政策を読みとく(有斐閣アルマ)』有斐閣、2008年)などが頭に浮かびます。
「文法」としての経済学と合理的選択
さて、経済学のもうひとつの顔「文法」ですが、「対象」に沿った上記のような入門書のあちこちに、「文法」すなわち「経済学特有のものの見方」がちりばめられています。しかし、「文法」に沿って書かれた経済学の教科書はほとんどありません。「文法」に沿って教科書を書くとすれば、たとえば次のような(1)〜(4)の内容が頭に浮かびます。
(1)個人の意思決定。選択可能な複数の選択肢をまず明らかにして、それらの選択肢の中でもっとも好ましい選択肢を選びます。複数の選択肢間の好ましさについての順位づけ(「選好」と呼ばれます)が一定の条件を満たすとき、「効用最大化」で意思決定を表すことができます。「合理的意思決定」の意味を正しく理解する機会を提供します。
(2)リスクのある状況での個人の意思決定への拡張。「神の手」によって決まる不確実性が残っている状態で決定を行う場合には、リスクを考慮することが必要です。「期待効用最大化」で表すことができる条件を明らかにします。
(3)比較的少数の個人の意思決定が絡み合い、互いに影響を及ぼし合う「戦略的」な状況での意思決定。「神の手」とは異なり何らかの「意図」を持つ他の個人の選択が不確実な状況の分析です。「ゲーム理論」の基本を勉強します。
(4)個人の集まりである組織や社会の意思決定の考察。各個人の選好を集めて組織・社会にとっての好ましさの順位づけをする方法、その難しさや問題点を説明します。
標準的な教科書と結びつけるならば、(1)は第1ステップの(ⅱ)消費者行動の前提として説明されることがあります。つまり、予算制約を満たす選択可能な消費計画の集まりから、もっとも好ましい計画を選択する消費者の意思決定の基礎となります。(2)のリスクのある状況への拡張は、第2ステップの(c)情報の非対称性の分析の準備として説明されていることがあります。(3)のゲーム理論は、第2ステップ(a)の寡占(少数企業間の競争・協調関係)の分析の準備として説明されることが多いですが、第2ステップのすべてに共通の「文法」となります。(4)まで言及する入門書は多くないと思いますが、第1ステップでの市場均衡の評価(ⅳ)や、第2ステップ(b)の公共財との関連でふれている教科書があるかもしれません。
上記のような構成の経済学の教科書はほとんどない、と書きましたが、実は副読本『読むエコ』(教科書ジャナイヨ)の構成はコレに近いです。導入の第1章の後、第2章で(1)、第3章で(3)、第5章で(2)を扱っています。(4)にはほとんど言及していませんけど。実は、このような構成の教科書は「対象」としての「経済学」から解き放たれているので、「経済学」がタイトルになかったりします。(3)を扱う教科書は、言うまでもなく「ゲーム理論」と名付けられています(実は、ゲーム理論を柱とする先駆的なミクロ経済学の教科書として、梶井厚志・松井彰彦『ミクロ経済学――戦略的アプローチ』日本評論社、2000年、があります)。(4)には「社会的選択」のような名前がついています。(1)(2)は「(不確実性下の)決定分析」のようなタイトルで昔は入門書もあったのですが、入手不可能な状態になっています。入手可能のものは残念ながら入門書ではありません(たとえば名著David M. Kreps, Notes On The Theory Of Choice, Westview Press, 1988年にはKindle版があります)。経済学でも、(1)(2)を詳しく説明している教科書は中上級になってしまいます。
幸い、原書が2010年に出版されたイツァーク・ギルボア『合理的選択』みすず書房、2013年がこの隙間を埋めてくれます。この本は(1)〜(4)をカバーする希有な入門書(注意:僕は原書を商学部2年生のゼミナールの教材にしたことがありますけど、『読むエコ』が難しい、という人は後回しにした方がいい)です。経済学の学び方として、標準的な教科書を一通り学んだ後でギルボアを勉強すると、理解を深めることができると思います。
(1)〜(3)をメインに扱う副読本『読むエコ』(教科書ジャナイヨ)は、実は僕の留学先のスタンフォード大学ビジネス・スクールのMBA(経営修士号)コースの授業「不確実性下の意思決定」を反映しています。この授業でのティーチング・アシスタント(TA)の経験から、日本の大学でも(1)〜(3)をほぼこの順番で教える学部授業を僕は担当していました。入門レベルの授業は当時も今も少ないでしょう。『読むエコ』は会計や法律の研究者の方々からの評判がいいと聞いていますが、米国ビジネス・スクールで教えられる会計学(国際的土俵での研究で勝負する会計学者にとっての会計学でもある)は(1)〜(3)を基礎としています。また、米国法科大学院のテキストであるハウェル・ジャクソンほか『数理法務概論』有斐閣、2014年は、第6章で「対象」としてのミクロ経済学が登場する前に、第1章で(2)、第2章で(3)を扱っています(ちなみに第3章は契約、第4章は会計、第5章はファイナンスです)。ギルボアよりもやさしいので、法学に興味がない人にも有益かも。
おわりに――『読むエコ』は2度おいしい!?
ちょっととりとめない文章になってしまいましたが、「ミクロ経済学の学び方」についてメッセージをまとめるとすれば次のような感じです。
・「対象」と「文法」を意識すること、
・標準的な「対象」の教科書にもいろいろなタイプがあるので、メインの1冊を決めても、他の教科書も適宜参照すること、
・授業や先生も利用すること、
・1回勉強すれば完璧にマスターできると思わずに(わからないところはとりあえず飛ばしながら)繰り返し繰り返しやり直すこと、
・視点を変えて「合理的選択」の勉強もやってみること、
などです。
今回のお題は『読むエコ』宣伝ではないのですが(あれ?)、最後に『読むエコ』の読み方について。実は副題が「Read me 1st」であることからもわかるように、ミクロ経済学のお勉強をはじめる前に読んでもらうことを想定していました。でも「難しい」という感想も聞こえてきます。「おもしろい」と感じた人は言うまでもなく、「難しい」と感じた人もわからないところを気にせずに、授業や教科書で経済学を勉強してください。そして、また『読むエコ』に戻ってきてください。今度は読みながら勉強したことと対応づけてみたり、書いてあることを自分の手を動かして図表や数学モデルで表現してみてください。『読むエコ』が2度おいしい副読本だということがわかるでしょう。Read me twice and more!