HOME > 書斎の窓
書斎の窓

特別企画

碧海純一先生を偲んで(2) 生涯の交流

碧海純一

Aomi Junichi

Profile

1924年生2013年歿。尾高朝雄教授に師事し法哲学を専攻,尾高教授急逝後,1959年に神戸大学法学部から東京大学法学部に転任,1985年東大定年退職後,放送大学,関東学院大学でも教鞭をとる。多くの法哲学研究者を育て,日本法哲学会理事のほか,法哲学社会哲学国際学会連合(略称IVR)の理事を長年務め,IVR名誉理事長の称号も受けた。1991年,その学問的業績に対し紫綬褒章受章。

仙台・東京・ハーグでの碧海先生

東北大学・東京大学名誉教授 樋口陽一〔Higuchi Yoichi〕

 私は、東北大学在学中、神戸大学ご在職であられた碧海純一先生の、若々しく熱っぽい講義の席に列する幸運を得たことを誇りにしております。1956年度の集中講義でありました。名著『法哲学概論』(初版1959年)の内容となる講義でした。のちに新版の「はしがき」で、「概論というジャンルにふさわしくない、やや生硬な発言」と謙遜しておられますが、だからこそ、必ずしも勉強熱心とばかりは言えない1人の学生にも、学問というものへの新鮮な知的好奇心を吹きこんで下さったのでした。

 それまでの哲学の多くの議論を、検証不能の仮象問題だと切り捌いてゆく快刀乱麻の講義でした。私は新制高校世代に属しますが、それでも旧制高校的な雰囲気の中で青年初期を過ごしていましたから、岩波文庫青帯文化の、しばしば本当の意味で生硬な訳文と習いたてのドイツ語を突き合わせ、わかったかのような尤もらしい議論をしていました。そんな次第でしたから、読んでわからぬ本は書いてある方が間違いなのだ、わからぬのに少しでもわかったような顔をするな、ましてそういう文章を書いてはならぬ、という一喝を浴びた思いだったのです。

 講義の中ではK・ポパーが大事な位置を占めていました。ポパーの評価については、東北大で西洋法史を講じておられた世良晃志郎先生と相通ずるところ多く、碧海先生ご自身、世良先生を大切な学問上の先輩として遇しておられました。碧海先生はまた国際法の小田滋先生と親しい同期生の間柄におられ、私自身、そういう知的環境の中で、先生とのお近付きを得るようになったわけでありました。長尾龍一さんと親しくなりましたのも、きっかけは碧海先生を通じてだったのです。

 学生として講義に接してから25年ののち、仙台から東京に出てきたばかりの私は、再び幸運にも、法学部3号館で先生の隣の研究室を割り当てられました。さっそくに先生から直々に、「法・法学とイデオロギー」を主題とする法哲学会大会で報告せよとの、強いおすすめを頂きました(1981年大会)。法哲学専攻者でない人間にとって、しかももう1人の、私法学からの報告者が星野英一先生という設定の場でのことでありましたから、碧海先生のたってのお話でなければ、到底お引き受けする覚悟など思いもよらぬことでした。このときの報告では、1980年前後の論壇で宮沢俊義先生の「八月革命」論に対して一定の政治的文脈の中で向けられていた批判を念頭に置き、批判の仕方を方法論的に批判するという問題提起をしたつもりでありました。星野・碧海両先生ともに相次いでのように私達のもとを去られた今、往時を思い感慨深いものがございます。

ハーグの小田邸での碧海先生(左)と小田先生ご夫妻。(写真提供:樋口)

 碧海先生と小田先生ご夫妻の写眞で大切にしているものがあります。1990年代ハーグ近郊の小田邸でのものです。その鋭い論鋒と対照的であられた温容を偲びつつ、あらためて、先生の学恩に心からの御礼を申し上げます。

【特別寄稿】碧海純一君のこと

元国際司法裁判所判事  小田 滋〔Oda Shigeru〕

 君と私は戦後数年をへて、東京大学法学部の特別研究生として法学部研究室に在籍しました。私は第1合同、君は第3合同研究室ですから日頃の付き合いは有りませんでした。そこから私は東北大学に、君は神戸大学に転出するのですが、ほぼ其の時期に戦後第1回のアメリカ留学生が出発します。イェールに私、ハーヴァードに碧海、ミシガンに早川武夫の3人です。ハーヴァードとイェールは近いので、何度か行き来しました。私は3年イェールにとどまりましたが、あとのふたりはそれぞれ1年で帰国しました。

 碧海君はやがて東大に迎えられたことは風の便りに知りました。

 それから30年もたちましょうか。私がオランダの国際司法裁判所に勤務している間に何度か君を迎えました。ハーグの郊外のワッセナールの森のなかにオランダの国が建てた教授会館があります。小さなものですが、ここに専門の違う5、6人の教授がそれぞれ数週間滞在して交流します。碧海君はここが大変お気に入りで何度かきていました。もう東大を定年退官して後の事だったと思います。私ども夫妻は何度か車で迎えに行き、オランダ国内を案内したものでした。

 同君のご冥福を祈ります。

碧海先生を偲ぶ

東北大学名誉教授 太田知行〔Ohta Tomoyuki〕

 碧海先生には、研究室時代にご指導いただき、その後も家族ともどもお付き合いさせていただきました。以下では、わたくしが先生について特に感銘を受けたことを2、3申し上げます。

 研究室時代に、民法、刑法、法社会学専攻の助手・大学院学生7〜8名で、T. Geigerの『法社会学のための準備研究』(Vorstudieren zu einer Soziologie des Rechts)の読書会をしたことがあります。そのうちこれを活字にしたいという話になり、『法学セミナー』に打診したところ、established scholarが見て下さるのならば、という返事でした。そこで、われわれは、経験法学研究会でご指導を受けていた碧海先生にお願いに行きました。読書会参加者には法哲学専攻者はいなかったので、先生がこれをお引き受け下さるか、みな心配しました。先生は快く引き受けて下さり、『法学セミナー』に連載できました。川島武宜先生は、『ある法学者の軌跡』(有斐閣、1978年)のなかで、碧海先生について、若い研究者の新しい研究をエンカレッジすることが学問の進歩にとり重要だと考えている数少ない日本の学者、という趣旨を述べておられますが(355頁参照)、このエピソードはこれを裏書きしています。

 先生は、行動と思考へのことばの影響力につよい関心を持っておられました(先生の東大におけるゼミで最初に読んだのは、S・I・ハヤカワ『思考と行動における言語』でした[平井宜雄『教壇と研究室の間』、有斐閣、312頁])。表現の仕方については、「雅馴な表現」や大和ことばを使うことを薦めておられました。これは、「晦渋で生硬な造語……を選び、鬼面人を驚かし、それによって特別な情緒的感銘力を狙う」(「社会・人文科学の立場からみた日本語の諸問題」『日本文化会議月例懇談会収録集』91号〔1977年1月〕9頁)新左翼系の論者の文章に前途有為な若者が酔い、バランスのとれた思考ができなくなり、集団的狂信に陥り、過激な行動に走ることを、大学紛争を経験された先生が憂えておられたからだと思います。

 また、先生自身も、自分の考えを正確に人に伝えるためにいろいろ工夫しておられます。たとえば、豊富なボキャブラリーをうまく使って、自分のいいたいことが、相手の心に残るような表現を心掛けておられます。文化大革命について、この表現を「ピックウィック的な表現」、文革自身を「毛沢東という古今未曾有の人間公害」と呼ぶように。

 言論人の責任についての先生のお考えもこの関心に由来します。先生は、「文章は、必ず、署名付で発表しなさい」といわれました。これは、無責任な内容の文章の抑止のみならず、文章の修正を求める編集者への防波堤と考えられたからでしょう(「日本の言論界の自己検閲について」『経済論壇』1981年8月号2頁参照)。

 また、先生は、重要な問題については、世間の空気に異を唱えることを厭われませんでした。とくに目立つのは、文化大革命、さらには、毛沢東思想への批判です。文革の初期から、これについて、「狂信的な毛派が『ひとにぎりの権力派』を攻撃すると称して、時代錯誤的な精神主義と排外思想を7億の民に強制している」(「総選挙と中国の文化大革命」『社会思想研究』1967年2月号1頁)と批判され、その後も、このような批判を何回も公にしておられます(「バランス思考のすすめ」『Voice』1979年2月号109頁)。

 当時、文革に関する日本の大新聞の論調は、「サンケイを除いて……中国権威筋の公式発表に多少の尾ヒレをつけて報道するだけで、戦争中の新聞の大本営発表と比べてさして変わ」らない状態(前掲「日本の言論界の自己検閲について」)であり、また、大学には「造反有理」、「革命無罪」のスローガンが溢れており(安田講堂封鎖は1968年7月)、中国研究者の大部分も文革を礼賛するか沈黙していました。このような時代に、一般の情報媒体で文革批判、毛沢東批判を繰り返されたことには、その洞察力もさることながら、誠実さ、勇気につよい感銘を受けます。

 碧海先生は、学問的、人間的に立派な先生でした。ご冥福をこころからお祈りします。

碧海先生とアルプバッハ

東京大学名誉教授 濱井 修〔Hamai Osamu〕

 今から40年以上も前、私は長尾龍一さんの紹介で碧海先生の謦咳に接することができました。以来、学問上はもとより、広く社会的な活動に至るまで、先生から数々のお導きを頂いてきました。また私的にも、先生の冗語で言えば「アオミ・マフィア」の一員に加えて下さり、折に触れ、直弟子の方々と先生のお宅にお招き頂きました。時には奥様ともご一緒に「スクラッブル」ゲームに興じたことなど、昨日のことのように想い起こされます。

 ここでは、先生と共有させて頂いた数々の経験の中の1つ、オーストリアのチロルの小村、アルプバッハで開かれた学際的な国際会議「ヨーロッパ・フォーラム」での先生の思い出をお話しいたします。先生が1970年代から80年代にかけて数年間、ほぼ毎年参加されていた会議に、私も78年に米国に長期出張した際、往路の途中で参加させて頂きました。

 アルプバッハは、村全体が緑の牧場(ウィーゼ)の中にあるような美しい処です。私どもの分宿先は「大公の館」という大仰な名前の民宿でした。先生はこの民宿も大変お気に入りで、年末恒例のサーキュレーションレターでも「館」の女将への謝辞を欠かすことはありませんでした。

 78年の4泊5日程の会議では、先生は全体会議の基調講演者の1人でしたが、先生は講演の原稿を用意しなければと言いながら、別に心配されている風にも見えず、もっぱら会議参加者諸氏との交歓に日夜を過されていました。ビールはコップ2、3センチで「致死量です」と言って、りんごジュースを飲みながら会話を楽しまれる。その嬉しそうな様子は、日本における先生からは想像できないもので、あまりの「はしゃぎぶり」に、同行した上原(行雄)さんが「先生、どうかしちゃったんじゃないか」と本気で心配した程でした。

 肝心の講演の方はと言えば、にこやかに登壇した先生は「グーテンターク、マイネ・ダーメン・ウント・ヘレン」とドイツ語で挨拶してから、格調高いキングズイングリッシュで持論の「日本語論」を展開されました。その明晰な語り口は、多くの方々がよくご存知のとおりです。講演の内容は、手厳しい批評家ぞろいの参会者たちの間でも大好評で、何人もの方が「よかった、よかった」と言ってくれました。私もあらためて先生の魅力ある人柄と深い学殖に感じ入った次第です。

 会議を了えてアルプバッハを後にした先生が、ウィーンに立ち寄って、大好きなオペラを楽しんでから帰国されたことは申すまでもありません。

碧海先生の思い出

日本銀行総裁 黒田東彦〔Kuroda Haruhiko〕

 私は、 1963年に東京大学文科第1類に入学し、 1967年に同大学法学部を卒業しました。法学部では、碧海先生の講義やゼミに参加し、先生の明噺な論理と大胆な主張に深く感銘を受けました。

 駒場の教養学部の時代から、私は、分析哲学に関心を抱き、友人たちと語らって「分析哲学研究会」なるものを立ち上げておりましたので、碧海先生から教えを受けたポパーやラッセルの哲学自体は新奇なものではありませんでした。しかし、それを通じて先生が法哲学の難問を次々に解明していかれる、そのお姿には強く魅了されました。

 講義やゼミで大いに学ぶうちに、先生のご自宅にお呼びいただき、卒業後も先生とのお付き合いは続きました。とくに、毎年の正月に、長尾先生など碧海先生のお弟子さんたちに交えてご自宅にお招きいただき、奥様やお子さんたちも加わってゲームをしたり、様々な議論を戦わせたりしたことが、懐かしく思い出されます。

 法学部卒業後、私は、大蔵省(現財務省)に入省し、 2年後の1969年に英国に留学することになりました。その際、碧海先生はポパーへの紹介状を書いてくださいました。ポパーに会いに行く勇気のなかった私は、せっかくの先生の紹介状を無駄にしてしまいました。これについては、今も申し訳なく思っております。

 その後、私が留学から戻ってからだと思いますが、碧海先生やそのお弟子さんたちとともに、ダイヤモンド社から出版された「現代思想」の1巻『批判的合理主義』にポパーの論文「弁証法とは何か」などを翻訳する機会を与えられました。先生からのご支援もあって、何とか翻訳をいたしましたが、これが哲学に関する私の唯一の貢献となりました。

 私は、帰国後、大蔵省以外にも、いわき税務署、 IMF、三重県、大阪国税局など、いろいろな勤務地を転々とし、碧海先生にお会いする機会もなくなってしまいましたが、年賀状だけは差し上げておりました。しかし、それも、私が2003年に退官し、一橋大学教授を2年勤めた後、 8年もマニラのアジア開発銀行に勤務しております間に、途絶えてしまいました。

 今回、長尾先生から、碧海先生が逝去され、 「碧海純一先生追悼シンポジウム」が開催されることをお知らせいただき、参加させていただいた次第です。改めて碧海先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

人文的教養と科学への関心 ――そのミスマッチを超えて

北海道大学名誉教授 松村良之〔Matsumura Yoshiyuki〕

 私、東京大学で、はじめは川島武宜先生のもとで法社会学を勉強し、川島先生の退官後、碧海先生のもとで勉強させていただきました。私、お2人の比較みたいなことをどうしてもしてしまいます(拙稿「70年代の川島法社会学から見えてくるもの」、法律時報 8‌2 , 2010)。一言で言えば、碧海先生は典型的な人文的教養の人で、いわゆる理系とはほど遠いところにおられたと思います。それにもかかわらず科学への関心が高かったわけです。また、先生はその出自において物理学とか数学色の非常に強い論理実証主義の立場から研究をされたわけですが、人文的教養と理系への関心のミスマッチが気になっておりました。先生の科学への関心を示すエピソードは大変多いのですが、そのなかから私の印象に強く残ったものを述べさせていただきます。

 最初はコンピュータの話です。70年頃に先生のご努力で、法学部でコンピュータプログラミング(FORTRAN)の授業が始められました。当時は汎用機の時代で、媒体はカードです。法学部の1室に、カード穿孔機が設置されました(ものすごい音がでますから、多くの方に嫌われたと思います)。工学部の森口繁一教授と筧助手が来られて、碧海先生に説明されているとき、私、その場に立ち会いました。もっとも、先生の質問で印象に残っているのはコンピュータの話ではなく、筧助手に帝国大学法学部時代のあの筧克彦教授と縁続きかという質問されたことですが。先生はジュリメトリックスにご関心があり、バーデの本の編訳者をされているほどですから、単なる好奇心を超えたコンピュータへの関心だったのでしょう。また、先生は理学部の後藤英一教授(パラメトロン計算機の創始者で計算機の歴史では有名な方)と親交があったわけで、コンピュータへの関心は、たぶんジュリメトリクス以前からでしょう。

 2番目は、原子力と関わる話です。先生は終戦に近い頃、海軍見習士官として、長崎県川棚の海軍工廠に配属されていました。そのとき広島に新型爆弾が落とされたのですが、技術将校はだれ1人としてわからなかったが、私は、それが原子爆弾であるということはすぐにわかった、というお話を何回かお聞きしました。私は、それが戦後の科学技術の分野への関心と自信の源の1つになったような気がします。

 以上、先生の科学への関心のエピソードのごく1部だけ述べて参りましたが、その関心が人文的教養人としての先生とどういう関係に立つのかということが結局わからずじまいでした。でもそのあたりのミスマッチが、先生のユニークな法哲学の原動力の1つになったような気がします。

 もし先生がお元気だったらと思いつつ、もうひとつ話をさせてください。先生は社会と人間という文脈の中で、ヒトの進化、そしてヒトの持つ言語能力の高さに強い学問的関心がおありでした。ところで、ここ10年くらい、社会心理学の中では、人間の特性をホモサピエンスの集団生活の中での淘汰と適応の結果として説明するいわゆる進化心理学の立場が広がっています。もともと先生は、エドワード・ウィルソンのSociobiology(1975年)に大変関心を持たれていました(そのころは、Sociobiologyは多くの科学者からはまともな学問とは見られていませんでした)。そして、言語学もここ20年くらいで、ニューロサイエンス、コンピュータサイエンスの急速な進展とともに劇的に発展しました。これらの学問の発展を前にして、先生がお元気なら、どういう風にお感じになられたかということを知ることができないのは大変心残りです。

 謹んで哀悼の意を表させていただきます。

関東学院大学時代の碧海純一先生

一橋大学大学院法学研究科教授 青木人志〔Aoki Hitoshi〕

 碧海純一先生が最後にお勤めになった関東学院大学法学部は、新設の若い学部でした。私は先生とともに設立メンバーとなり、先生の同僚として4年間を過ごしました。1期生を迎えた1991年4月当時、先生は67歳の最年長教授、私は29歳の最年少専任講師でした。

 当時の私は刑法の担当者で、直接の恩師は一橋大学の福田平教授でした。偶然にも碧海先生と福田先生は東大の特別研究生時代からの親友であり、しかも、お2人は若い頃、神戸大学法学部の同僚として過ごしていらっしゃいました。そのようなわけで、碧海先生は、私が福田門下だと知るとたいそうお喜びになり、私をかわいがってくださいました。

 学部生時代から碧海先生の御著書を愛読していた私は、先生と初めて、しかも同僚としてお目にかかることができたのみならず、先生が温かく接してくださることに感激しました。

 新設学部ゆえ当初は1年生しか学生がおらず、授業もわずかしかありませんでした。おまけに、最年長の先生と最年少の私には、学内行政上の忙しい仕事はまったく回ってきませんでした。そこで、私は当時の同僚の花本広志さん(現獨協大学教授)と相談し、「一緒に勉強会をやっていただけないでしょうか」と先生に申し入れました。先生は、にこにこ笑って快諾してくださり、先生の御発案で、最初はカール・ポパーの『客観的知識』の一部を英語で読み、そのあと、アンリ・ベルクソンの『創造的進化』の一部をフランス語で読みました。

 碧海先生を囲むたった3人だけの贅沢な勉強会を、私たちは小田原の山の上のキャンパスでかなり長く続けました。昨年(2013年)9月の追悼シンポジウムに資料として提供した碧海先生とカール・ポパーの往復書簡(霊魂崇拝と言語の発生に関して論じた1993年秋のもの)も、その折に先生が私にくださったものです。ポパーさんのことを、親しみと尊敬をこめて「サー・カール(Sir Karl)」と呼んでいらした先生が、「サー・カールとこんなやり取りをしましてね。」とおっしゃって、コピーをくださった。私はそれを、20年間、「宝物」として大切にしていました。

 そのほかにも先生は、勉強会の最中に思い出話や雑談をたくさんしてくださいましたが、繰り返しお話しになる、お気に入りの話題がいくつかありました。そのひとつが、最初に赴任なさった神戸大学法学部がとても楽しい職場だった、というお話でした。

 先生は私にむかって、「神戸の教授会では、あなたの先生の福田さんが言いたいことを言ってねえ。」とおっしゃっては、「うっふっふ」と、何度も思い出し笑いをなさっていました。この点について、昨年卒寿をお迎えになった福田先生御本人からも証言を得ているのですが、福田先生も「たしかに言いたいことを言った。」とお認めになっていました。ただし、碧海先生のお話とちょっとだけ食い違いがあり、福田先生は、それにつけ加えて、「碧海君が横から『ああ言え、こう言え』って、そそのかすもんでね。」とおっしゃっていました。

 実に60年も前の、私など生まれてもいない頃の話なので、真偽のほどは定かではありませんが、いずれにせよ、碧海先生は伸び伸びとした神戸大学に楽しい思い出をおもちで、関東学院大学の教授会でも、若い教員が年長教授に遠慮せず発言をすると、それだけで、「この教授会はじつに素晴らしいですね。」と喜んでくださいました。 

 先生は、若手教員のみならず若い事務職員にも、愛されていました。先生はしばしば出勤途中の小田原駅で好物のシュークリームを1個だけお買いになっていらしたのですが、ある日、それをキャンパスのどこかに袋ごと置き忘れてしまうという事件が起こりました。碧海先生が庶務課の窓口に御相談にいらしたと聞いた若い教職員が、「いざ鎌倉」とばかりに「碧海先生のシュークリーム」を捜索するために続々と馳せ参じ、無事に探し出してさしあげたのでした。

 このように先生は、最後の職場となった関東学院大学を、最初の職場であった神戸大学の楽しい御記憶と重ね合わせて眺めてくださり、関東学院大学の若い教職員は、先生を敬愛していました。

神戸大学時代の碧海先生(前列向かって左)。井上茂氏(後列)・福田平氏(前列右、写真提供)とともに。

 最後にもうひとつだけ思い出話を。関東学院大学の同僚に及川廣太郎先生という数学の教授がいらっしゃいました。碧海先生は及川先生と大の仲良しでした。偶然にも及川先生は碧海先生の御実弟と幼稚園からの大親友で、そのためお2人の先生方もまた、文字通りの幼馴染みだったのだそうです。

 あるとき私のゼミの女子学生が、「碧海先生と及川先生がカワイイんですぅ!」と言うのです。いったい何のことかと思って聞いてみると、学生食堂でお2人の最長老教授が、「ジュンイチちゃん」「コータロちゃん」と呼びあって、仲睦まじく、定食のおかずのフライにソースをかけあっていた、と言うのです。及川先生は、早くにお亡くなりになりましたので、いまごろ、お2人の先生方は、久しぶりの再会を喜びあっていらっしゃることでしょう。

語学の達人 碧海純一先生

一橋大学大学院法学研究科教授 森村 進〔Morimura Susumu〕

 私は東京大学法学部の講義とゼミで初めて生身の碧海先生に接しましたが、お目にかかったり電話で話したりすることが一番多かったのは、1980年から83年にかけて東京大学の助手として先生の指導を受けていた時です。その頃先生は「科学と社会研究会」という文部省科学研究費を受ける研究会を主宰していて、私はその事務も担当していたため、ほとんど隔日の頻度で先生と話をする機会がありました。

 碧海先生の人となりの中で私にとって1番印象に強いのは、驚くべき語学の才能です。私が参加した先生の学部ゼミでは、J. M. Bochenski という哲学者がドイツ語で書いた哲学入門書の英訳を読んでいたのですが、その中にbyという前置詞が出てきたときに先生はこうおっしゃいました。(以下は直接話法による不正確な再現です。)

 「このbyはむしろatの方が適当だね。おそらく訳者は原文にbeiとあったのを“byと英訳したのだろう。しかしドイツ語のbeiは「のもとに」という意味で、フランス語のchez、ラテン語のapudにあたるが、英語にはそれにぴったり対応する言葉がない。多くの場合はatと訳していいが、inの方が適当なこともあるよ。」

 当時学生だった私は、大学教授というものはこんなに外国語に通じているのかと感嘆したのですが、自分が研究者になってみると、英独仏ラテン語の前置詞のニュアンスの相違について楽々と話せる人は大学教授の中でも例外中の例外だということを知りました。

 先生は外国語の発音についても厳正でした。先生は英語とドイツ語を流暢に話しましたが、特にドイツ語の発音には自信を持っておられて、当時のNHK教育テレビのドイツ語講座のドイツ人出演者の発音が悪いから替えるべきだとNHKに電話したところ、「我々にはドイツ語の発音の正しさはわかりませんから」という責任逃れの対応を受けた、という話を伺ったことがあります。

 また先生はギリシア語はご存じありませんでしたが、私が古代ギリシア語のアクセントは強弱(ストレス)ではなく高低(ピッチ)だと申し上げたところ、「そのピッチは何度なのかね」と質問されて答えられず、発音への先生の関心の深さに感じ入りました。

 惜しくも42歳で亡くなられた先生の息子さん碧海尚雄氏は、言語学研究者で非常な語学の天才だったそうですが、これも先生と英米文学者である碧海美代子夫人の遺伝によるところが大きかったに違いありません。

 (この文章では私的な回想だけを述べましたが、碧海先生の法哲学に関する私の批評は、計画されたが刊行に至らなかった碧海先生古稀記念論文集のために元来執筆した拙稿「法概念論は何を問題にしているのか、またすべきなのか?」『一橋大学法学部創立五十周年記念論文集 変動期における法と国際関係』有斐閣、2001年所収、にあります。)

ページの先頭へ
Copyright©YUHIKAKU PUBLISHING CO.,LTD. All Rights Reserved. 2016