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書斎の窓

連載

脳の中の不思議の島――趣味的研究人生

第3回 我動く、ゆえに我あり

名古屋大学大学院環境学研究科教授 大平英樹〔Ohira Hideki〕

 昨年、『風立ちぬ』、『永遠の0』という零式艦上戦闘機に関わる映画が話題となった。かつて、ハワイで軽飛行機の操縦体験をしたことがある。この州ではライセンスを持った教官が同乗していれば、それが可能である。ちょうど、仮免許での自動車路上教習のようなものだ。搭乗したのはパイパーアーチャーII。最高出力180馬力、最高速度125ノットという小型の機体である。前後を小山のようなボーイング747〝ジャンボ〟に挟まれてホノルル空港のタキシング・ウェイを進み、離陸。ダイヤモンド・ヘッドを経由してオアフ島を左周りに半周し、真珠湾を正面に見て島を縦断する。最後の行程は、1941年12月8日、真珠湾攻撃において日本の第2次攻撃隊がとったルートと同じである。往時のパイロットにもこのような光景が見えていたのだと思うと、胸が熱くなった。

 コンピュータ上のフライト・シミュレータはさんざんやっているので、操縦にある程度の自信はあった。しかし空中に上がってみると、全く勝手が違う。直進することさえ難しいのだ。上空には気流があり、常に機体が前後左右に揺さぶられる。そこを直進しようとするのだが、修正が過剰になり、機首が8の字を描いて揺れ出す。いわゆるダッチ・ロールである。このときには、まるで機体を巨人の手によって弄ばれているように感じた。しかし次第に慣れてきて、イメージどおりに機体を動かせるようになってくる。すると、この機体を操っているのはまさに自分だ、という感覚が得られてくる。着陸時、思ったとおりの瞬間にランディング・ギアが接地した時には快感を得た(この間、隣の教官がバランスを取る翼のタブを常に調整し、補助してくれたおかげであるのだが)。

 零式艦上戦闘機で戦った旧帝国海軍のエースで、『大空のサムライ』の著者である坂井三郎氏は、両方の翼端が左右に伸ばした自分の手であるかのように感じた、と記している。同様なことは、自動車の運転や、スキーなどのスポーツなどでも経験できる。機械や道具の扱いに習熟すると、それを動かしているのが自分であり、その機械や道具が拡張された自分の身体であるかのように思える。こうした現象は、自己の身体感覚を基盤にしている。哲学者のギャラガーは、身体保持感(sense of body ownership)と自己主体感(sense of agency)という基本的な自己感覚を提唱した(Gallagher, 2000)。身体保持感とは、「この手は自分の手だ」という感覚であり、自己主体感とは「この手を動かしているのは自分だ」という感覚である。

 自分の手が、他者のものではなく、自分のものである。この実感はあまりにも当然で強固なように思える。しかし、実は身体保持感はそれほど頑健ではなく、条件次第では容易に崩れてしまう。このことを象徴的に示す現象がラバーハンド錯覚(rubber hand illusion)である。ゴムなどでできた人工物の手(ラバーハンド)を卓上に置き、自分の手をその横に置く。自分の手には覆いをかけるなどして見えないようにする。その状態で、ラバーハンドと自分の手の同じ位置をブラシで撫でるなどして触覚刺激を与え、ラバーハンドが撫でられるのを注視する。これを数分間繰り返すと、人工物であるはずのラバーハンドが突然自分の手のように感じられる。ラバーハンドと自分の手を撫でるタイミングをずらすと、この錯覚は生じない。この錯覚が成立している最中にラバーハンドを針で刺すと、あたかも自分の手が刺されたかのように、脳の痛み関連部位が活動する。これは、自動車の運転時にミラーを擦ってしまった際の感覚を想起すれば実感できるであろう。これらの現象が意味することは、この手は自分のものだという感覚は、視覚と触覚のような異なるモダリティの感覚信号が、脳の中で時間・空間的に統合されることによって創発されるということである。だから、異なる感覚信号が統合されさえすれば、ラバーハンドのような道具も自分の身体だと感じられる。このとき感覚信号を統合する脳部位は、側頭|頭頂結合部、運動前野、そして本稿の主題である島の前部である。

 興味深いことに、身体保持感の成立に内受容感覚も関わっていることが最近報告された。ラバーハンドの指先に発光ダイオードを取り付け、自分の心電図を測定して、心臓の鼓動のタイミングと同期してダイオードを点滅させる。これを観察するだけでも、ラバーハンド錯覚が成立した(Suzuki et al. 2013)。本稿の1回めで述べたように、前部島は内受容感覚が最終的に表象される脳部位である。これらの知見から、前部島は、視覚や触覚のような外受容感覚と、内臓や筋などに由来する内受容感覚を統合し、まとまりのある「現在の私の身体」という感覚を創り上げているのだと考えられる。

 一方、自己主体感は、運動とそれに伴う身体の知覚から創発される。ある行為を実行しようとする場合、脳で必要な運動のモデルが作成される。この運動モデルに基づく指令が身体に送られ筋を収縮させて運動を実行する。このとき運動モデルは、その運動が実行された場合の身体感覚の予測も行い、運動をした際の現実の身体感覚との照合が行われる。両者が、ある範囲で一致する場合、その行為は自分によってなされたのだという自己主体感が経験される。イメージしたとおりに飛行機を動かせたときに私が感じた自己主体感も、同様な原理により創発されたと考えられる。右旋回に入った時の、重力バランスや加速度、操縦桿にかかる圧力、そうした感覚が予測と一致したとき、私は飛行機を自分が操っていると感じることができる。

 この自己主体感の成立において最も重要な役割を演じているのが、前部帯状皮質の背側部と、そして前部島を結ぶ神経ネットワークである(Seth, et al. 2012)。これまで述べてきたように、前部島は、体性感覚を含む全ての感覚領域、運動領域、運動指令を発する線条体、複数の運動プランの調整に重要な前部帯状皮質、などと密接な神経連絡があり、いわば、脳と身体とのインターフェイスとして働いている。これにより前部島は、運動モデルによる感覚の予測と実際の感覚の照合を行う比較器(comparator)として機能していると考えられている。

 セスら(Seth, et al. 2012)は、前部島において、自己主体感と身体保持感を担う神経システムが結合されていると主張している(図1)。自己主体感システムは運動の、身体保持感システムは身体状態の、モデルを形成し、刻々とその予測値を算出する。それが実際の運動感覚や内受容感覚と照合される。予測値と実際の感覚が一致する場合には自己感が創発され、現在の行為がうまくいっているという実感を形成する。そこにずれがある場合には、モデルを修正するか、運動や身体状態を変更するか、あるいはその両方により適応がはかられる。同時に、現在うまくいっていない、問題がある、というエラーの実感が形成される。この理論に基づけば、例えば旋回時に腕にかかる荷重だけでなく、加速度により胃が締め付けられる感じなどの内受容感覚もモデルにより予測され、実際の内受容感覚との一致により自分が操っているという感覚の成立に役立っている。また逆に、運動により力を発揮する場合には、予め交感神経系の活動を亢進させて適切なエネルギー供給が可能なように調整が図られる。

図1 前部島における自己主体感と身体保持感の神経システム(Seth, et al. 2012を改変)

 ギャラガーが身体保持感と自己主体感を唱えたのは、言葉や、それにより紡ぎ出される意味、語られる記憶、などを取り去っても、なお残る原初的な自己の感覚はいかに成立しうるかを考えるためであった。その基盤は、身体の動きのプランがあり、その動きの感覚があり、両者を照合する前部島の機能があることである。我動く、ゆえに我あり。

【引用文献】

Gallagher, S. 2000. Philosophical conceptions of the self: Implications for cognitive science. Trends in Cognitive Science, 4, 14-21.

Seth, A. K., Suzuki, K., & Critchley, H. D. 2012. An interoceptive predictive coding model of conscious presence. Frontiers in Psychology, 2, Article 395.

Suzuki, K., Garfinkel, S. N., Critchley, H. D., & Seth, A. K. 2013. Multisensory integration across exteroceptive and interoceptive domains modulates self-experience in the rubber-hand illusion. Neuropsychologia, 51, 2909-2917.

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