書評
摂南大学法学部准教授 小野晃正〔Ono Kosei〕
1.はじめに
従来の刑事法入門書には、1冊の中に刑事法全分野の内容を網羅的に詰め込もうとするもの、あるいは、わかりやすい説明を優先するあまり刑事法の体系を崩して解説するものが数多くあった。初学者にとって、前者は刑事法学全体の把握を可能とするものの、各事項に対する説明がコンパクトに並んでいるだけで論理的理解を得難いのに加え、退屈感すら与えていたかもしれない。他方、後者は一見わかりやすいものの、刑事法学の醍醐味である各項目間の有機的関連性を身につけることがたいへん困難となるきらいがあった。ところが、刑事法の導入教育から専門教育に移行するやいなや、初学者は各分野間の整合的理解を前提に論理的思考力が試される事態に直面する。入門書による導入教育と体系書による専門教育の大きな隔たりである。これまでの入門書は、それぞれの事項が絡み合った刑事法の奥行きや面白みを初学者に伝えきれず、むしろ専門教育における刑事法の「食わず嫌い」を量産する遠因をつくってきたのではないか。
こうしたなか、本書は「はしがき」にもあるように、専門教育といういわばメインディッシュに対する食欲を刺戟する前菜を目指すべく企画された。従来の類書とは一線を画そうとする意欲的な入門書である。学生の専門書離れが続く由々しき昨今にあっても、本書は多くの支持者を得て今回5度目の改訂を迎えた。改訂を重ね続ける本書の魅力をどのような点に見てとることができるであろうか。以下では、他書と比較しつつ本書の斬新さや特徴を具体的に見ていくことにしよう。
2.刑事法全分野の網羅性よりも奥行きの感得を優先
本書が取り扱う領域は類書と比べても多岐にわたる。刑事実体法、刑事手続法及び刑事学といった伝統的研究領域はもちろん、交通刑法、経済刑法、警察捜査、捜査弁護、検察審査会、裁判員裁判、法テラス制度、少年法、及び犯罪被害者と修復的司法といった刑事法学の全テーマに及ぶ。本書はこれらについてそれぞれの有機的関連性に留意しつつ重複を厭うことなく、重要事項を手厚く解説する。その意味でわが国唯一の「全刑法学」入門書といっても過言ではない。とはいえ、本書は各領域の細目を網羅的に検討・解説することをあえてしない。たとえば、刑法各則を取り扱うパートでは、生命侵害に焦点をあて殺人を中心とする解説にとどめる。これは、三井教授が初版はしがきで述べているように、個別のテーマの論点を突っ込んで説明することで、初学者に刑事法各分野の奥行きを感得させると同時に、専門科目として本格的に取り組む前に学問上の刺戟を与え、学習のモチベーションを引き出そうとしたためであろう。
3.記述の斑の回避と実務への誘い
他書と比較した顕著な特徴として挙げることができるのは、本書が研究者のみを執筆陣としなかった点である。もちろん編者だけの手からなる入門書を刊行することは容易であったろう。しかし、本書は研究者に加え適材適所の実務家を執筆者に迎えた。その意図は、法曹三者に加え、警察官、刑務官、保護観察官にも刑事実務の実態を「生き生き」と語ってもらうことで、記述の斑を回避する点にあったと推察される。従来の研究者のみによる入門書の場合、どうしても実務特有の問題はページ数の少なさに見られるように、深い記述がなされてこなかった。本書にはこうしたページ数の多寡といった偏りがなく、どのテーマもほぼ均一のページ数が割り当てられ、どこを読んでも十分な読了感を得ることができる。
また、1つのテーマを対峙的立場にある複数の研究者や実務家から異なる角度で繰り返し説明させることで、読者は争点を多角的視点から鮮明に学ぶことできるように工夫が凝らされている。一例を挙げると、研究者による「被疑者取調べ」、警察官による「警察捜査」及び刑事弁護の立場からの「捜査弁護」がまさにそうした構成であり、初学者を決して1つの立場に誘導せず、自ら考える余地を十分に残す。こうした点は、読者の法的思考力を磨く上でもたいへん役に立つと思われる。
それだけではない。本書が類書と異なるのは、読者を職業としての刑事実務へ誘おうとするところにある。それも法曹三者ばかりではなく、警察官、刑務官、保護観察官、裁判所書記官・同事務官及び検察事務官といった多彩な刑事実務家へ誘うのである。実務家ならではの経験をもとにした各分野の「今」を伝える忌憚のない「誘いコーナー」は、職業としての実務家の魅力を説くもので、読者の実務への関心を少なからず深めることになるであろう。
このように本書は刑事法の概要を単調に伝えるのでなく、初学者を刑事実務家へさりげなく誘おうという大胆な試みもおこなっている。そのため、入門書であるにもかかわらず初学者ならずとも読んでいて全く飽きがこない。
4.刑事立法相次ぐ現代ゆえの「刑罰法規の謙抑性」の再確認
本書を読み進めて気づかされるのは、近年において新しい刑事立法が刑事法全分野で相次いでいることである。たとえば、刑法典以外にも、道路交通法や経済刑法といった特別刑法分野、さらには少年法などでも刑事立法が矢継ぎ早に行われている。これらはいずれもこれまで刑事規制を免れてきた行為を犯罪化し、あるいは、既存の犯罪類型をさらに厳罰化しようとする法改正である。しかし、本書はこうした事実を説明するだけにとどまらない。研究者、訴追側及び弁護側といった執筆者の区別なく、現代ゆえの「刑罰法規の謙抑性」の重要性をも力説する。刑事法を学ぶ者と刑事法を運用する者が心の片隅に常に置いておくべき「刑罰法規の謙抑性」。この誰しもが真っ先に学び忘却しがちな刑事法学の1丁目1番地について、読者は刑事立法という身近な例を素材に様々な角度から再確認させられるのである。このような当然の知識だがふと忘れがちな重要事項を本書は様々な箇所で何度も説明する。こうして本書は、個々に独立してみえる項目が実は水面下で有機的に関連付けられていることを繰り返し説くことで、基本事項の重要性を随所で認識させてくれる。この点も他書とは一線を画す要素である。
5.個別の概要――「刑事法とは」
以上が全体の概観と特徴であるが、ここからは個別の分野ごとに本書の特色をみていこう。まずは序章の「刑事法とは」である。この部分は三井教授が担当されているが、本書の特徴の1つである、刑事法学全体を有機的なつながりとして学ぶことを強く意識した内容となっている。実体法、手続法及び刑事学の異同、そして隣接法学である民事法との違いなどを巧みな具体例をもとに丁寧にかみ砕いて説明する。また、条文を出発点としながらも身近なメディアを教材とした刑事法学の学びのすすめ、とりわけ誰しもが陥りがちな刑事手続や犯罪の実態を無視した机上の空論にとらわれることへの戒め、さらに比較法的視座や制度の沿革を踏まえた俯瞰的な検討のすすめなど、学習がある程度進んだ者が読み直しても有益な内容が満載されている。
6.個別の概要――「刑法」
第1章は「刑法」に割り当てられ、理論的色彩が強い刑法典と交通刑法を曽根教授が、また、経済刑法を実務的視点も交えて検察官が担当する。
前者は、全体として犯罪の処罰根拠(違法性の本質)に通底する記述となっている。曽根教授の他著書と同様、文章は明晰で、わかりやすく、初学者は曽根教授のよって立つ結果反価値の考え方がどのようなものかを十分に理解することができるであろう。
後者の経済刑法については、類書でここまで詳細にこのテーマを正面から解説しているテキストは見当たらない。それに加えて、その内容も、主要な経済犯罪の制度趣旨を立法の沿革にまで遡って懇切丁寧に説得的に解説する。本来たいへん難しい内容ではあるが、制度の沿革にまで触れることで初学者の記憶に定着しやすくなるよう記述に工夫が凝らされている。なお、刑法96条3項以下で大幅な条文追加が行われた背景について新たに第5版でフォローされている。
7.個別の概要――「刑事訴訟法」
第2章は「刑事訴訟法」である。この部分は、とくに学説が錯綜して難解であるとされる「取調べ」、「自白」及び「伝聞証拠」をめぐる諸問題をピックアップして説明している。たとえば、先述したように、「被疑者の取調べ」をめぐる記述は、紙面上で研究者、警察・訴追側及び弁護側のディベートを見ているようで面白い。なお、これに関連して4版から5版までの改訂の間に、検察不祥事に端を発し図らずも衆目を集めるにいたった「取調べ録取」の問題についても立場の違いから様々な考え方を学ぶことができる構成となっている。さらに、刑事訴訟法における「絶望の章」といってもよい伝聞法則について、三井教授が初学者に対して、本筋を見失わないよう、わかりやすい具体例を導入して語りかけるように説明している点が印象に残った。
このほか検察審査会の制度改革については、前々から発言を続けてきた三井教授が、その沿革から比較法的視点も踏まえた今後の射程までをわかりやすく解説し、改訂の度にきめ細かいアップデートにつとめている。また、裁判、裁判員制度、警察捜査、刑事弁護及び法テラスについても、テーマごとに裁判官、警察官、弁護士などの実務家が同様の解説をそれぞれの立場から丁寧に行っている。
8.個別の概要――「刑事学」
第3章では主に理論面を瀬川教授が、犯罪者処遇などの実務的色彩が強い部分を矯正担当官・保護観察官がそれぞれ執筆している。
瀬川教授による執筆箇所では、戦後の犯罪情勢や少年犯罪の動向が歴史的沿革を踏まえて整理されている。そのため、読者が一読して刑事学全体を理解しやすい構成と内容になっている。また、犯罪学総論ばかりでなく女性犯罪の動向、特徴及びその背景なども解説されており、犯罪学各論にも目が配られている。
さらに、しばしば巷やマスコミ報道で耳にする「治安の悪化」が事実であるかについて科学的に検討を加える。そこでは、国際的な犯罪発生率を比較し、実際は凶悪化どころかわが国の治安が安定していることを検証した上で、雰囲気だけからなる根拠なき体感「治安の悪化」を戒める。加えて、これまでの入門書で見落とされがちであった犯罪被害者の問題や修復的司法にも言及しており、紙幅が限られるなか、刑罰の正当化根拠を含め犯罪現象論の基本を網羅する。なお、犯罪学の限界や混迷、多岐に細分化した犯罪学の課題も率直に表明されており、犯罪学を本格的に学ぼうとする者へのヒントとなりうる記述も数多く盛り込まれている。
犯罪者処遇論については、机上を主なフィールドとする研究者よりも、現場をフィールドとする実務家のほうが解説に適し、より客観的な記述もできるであろう。他書と異なりこの部分に実務家を起用した点は特色として評価されてよい。とりわけ、矯正・更生保護の部分を読めばわかるが、矯正や更生を担当する実務家は受刑者と共にあろうとする誠実な専門家である。一部で喧伝されるような前時代的な「獄吏」では決してない。この点は刑務官等の刑事法教育に一部携わった経験のある私からも初学者にぜひ読み取ってほしいと願う。
9.おわりに
以上が本書の特徴である。最後に、望蜀の感ではあるが、若干気になった点も述べておこう。第1章の「刑法」は、違法性の本質について結果反価値優勢の論調で一貫している。その記述は伝統的な議論を前提としていることもあり、曽根教授による体系書と同様、緻密で明快な論証は初学者に感銘を与えるであろうことは疑いない。ただし、本書が入門書であることを考えあわせると、こうした刑法学の根幹にかかわる争点については、もう少し中立的な記述をすることで初学者に考える余地を与えてもよかったのではなかろうか。また、上記のとおり、実務家による執筆箇所は、刑事実務の実態を語ってもらうことで、全体の記述の斑を回避することとなった。ただ、一線の実務家ばかりであるので、今少し豊富な経験に基づく実務の機微を伝えてくれれば、本書の記述が一層立体化したのではとも思われた。
私の拙い書評でどれだけ本書の魅力を伝えきることができているか心許ないばかりである。しかし、本書は入門書にありがちな退屈感をまるで与えない不思議なテキストである。読者自らが考える余地を残しつつ、それでいて制度趣旨や沿革も丁寧に叙述している稀に見る入門書である。刑事法初学者はもちろんのこと、ある程度勉学が進んだ学部生、あるいは刑事法学を研究し枝葉末節ばかりに目がいきがちな大学院生、そして刑事法の導入教育を担当する研究者にもぜひ手にとってほしい1冊である。