連載
第10回(最終回) 教育を「国際化」するとは
千葉大学法経学部教授 酒井啓子〔Sakai Keiko〕
2013年9月、アメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」に、「大学ランキングが助長する知的孤立主義」という記事が掲載された。アメリカの大学ランキング評価で、論文発表数や引用数ばかりが重視されており、実務面での貢献が評価されていないので、特に国際政治学の分野では、外交など政策に関与した学者が所属する大学が不当に軽視されている、というのが、その記事の内容である。
日本の大学も最近では、世界大学ランキングや論文引用数ばかり気にせざるをえないようになった。年度末、自分の論文の数やページ数、それがどれだけ他の論文に引用されたかを数えて、あちらこちらに報告しなければならないのは、いまでは春休みの学者の面倒な恒例行事となっている。それが、多くの同業者にとっていかに鬱陶しいことか。そんなことをしている時間があったら、発表論文数をもうひとつ増やせているかもしれないのに。
日本の場合は、さらに別のプレッシャーがかかっている。国際的に活躍する人材を育成しているかどうか、という視点での大学評価だ。最近のビジネス誌を読むと、いかに英語ができる人材が企業に必要とされているかの特集が、非常に多い。文部科学省は、数年前から「国際的に魅力ある大学院教育」を行う大学を支援する事業を推進している。数々の大学、大学院で英語での教育コースが増えていることも、その一環だ。
大学を出て英語が読み書きできるようになるべきなのは、当たり前だし、そこで得た知識をもって、世界を股にかけて活動してほしいということには、全く異論がない。だが筆者が危惧するのは、それを推進するうえで、理念と実態が全く乖離しているのではないか、ということである。
英語での教育ばかり推進してもしかたがない、とは、この連載で以前にも指摘した通りだ。そもそも「国際人」を育成するために、「英語で教育を受けさせればそれですむ」と考えるところが、おかしい。学部の低学年の学生に、いきなり政治学の英語の論文をテキストに使っても、英語がわからないのではなく、その内容がわからない場合がほとんどだ。結局は日本語で専門科目の基礎を理解し、そのうえで、同じ内容を英語でどう表現するかを理解する、というステップを踏まなければならない。
つまり、教育の英語化を真面目にやろうとすれば、大学の教員は、日本語と英語でこれまでの倍の授業を教えなければならなくなる。どんなバイリンガルの教員でも、最低でも倍の時間を教育に要する、ということだ。それほど英語に堪能でなければ、もっとたいへんだ。そんなことをしている時間があったら、発表論文数を増やして大学ランキングを上げることができるかもしれないのに。
なので、つい一番簡単な対処方法、つまり外国人の教員を雇って、ネイティブによる英語の授業を行うことでお茶を濁そうとする。それでは街角の英会話学校か、よくても欧米の大学の分校にしかならなくなってしまう。あるいは、「欧米の大学への留学が自動でついてくる」とか、「欧米の大学の学位も一緒にとれる」ということを売りにするケースも多い。分校どころか、海外留学の受付窓口にすぎない、ということか。
だが、日本の大学で、英語で授業を行う意味がない、といっているのではない。むしろ逆である。ただ、筆者が考える英語での授業は、その意義が違う。
先日、イラクの日本大使館に勤務する外交官と意見交換をする機会があった。戦後10年を経て国家再建にまい進しているイラクでは、石油収入も順調に伸び、学生を海外に留学させる資金的余裕も出てきた。そこで、日本を含めてさまざまな国に留学させたい、というのである。
90年代の湾岸戦争、経済制裁と2003年のイラク戦争、その後の内戦と、20年以上、国際的に通用する教育を受けてこなかったイラク人の若者を留学させるというのは、人材育成の観点から極めて重要だ。イラクだけではない。アフガニスタンやパレスチナ、シリアなど、紛争で国家や社会をズタズタにされてきた国の若者は、頼れる資源は自ら得た知識しかない。そう考えて、教育に力を入れる家族が多い。
特に中東諸国では、欧米とは異なる知識、教育を求めて日本に学びたいと考える学生が、多い。欧米の分校化した日本での英語教育ではなく、欧米とは異なる日本独自の学問を学びたいと考えているのだ。そこに、日本の大学の英語での教育のニーズがある。
だが、残念ながら、日本の教育機関にそれを十分実現する力がない。最大の理由は、大学教育をいくら英語化しても、日本社会が日本語を話せない外国人を長期に受け入れる体制にないことだ。下宿を探すところから苦労するし、教師とは英語で話し合えてもさまざまな事務手続きが、日本語でしかできない。紛争国、途上国出身者にとって、日本語をあらかじめ自国で学ぶ機会は、皆無だ。
第2の理由は、そうした紛争国の学生を受け入れたいと個人の教員が思っても、大学全体で受け入れられるかどうかは別問題だということだ。イラク専門家である筆者が、イラク人学生をなんとか受け入れてあげたいと思っても、筆者ひとりでその学生の必要履修科目を、その学生のためだけに教えるわけにはいかない。
だいたいその学生が、受け入れたいと思う教員と全く別の分野を日本で学びたい場合、その教員にとってはその学生を受け入れることは重要だけれども、その学生が学びたい分野の教員にとっては、そんな受け入れは何の価値もない、と考えるかもしれない。
なによりも、紛争国、途上国の学生は、そもそも英語自体があやしい場合が少なくない。だからこそ、海外での教育機会を求めているのだが。その場合、他の欧米先進国や新興国からの留学生と同じ水準で教育するわけにはいかない。となれば、こうした学生には別枠で教育を施すコースを造らなければならない。教員が教える授業数はどんどん増え、研究自体に割く時間はどんどん少なくなる。
最後の理由は、これぞ日本で学ぶことの意義、と誇れる教科書が、英語で存在しないことだ。地域研究でも、政治学でも、日本語で教える際には、これぞ、という教科書や基礎文献が、日本語で与えられる。しかし英語で教えることになると、畢竟テキストは英語文献となる。これでは欧米の学者が書いたものを借りてきて教えるだけの授業になってしまう。
政府は、論文の英語での発表ばかりを推進するが、日本人研究者の教科書的著作を英文に翻訳して国際的に打って出よう、という発想は、あまりない。日本語の優れた著作が翻訳されていないのは、残念だ。
だが、より深刻なことは、教科書を翻訳するとしても、その中身がちゃんとあるか、ということである。日本で地域研究や政治学を学ぶ場合、それはどのようなメリットがあるのか、欧米ではなく日本で「日本の中東研究」や「日本の国際政治学」を学ぶことの意味をきちんと説明できる教科書が、どれだけあるだろうか。
地域研究者は、自身が現地で調査を行うことが基本なので、研究対象地域の研究者との協力が欠かせない。途上国の大学の先生たちが、自分たちの学生を育て教育するのに、日本の大学教育の助けを借りたいと言ってきたときには、できるだけのことをしたいと考えている。イラクを研究する者はイラクの、アフガニスタンを研究する者はアフガニスタンの、パキスタン研究者はパキスタンの学生が日本で学びたい、と言ったら、その夢をかなえてあげたいと思う。
だが、学位を出し学生を受け入れるのが大学という組織だということを考えると、教員個人や教員間のプライベートなネットワークだけで、どうにかなるものではない。学生のニーズに合わせて、組織の箱にとらわれない大学間の壁を越えた教育ネットワークを形成し、オールジャパンで留学生を教育できるシステムを構築しないと、対処できない。
欧米の分校でも英会話学校でもなく、国際的に活躍したいと考える日本人学生や留学生を育てていくには、日本で学ぶことにこそ意味がある、という大学教育を、日本に作り上げなければならない。
それは、日本というものを発信しなければならない、ということではない。教える国の「らしさ」を出すには、教える国のことを知ってもらおうと押し付ける必要はないだろう。
たとえば、イギリス。イギリスの大学を訪れるといつも思うのだが、そこで中東を教えている教員に、生粋のイギリス人がいない。教員の多くは中東出身で、中東からの留学生を教えている。
それこそが、イギリスの中東研究の強みだ、と思う。同じシリア出身の教員がシリア人学生を教えるのでも、イギリスで教えるのと本国シリアで教えるのとでは、根本的に違う。
そんな形で、留学生教育に「日本らしさ」を出すことは、大きな意味があるのではないか。