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連載

ドイツ・ケルンから考えた日本――ケルン文化会館長異聞

第3回 ドイツにおける外国人・ヒトの移動 その1

千葉大学専門法務研究科名誉教授 手塚和彰〔Tezuka Kazuaki〕

はじめに

 最近のドイツ経済の未曽有の好況は、失業率も過去最低(連邦雇用庁の統計によれば2012年平均で5・5%)で、とりわけ、製造業などにおいては、フル操業で人手不足が続き、あるいは、他の職種を含み、技術・技能労働者から、医師・看護師などに至るまで、人手不足の様相である。

 ライン河の水運も、かつては、シーズン中の観光船のほか、わずかな貨物船の上り下りがあるだけで、帰路は空っぽであったが、今や、石炭を満載した船や、タンカーなど目白押し状況で、貨物船は上り下り(下りは、自動車などの製品や建築資材のアルプスからの砂利や石を積む船など)とも満載の状況だ。

 さらには、ドイツ鉄道の貨物輸送も、幹線以外でも50〜60台くらい沢山の貨車が連なっている。その轟音は、日本人にもよく知られているマインツからケルンまでのライン下りで有名なライン川の両岸の鉄道沿線に騒音被害をもたらし、住民は抗議の声を上げている。ケルンやデュッセルドルフの工場も、かつては休止や廃業に近かったところが、今はフル操業であり、原料倉庫や原料ヤードも満杯だ。

 これに伴い、操業を支える雇用も、EU内部の労働者の移動により人手不足を解消しているといえ、外国人の受け入れは、正規の移住者のみならず、難民についても行われ、この人々が工場からレストランやビアホールに至るまで各分野で働くことが当たり前の状況となった。外国人の受け入れに消極的なバイエルン州(ミュンヘン)でも、オクトーバーフェスト(新ビール祭り)に、世界中から400万人もの観光客が集まり、その1割前後はそのまま居残って、ビアホールなどで働いているよ、と言うのが、ミュンヘンの州内務省の担当高官の話であった。少しくらいの外国人の存在は、気にしない、という感じである。もっとも、バイエルン州は目下景気は最高、完全雇用に近く、また、警察力も強いので、犯罪率は最も低い。こうした「ヒトの移動」も吸収できるというのである。

 目下、ドイツは、政治的にも、経済的にも、拡大するEUを支える中心になっている。いまや、後に詳しく見るように、ドイツに住み、働くのはドイツ人だけではなく、あらゆる国からの人々が活躍している。その意味でも、ドイツは米国などと同様「移民受入国」になったのである。

 とはいえ、ドイツにおける外国人の受け入れは、外国人の出身国により異なった扱いがなされている点で、米国とは異なっている。

1 最近の法律的な展開

 これを、法律的に見ると、次のような経緯をたどっている。

 ドイツとオーストリアの両国は、2011年5月1日までは、2004年のEU新規加入国(ポーランド、チェコ、ハンガリーなど)に対して、ローマ条約での移住の自由と営業(就労)の自由の効力を、新規加入国との2国間協定(当初2年、その後3年、さらに2年と計7年間)で停止し、起業や資本投資で移住する場合を除き、単なる就労目的だけの移住を制限してきた。これは、英国やスウェーデンなどが2004年から移住、就労を自由化したのと対照的であった。このように、移住の自由を最後まで制限してきたドイツ、オーストリアが、2013年5月1日に門戸をEUの全国民に開放したのであった。

 時あたかも、ドイツ経済は絶好調となり、ポーランド、ハンガリー、旧ユーゴスラヴィア諸国など旧東欧諸国からの移住者で、しかも、技能、技術を持つ人々の場合には、ドイツでの就労により、ドイツの人手不足を解消するまでにはいかないものの、かなりの効果を上げてきていることが、政府の報告書(i)などでも明らかにされている。とりわけ、医師・看護師などの医療の分野では、専門的な人手不足を東からの移住者でカバーしている。

 他方、最近のEU内移住で注目されるのが、ルーマニア、ブルガリアからの移住者で、その数の多さと、その多数がロマ人(日本でいうジプシーであるが、歴史的に差別観があり今はロマ人として公式には統一されている)であることが、ドイツを悩ませることになっている。彼らの大部分は、ドイツ語はもとより、旧在留国のルーマニア、ブルガリアでも学校教育を終えておらず、読み書きすらおぼつかないものが多いという。

 ドイツ政府は、以下に示すような事態に対しルーマニア、ブルガリア両政府に彼らの引き取りと教育、雇用政策を求めている。しかし、豊かなドイツでの生活に安住する傾向のロマ人にとっては、元の居住国に帰って、仕事もなく、食うや食わずの生活をすることは、真っ平ごめん、ということである。これも、ドイツがEUの東への拡大に際して予想していなかった事態である。

2 産業の停滞地に移住外国人は集中する

 かつての炭鉱・鉄鋼業の中心地であったドルトムント(人口54万人)では、現在ではこれらの産業は停滞し、閉山されたり廃業されたりしている。ここは、かつて、香川真司選手(現在マンチェスター・ユナイテッドFC所属)のいたボルシア・ドルトムントの本拠地として、日本でも有名である。この町の北部にカフェ「ヨーロッパ」がある。ここに来ると、ヨーロッパ大陸を実感するといわれる。貧困のゆえに、故郷からここに来たEU市民が多数ここに集まっているのに遭遇する。一方、このカフェのある通りは、貧困、犯罪、暴力の集中しているところだと、この州の警察労組の委員長はいう。麻薬・覚せい剤の販売、売春、盗品の売買など日常茶飯事である。州の警察労組の委員長は、同僚によるコントロールがある程度できるまでには、厳しい壁があるという。これを、ドイツの「ゲットー」として重大な問題だ、という最近の論調がある。(ii)

 ドルトムント駅北側の同市の創設時からある古いビルから、警察により、ブルガリアなどからの娼婦が追われたのは1年前である。ゴミ収集場に住むルーマニアの8人家族が、そのビルにいて、住宅扶助200ユーロ(月)を受け取っていたのだが、忽然と消えたことも伝えられる。当局も、何ともとらえようがなく、失業者へのサービス提供などはもとより、犯罪等の集約すら不可能だという。

 2007年にルーマニア、ブルガリア両国はEUに加盟した。当時から両国の森の中で生活するもっとも貧しいロマ人のことが注目されていた。彼らは、社会主義の崩壊後、ある意味では解放されることになった。かつて、社会主義の政権下では教育や仕事が、若干なりとも強制されていたのである。しかし、社会主義の崩壊後、彼らの収容住宅は売却され、仕事もなくなった。

 両国のEU加盟後、移住の自由があることから、両国からのドイツへの流入者は、この6年間に3倍になったとの統計がある。両国からの移住者は、すべてが貧しいわけではない。ルーマニア人の医師については、ドイツで必要があり受け入れをしてきた。しかし、両国からの移住者の多くは、ドルトムントでも、かつての炭鉱と鉄鋼の町デュイスブルクでも、同様に失業者としての申請・登録すらしないのである。彼らはくず籠のような移動住宅に住み、気分次第で他所に移動してしまうので、子供の学校通学すらままならない。

 彼らは、ドルトムントのシュレスウィッヒ通りを中心に集中して住んでいて、その周辺の他の住民は困惑を隠せない。この通りには、炭鉱や鉄鋼業に受け入れられた外国人としてトルコ人が60年代に移住してきて住んだ歴史があるし、また、それ以前にはドイツ人も住んでいた。社会福祉担当のブリギット・ツェルナー氏によれば、ほとんどが字を読めないし、ドイツ語はもとより母国語の読み書きができないという。市当局は、それでも、男性については機材の修理工場などを公的に作り、そこに収容し、少しでも現金収入を得ることができるようにしている。しかし、職がなく、収入がなければ生活保護の対象者になるのである。

 ドルトムントには、このような状況で両国民が4000人は住んでいるという。彼ら1人当たり、平均して月250ユーロものコストがかかっているとされ、その結果、市全体としては、月に100万ユーロ(1ユーロ140円換算で、一・四億円)の負担である。これが、彼らの児童手当、住宅手当、医療補助に充てられるのだが、もちろんロマ人は社会保険には未加入のままである。

 かれらは、故国から小さいバスで、ブローカーの斡旋を通じて、1人当たり50ユーロを支払って、やってくる。ここでは、いまや炭鉱労働者は不要であり、かれらは、厩の仕事なら出来るというが、彼らを雇える農家もない。

 同様に、いち早く両国からのロマ人の移住が生じたイタリア、スペインの場合には、ロマ人の大家族での移動が行われてきた。しかし、両国は目下不況であり、ここからもロマ人がドイツに集中して移動している。

 ちなみに、両国からのドイツ全土への移住者数をみると表1のとおりである。

表1 ルーマニア,ブルガリアからの移住者数[単位千人]

2008年

17.9

2009年

21.4

2010年

41.2

2011年

58.2

2012年

70.7

 この間の両国からの移住者は2008年から2012年までに約4倍に増えていることがわかる。2013年5月から、移住の自由が100%保障されたのでさらに増えることが予想されるのである。

 職もなく、たくわえのないこれらに人々は、即、生活保護の対象とならざるを得ないので、生活保護の受給者数は増加の一途である(表2)。

表2 ルーマニア,ブルガリアからの移住者の生活保護[ハルツⅣ]受給者数

2001年12月

11,338人

2002年12月

14,409人

2010年12月

17,392人

2011年12月

22,000人

2012年12月

30,011人

2013年4月

35,384人

 2008年12月から2013年4月まで増加率はなんと212%になっている。同期間中の年率の増加率は、都市別では、デュイスブルクが96%増、マンハイムが81%増、ケルンが61%増、ブレーメンとベルリンが48%増、フランクフルト・アム・マインとハンブルクが35%増、ドルトムントが30%増であり、ドイツの大都市は軒並み深刻である。

 2012年4月から2013年7月の1年余をとっても、児童手当受給者数についても、ルーマニアからの移住者に関しては11736人から18814人に60%増、ブルガリアからの移住者に関しては、9745人から14445人に48%増で急激に給付者数が増加している。

 もちろん、両国からの移住者が働いて自立すれば、結構だが、たとえば建設労働については、アスベスト落としなどの求人しかないありさまである。家庭でのマットの掃除などにありつけたとしても、1枚でせいぜいのところ20ユーロと大した収入ではない。こうした状況にドイツ政府は、ルーマニア、ブルガリア両国政府にロマ人の帰還促進策を講ずるように求めているが、成功してはいない。

3 「銀熊賞よりビザを」

 ロマ人に関しては、徐々に定住をしているものの、仕事や教育面でも満足できる状況ではない。その一端を見事に記録した映画『鉄くず拾いの物語』(監督ダニス・タノヴィッチ)が、昨年のベルリン国際映画祭で審査員グランプリ(いわゆる銀熊賞)と主演男優賞をとり、現在日本でも上映されているので、ご覧になった方も多いと思う。この主人公(ナジフ・ムジチ)は、旧ユーゴスラヴィア連邦崩壊後のボスニア・ヘルツェゴビナに住む、ロマ人である。旧ユーゴスラヴィア時代、仕事や、福祉を一応、国が提供してきたのとは、まったく一変し、今では定職を得られず、したがって、病気の際の社会保険もなく、鉄くずを集めて家族を養っている。しかし、妻(セナダ)の急病に際して、医療保険もなく、私費では手術料も払えないことから、病院に治療を拒否される。ようやく、義妹の保険証を借りて、治療を受け、危機を脱する。

 この主演のナジフは、ベルリンに住みたいと考え、ドイツ(ベルリン市)に、難民のビザを申請するが却下される。もし、彼が、すでにEUに加盟している、ルーマニアかブルガリアからのロマ人であれば、上記のような手厚い保護を受けられるが、EU非加盟で、未だ国情が安定しないボスニア・ヘルツェゴビナからの移住者であることから、簡単には難民としての認定とビザも下りないのである。彼は、マスコミに、「銀熊賞よりビザを」と訴える。旧東欧諸国民でも、EUに加盟していないと、このように移住の自由は拒否されるのである。

(i)Migrationsbericht, 2013, S.14ff.

(ii)Alarm im Getto Dortmund, FAZ 13.9.2013

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