HOME > 書斎の窓
書斎の窓

連載

ドルチェ国際法

第1回 外交公嚢の使い方

東京大学大学院法学政治学研究科教授 中谷和弘〔Nakatani Kazuhiro〕

 今回から6回にわたり連載することになった。食後のデザートのように気軽にお楽しみ頂ければ幸いである。

 外交公嚢(外交封印袋)とは、外交上の機密書類をはじめとする、派遣国による接受国における外交任務のために必要な物品を入れる袋であり、税関フリーパスという外交特権を有している(外交関係に関するウィーン条約27条3項〔以下、ウィーン条約と略記]は「外交封印袋は、開き又は留置することができない」と規定する)。この袋には「外交上の書類又は公の使用のための物品のみを入れることができる」(同4項)が、残念なことにこれまで様々な問題のあるものが運ばれてきた。チャーチルが第2次大戦中にキューバから葉巻を外交公嚢で運んでもらっていたという微笑ましい事例もあるが、国外持出禁止の美術品やダイヤモンドや麻薬・覚醒剤の密輸といった顔をしかめざるを得ない事例も時々生じ、さらに次のように唖然とするしかない事例さえ存在した(以下、主にChuck Ashman and Pamela Trescott, Diplomatic Crime [1987] 参照)。

 ①1964年11月、ローマのフィウミチーノ空港においてカイロ行きのエジプト航空機に搭載されようとしたDiplomatic Mail No.33 というタグのついたエジプト(当時の国名はアラブ連合共和国)大使館のトランクの中から何か騒音がするとして、イタリア警察が調べた所、人間が詰め込まれているのが見つかった(写真、著者所有)。ローマのカフェで誘拐された後、何と小さなイスとスリッパが固定されたトランクにはめ込まれていたのであった。イスとスリッパは、居心地を少しでも良くするための人道的配慮に基づくものだったのだろうか。否、万一の逃亡を防止するためだったと思われる。まさか古代のミイラ入り木棺の知恵に学んだ訳ではあるまい。誘拐された人物は Josef Dahan,モロッコ生まれの30歳の言語学者だと名乗ったが、実際には Mor-dechai Ben Masoud Louk というモロッコ生まれのイスラエルの陸軍士官で、二重スパイであったらしい。さらに奇怪なのは、このトランクは以前にも似た目的(イタリアに逃亡したエジプトの軍人の本国への誘拐)のために使用されたことがあった。イタリアはエジプト大使館の一等書記官に対してペルソナ・ノン・グラータを通告して国外退去を求めた。

 ②1982年のフォークランド戦争時にアルゼンチンは外交公嚢の中にイタリア製の吸着爆弾を入れてマドリッドのアルゼンチン大使館に移送し、ジブラルタルの英国海軍工廠に停泊中の英国軍艦を爆破する「アルヘシラス作戦」に利用しようとしたが、スペイン警察に見つかって未遂に終わった。

 ③1984年7月、ロンドン郊外のスタンステッド空港において、2つの木箱がナイジェリア航空機に搭載させるためナイジェリアの外交手荷物として申告された。ところがウィーン条約27条4項が要求する「外交封印袋であることを外部から識別しうる記号」がなく、検査官が不審に思って同36条2項に従ってナイジェリアの外交官の立会いの下に開封した所、1つの木箱にはロンドンで誘拐され行方不明となっていたナイジェリアの Alhaji Umaru Dikko 元運輸大臣と見張りの者が、もう1つの木箱には2名の見張りの者が、息のできるように管をつけてつめこまれているのが発見された。ナイジェリアは事件への関与を否定し、英国への協力を拒否した(容疑者とされたナイジェリア外交官の特権免除の放棄もしなかった)。英国はナイジェリア外交官2名を国外追放したが、これに対抗してナイジェリアも同様に英国外交官を国外追放し、またラゴスを離陸したばかりのブリテッシュ・カレドニアン航空機は引き返すように要求され、乗客・乗員は一時身柄を拘束された。

 ④同じく1984年7月、バーゼルのスイス税関にトラックがやって来て、何と9トンものトレーラートラックをソ連の外交公嚢であると申告した。ウィーン条約上は外交公嚢の規模について規定はないものの、バーゼルの税関は最大許容重量は450ポンドだと述べた上で、荷降ろしは認めないがトラックがジュネーブまで行くことは認めた。ジュネーブでもソ連側は税関検査を拒んだため、トラックは国外退去を求められ、西ドイツに行った。西ドイツは大きさを問題とはしなかったが「運搬手段である」との理由で外交公嚢と認めることを拒否した。11日後、ソ連はボンのソ連大使館内でトラックを開封することを認めた。西ドイツは中身が外交公嚢であることを認め、小分けして207の外交小包として登録した。

 以上のうち、④は犯罪絡みではないが、目を見張る「常識への挑戦」である。「常識への挑戦」の他の例としては、デュッセルドルフ駐在のフランスの領事がロンドンの空港で検査を受けた所、コートから2190個もの時計が見つかったという例や、1976年10月に北朝鮮のデンマーク、ノルウェー及びスウェーデンへの代表団が、免税の酒、タバコ及びマリファナの大規模な密輸の容疑に基づき追放されたが、北朝鮮の某外交官は税関に対して250万本もの免税タバコにつき個人消費用だと主張した(ウィーン条約36条1項は、「外交官の個人的な使用のための物品は免税となる」旨、規定する)といった例がある。

 外交公嚢に関しては、古くは、フランス革命期にベンサムが準備した演説原稿を外交公嚢に入れてパリに運びジャコバン派のリーダーに渡した、時計メーカーのブレゲの創業者が友人のタレーランの外交公嚢を使って時計をヨーロッパ中に運んだ、といったエピソードがある。2008年5月、宇宙ステーションのロシア製トイレが故障したため、ロシアは交換用のポンプを外交公嚢に入れて米国に空輸した。トイレ(の部品)は「公の使用のための物品」(但し利用者は6名の宇宙飛行士限定だが)であることにおそらく疑いはないであろう。

 2012年6月にロンドンのエクアドル大使館に政治亡命を求めて駆け込み、2014年5月末の時点でもそこに「滞在」しているウィキリークスのジュリアン・アサンジのケースは「外交的庇護」についての最新の事例でもある。エクアドル大使館は不可侵である(ウィーン条約22条1項)ため、接受国(英国)は大使館内に入り込んでアサンジの身柄を確保することはできない。他方、大使館の外に1歩出れば英国によって逮捕されてしまう。英国による身柄拘束を逃れて「安全に」(!)アサンジをエクアドルに移送する奇抜なアイデアとして、アサンジをエクアドルの外交公嚢に入れて出国させるというものがある。さすがに実現するとは思われないが、何でもありの国際関係ゆえ絶対にないとは言えないのかもしれない。

 外交公嚢が勝手に開けられる(開けられそうになる)と外交上の摩擦に発展するが、そのような摩擦は近年でも発生している。例えば、2000年にジンバブエが、また2013年11月にはスペインがジブラルタルとの境界で、それぞれ英国の外交公嚢を開けたとして、英国は両国に抗議した。

 外交公嚢をめぐる上記の様々な「騒動」は、外交特権の濫用から生じたものであるが、この規制は現実には困難であると言わざるを得ない。税関でのX線等による機械検査ならば外交公嚢を開かなくて済むから可能だと思われるかもしれないが、これも容易ではない。パソコンをダメにしてしまうという問題がある(例えば、2009年にベネズエラが米国に対して機械検査を要求した際に米国がそう抗議した)ばかりか、国連国際法委員会による「外交伝書使及び外交伝書使に伴われない外交封印袋の地位に関する条文草案」の議論においては、途上国や(旧)社会主義諸国は、「機械による検査に関する技術的ハンディキャップによって途上国が差別されてはならない」との理由で機械による検査に反対した。1989年にまとまった同草案では、28条1項において「外交封印袋はどこにおいても不可侵である。外交封印袋は開け又は留置することができず、直接の又は電子的若しくは他の技術的装置による検査から免除される」と規定する。機械検査ができないとなると、接受国としてなしうることは基本的に返送要求だけということになる。時代遅れだと批判することは容易だが、ルールを変えることは古くからの慣行が根強い外交関係の分野では困難である。

 2012年9月、モンブランの氷河の中から46年前に墜落したエア・インディアの残骸が発見され、その中にはインドの外交公嚢が含まれていた。外交公嚢の中からはインドの新聞やカレンダー等が見つかった。この外交公嚢は期せずしてタイムカプセルとなった。46年後の2060年にも外交公嚢は存在し、開けられないというルールは健在なのだろうか。

ページの先頭へ
Copyright©YUHIKAKU PUBLISHING CO.,LTD. All Rights Reserved. 2016