自著を語る
『日本のジェンダーを考える』の執筆を終えて
同志社大学政策学部教授 川口章〔Kawaguchi Akira〕
秋山講二郎さんから、ジェンダー論のテキストを書かないかというお話をいただいたのは、4年前のことである。その前年に、私は研究書『ジェンダー経済格差』(勁草書房)を上梓していた。それは、企業内の女性差別と家庭内の性別分業という2つの制度が相互依存関係にあること、そして日本的雇用制度はそれらの制度を前提として成り立っていることを検証したものである。幸い『ジェンダー経済格差』は、研究者の間では好意的な評価をいただいたが、大学院レベルの経済学の知識がないと十分に理解できないため、一般の学生や社会人には読みにくい内容だった。いつか前著をわかりやすく書き直し、多くの人が読める内容にしたいと思っていた。
また、前著に対しては、ジェンダー研究の草分け的存在である竹中恵美子氏を始め、多くのジェンダー研究者から質問、意見、批判などをいただいた。東京大学の上野千鶴子氏は、ゼミのテキストとして使用してくださったうえ、ゼミ生が報告の際に作ったレジュメのコピーを送ってくださった。そこにはたくさんの疑問や意見が書かれていた。こうした読者からの疑問や批判に答えたいという気持ちが募っていたときだったので、テキスト出版のお話は、まさに渡りに船だった。
秋山さんから提案された構想は、実に魅力的だった。幼児期の躾、学校での教育、就職、結婚、出産、育児、キャリア形成、老後の生活など、人生のそれぞれのライフステージにおける性役割の問題を議論し、人生の岐路に立つ読者にアドバイスしようというものだった。それぞれのライフステージを独立の章とし、それに、日本の経済システムに潜む女性差別構造やジェンダー平等政策に関する章を加えて、十章程度の本にする方針が決まった。この構想は、時間切れで書けなかった一部のトピックを除いて、完成版にも生きている。
社会構造と選択
個人の人生における選択は、性役割の社会構造のなかに組み込まれている。また、個人の選択の集積が社会構造を再構築するのである。
性役割の社会構造は、社会規範と経済構造からなる。性役割の社会規範とは、「男は仕事、女性は家庭」という基本的な規範に始まり、結婚の際は夫の姓を選択する、世帯主は夫とするなど、性別によって異なる行動の基準のことである。規範から外れた行為は、心理的な制裁を受ける。
それに対し、性役割の経済構造とは、男性に収入が偏り、女性が男性に養われるというお金の流れを必然化する経済制度である。それは、企業の女性差別的雇用制度と家庭の性別分業からなる。女性は、男性のように会社優先で仕事ができないため、企業は、採用、教育訓練、配置、昇進などあらゆる機会に女性を差別する。それが男女の経済的地位の格差を生み、「夫は仕事、妻は家庭」という性別分業を生むのである。
性役割の社会構造は客観的にみれば極めて不平等なものであり、社会的、経済的な地位の男女格差をもたらしている。そのような不平等を隠蔽し、性役割を道徳的に正当化する役割を果たしているのが、男らしさ、女らしさという観念である。育児は女らしい行為であり、なかでも乳幼児の育児はとりわけ女らしい行為とされる。単に多くの女性が育児をしているからというだけでなく、母性本能というイデオロギーによって女らしさの美徳が強調される。他方、会社勤めは男らしい行為であり、なかでも管理職の仕事は特に男らしい行為とされる。指導力や統率力は男らしさの代表的属性である。
戦略としての男らしさ、女らしさ
男性が男らしく、女性が女らしく振舞おうとするのは、社会からの賞賛や制裁によるだけでなく、パートナーをみつけるための戦略でもある。パートナーをみつけようとするとき、男性はより男らしく、女性はより女らしく振舞う。デートのとき、車の運転をするのは男で、お弁当を作るのは女である。そのために、男性は運転の練習をし、女性は料理の腕を磨く。
男らしさと女らしさは、対概念であり、互いに補完的な役割を果たしている。男らしさも女らしさも美徳であるが、一方だけでは不完全である。だから、両者を併せ持っている人間こそがより完璧な人間といえるかもしれない。もし、結婚という制度がなく、男も女も自立して生きて行く社会であれば、男らしさや女らしさの観念が生まれることもなかっただろう。
男らしさと女らしさが補完的であるということは、男らしい人間と女らしい人間のカップルが安定的結婚生活を営めるということを意味する。それは、家庭内の性別分業の非合理性と不平等を隠蔽する。
若者へのアドバイス
執筆の過程で生じた最も大きな困難は、本書のセールスポイントとなるべき若者へのアドバイスが書けないことだった。秋山さんからは、何度も「もっとアドバイスを」と注文されたが、どうしても書けないのである。
人生の岐路に立ったとき、どちらを選択すべきか ―― 読者の人生を左右する問題について、一面識もない私に何が言えるだろう。そもそも、読者が千人いれば千の違った人生があるのだから、一般的なアドバイスなど何の意味があるのだろうか。書き進んでいくうちに、そのような思いがだんだん強くなってきた。
考えてみれば、私自身、これまで他人のアドバイスなど余計なお世話だと思って生きてきた。もちろん、健康についての医者のアドバイスや、研究についての先輩研究者のアドバイスなど、専門家のアドバイスは大いに受け入れるが、人生についてのアドバイスはいらぬお節介だ。自分で決めれば、うまく行かなくても諦めがつくが、人の勧めに従って失敗すれば、悔いが残る。客観的情報はありがたくいただくが、アドバイスはいらない。そう考えて生きてきた私が、読者に人生のアドバイスをするなどできるはずがないではないか。
それに気づいた私は、結局、アドバイスを本書のセールスポイントとすることを諦めた。本書のねらいは、「はしがき」にある次の言葉に尽きる。
本書は人生の指南書ではない。どうすれば上手に生きられるかを教える書ではない。本書は、ジェンダーに関わる問題についての答を出すよりも、むしろ読者に問いかけることを目的としている。人生で繰り返し経験する性役割の不条理に、あなたはどう対処するだろうか。
矢の催促
「原稿の提出が遅れて申し訳ありません」。この1年間ほど、秋山さんへのメールはすべてこの言葉で始まっていた。気長に待ってくれていた秋山さんも、ついに業を煮やしたか、それとも、ここが潮時と悟ったか、春ごろから催促が厳しくなってきた。
「月末までに完成原稿をお願いします」、「参考文献リストを作成しましたのでご確認ください」、「初稿をお送りします」、「至急、校正原稿をお送りください」、「索引用の原稿をお送りします」、「カバーのデザインを選んでください」……。こちらは、まだ書き直したいところがいっぱいあるのに、どんどん編集作業が進んでいく。あれよあれよという間に作業が進み、気がつくと、9月初めには、太田保子氏による装丁のきれいな本が出来上がっていた。
9月15日に本書が無事出版されて10日ほど経ったころ、秋山さんからメールが届いた。「この9月末で有斐閣を定年退職することになりました」という内容だった。このとき、春に始まった矢の催促の理由がわかった。秋山さんには本書の出版に方をつけてから退職したいという強い思いがあったに違いない。本書の出版が、有斐閣での秋山さんの最後の仕事となったことには運命的なものを感じる。感謝の気持ちでいっぱいだ。秋山さんとの出会いがなければ、本書の企画はなかったし、あの叱咤激励がなければ、今も私は、原稿を書いては消し、書いては消しを繰り返していることだろう。
読後感
献本させていただいた方から、感想のメールや手紙をいただくのは、実にうれしいことである。つくづく出版してよかったと感じる至福のときだ。もちろん、謹呈のお礼なので、お褒めの言葉しか書かれていない。しかし、その褒め言葉にも、形式的なものから、読後感が率直に伝わってくるものまでさまざまある。後者のほうが数倍うれしいことは言うまでもない。
「エッセイ風のものも書くんですね」―― 実は、どのような文体にするかで散々悩んだ。これまで、長い文章といえば論文しか書いたことがなかったので、どうしても論文調の硬い文体になってしまう。試行錯誤を重ねた末に到達した文体は、「エッセイ風」と表現されるものになったようだ。論文調の文章からの脱却に悩んだ私にとってうれしい言葉だ。
「はしがきのエピソードは身につまされます」―― 複数の男性から同じような感想をいただいた。「はしがきのエピソード」とは、私が学生のころ、海外旅行に行ったときに出会った、熟年夫婦のエピソードである。些細な出来事だが、なぜか30年近く経った今も、ときおり思い出す。この本を書きながら、その理由がわかったような気がする。
「とても過激な内容なので、読み出したら眠れなくなりました」―― 「生ぬるい」という批判がくることは覚悟していたが、本書を「過激」と評する人がいるとは思わなかった。日本企業に対する批判は、確かに過激かもしれない。
「娘の父親としていろいろ考えさせられました」―― 文章を書くことの責任の重さを改めて感じさせられた言葉である。