HOME > 書斎の窓
書斎の窓

連載

経済学へのタイムトリップ

第9回 HDIの目指したもの

中央大学名誉教授 中村達也〔Nakamura Tatsuya〕

ハックとセンの交叉

 今からおよそ半世紀近くも前の1968年、パキスタンの都市カラチで、ある1人の若い経済学者の講演が行われた。壇上に立ったのは、パキスタン政府の計画委員会主任エコノミスト、M・ハック(M.Haq)であった。その頃、パキスタンは、10年以上にもわたって年率6%を上回る経済成長を続けていた。パキスタンを代表する知識人の1人であり、この好景気を生み出した5カ年計画の立案者のハックであるから、政府の経済政策の成果を声高らかに語るのではと、聴衆の多くは予想していた。

 ところが、ハックの口をついて出たのは、全く予想外のものであった。政府が「開発の10年」と呼んだ期間を通じて、東西パキスタンの所得格差は2倍以上にも拡がり、平均賃金は3分の2にまで下落した。限られた一部の家族に富が集中し、経済成長の果実は一般国民の生活水準の向上には結びついていなかったし、医療も教育もまだまだ後進的であった。目覚ましい経済成長が喧伝されればされるほど、そうした問題から目がそらされてしまうことを、ハックは強調した。後になって彼は、国連開発計画(UNDP)局に働きかけて、国際機関やエコノミスト達の間で定着していた、GDP一辺倒の発想に代わる独自の立場からの報告書作成を提案したのであった。こうして生まれたのが、『人間開発報告書(Human Development Report:HDR)』であり、ハック自身は、1990年から1995年まで、この報告書の執筆責任者として活動した。

 そして、この『人間開発報告書』創刊に際してハックを支援したのがA・セン(A. Sen)であった。パキスタン出身のハックとインド出身のセンとは、祖国が共通の困難な問題を抱えていた経済学者同士ということもあったし、ほぼ同じ時期にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだ間柄でもあったし、それに何よりも、センの提唱する「潜在的可能性(capability)」の考え方に、ハックが強い関心を寄せていたからでもあった。

 第1回『人間開発報告書』(1990年)は、こんな文章で始まっている。「人間開発とは、人々の選択肢を拡大するプロセスである。特に重要なのは、長寿で健康に生き、教育を受け、人間らしい生活が送られるようにすることである。それに加えて、政治的な自由、人権の保障、そして自尊心を抱ける状況が重要な意味をもつ」。実は、ほぼ同様の文章が、センのDevelopment and Freedom,1999(石塚雅彦訳『自由と経済開発』日本経済新聞社、2000年)の中にも確認できる。「われわれのいう人間開発は、個人に付与される可能性の領域を拡大させるプロセスである。すなわち、健康で長生きすること、学識が深いこと、きちんとした生活レベルを約束する資産を自由に利用できることなどが、基本的な要求である。さらに、政治的自由、人権の享受、自尊心がそれらに加わる」と。

HDIの誕生

 『人間開発報告書』で初めて提示された人間開発指数HDI(human development index)は、人間の福祉を3つの次元から捉える。すなわち、(1)長寿で健康であること、(2)教育を十分受けていること、(3)十分な所得があること、である。(1)を表現するものとして、出生時平均余命、(2)を表現するものとして①成人の平均識字率、②初・中・高等教育総就学率、(3)を表現するものとして1人当たりGDPが採られる。

 そして、考察対象の国連加盟百数十国のうち、最高のレベルにある国の数値と最低のレベルにある国の数値の間のどのあたりに、当該国の実際値が位置しているのかを表現する。すなわち、

このようにして求められた3つの次元指数を「足し算」して3で割ったものが人間開発指数ということになる。すなわち、

ただし、教育指数に関しては、成人識字指数と総就学指数の2つの指数にそれぞれ3分の2 、3分の1のウェイトをつけて、

が求められる。

 さらに1人当たりGDPに関しては、GDPの額が大きくなるにつれて、福祉に及ぼす影響が相対的に小さくなることを考慮して、1人当たりGDPそのものではなく、それの対数値によって表現する。つまり、

このようにして求められたHDIは0〜1の間の数値によって示され、1990年版以降、毎年度公表されて、福祉と人間開発のレベルを知るための重要な指標として関心を集めてきた。

 しかしハック自身は、「HDIはGDPよりも人々の暮らしの実態を的確に描き出せるとはいえ、GDPと同様の欠点を多数抱えている」と述べて、HDIの限界についても十分意識していた。「足し算」された集計値としてのHDIだけでなく、各領域の個別の数値を併記するという方式を採ってきたのも、その表れかもしれない。そしてA・センは、ハック以上に、HDIの限界を強く意識していたようである。20周年記念号となった『人間開発報告書』2010年版に寄せた序文の中で、彼はこう書いている。「人間開発のアプローチはきわめて広範なものであり、HDIという限定的な指標が人間開発のアプローチのすべてだと思い込んではいけない」、「HDIのような単一の数字に、さまざまなテーマを次々と押し込むのは大きな失敗のもとである」と。ハックとともに『人間開発報告書』の創刊に関わった当事者にしては、かなり手厳しい批評といわねばならない。1998年に逝去したハックは、もちろんこの20周年記念号を見てはいない。

HDIの再定義

 『人間開発報告書』2010年版では、それまで使用されてきたHDIに大きな改訂がいくつか施されている。まずは、人間開発を再定義してこう記している。「人間開発とは、人々が長寿で、健康で、創造的な人生を送る自由、そのほか、意義ある目標を追求する自由、さらには、すべての人類の共有財産である地球の上で、平等にそして持続可能な開発のあり方を形づくるプロセスに積極的に関わる自由を拡大することである。人々は個人としても集団としても、人間開発の受益者であると同時に、推進役でもある」。

 「この再定義は、持続可能性、平等、エンパワーメントという課題、そしてこのアプローチの本質的特質である柔軟性といった人間開発の核をなす考え方の強調を意図したものである。人々がみずからの選択により、家庭・地域社会・国家のレベルでさまざまなプロセスに参加し、そのプロセスを形づくり、その恩恵を受けることを可能にする必要がある。つまり、人間開発はエンパワーメントを目指すものでなければならない」。

 「人間開発は所得の域を大きく超えるものであるのと同時に、HDIの保健、教育、所得といった3つの構成要素の域をもまた大きく超える。私たちは人間開発の概念を再確認するにあたって、機会の分布、人々が自らの将来を形成する力の度合い、そして現在の選択が将来に及ぼす影響を考慮に入れる必要性を強調した」と。つまり、人間開発は、これまでのHDIの内容を含みつつも、それを大きく超えるものであることが確認されたのである。

 そして、HDI指標それ自体に関しても、次の2つの改訂があった。まず、従前は

と算術平均で求めていたのが、

と、幾何平均で求めるよう変更されている。

(そして教育指数もまた、

と算術平均で求めていたものが、

へと幾何平均で求めるよう変更されている)。

 従前は、3つの次元指数を「足し算」して3で割るという手続きによってHDIが求められていた。しかし、こうした方式では、ある1つの次元指数の値が小さくても他の次元指数の値が大きければ、「足し算」された全体の値には現れにくい。つまり、ある次元の状態の悪さが他の次元の状態の良さによって代替されてしまうかのように現れてしまうのである。そうした弊害を避けるために、2010年版では、3つの次元指数を「掛け算」したものの3乗根を求める方式へと変更した。すなわち、3つの領域の数値のうちいずれか1つでも低い数値があると、HDIの数値が低く現れ、3つの領域の数値がほどよくバランスがとれているとHDIの数値が高く現れるよう工夫されたのである。

 もうひとつの改訂が、不平等調整済みHDI、つまりIHDI(Inequality-adjusted Human Development Index)の採用である。従前のHDIでは、平均余命指数も、教育指数も、所得指数も、いずれも平均値で示されていたのだが、実際には、平均余命も教育も所得も、国民の間に不均等に格差を含んだ形で分布している。そこで、格差の度合いに応じて各次元の指数を、A・アトキンソンの不平等指標系で割り引いてIHDIを求めることにしたのである。(具体的な手順の詳細は、『人間開発報告書2010年』のテクニカル・ノートを参照されたい)。

 かくして、【図1】で示されているように、IHDIは、各国の格差の度合いに応じて、それぞれにHDIよりも小さいものとなっている。すなわち、HDIは格差が全く存在しない極限的な場合を示した数値であって、潜在的に可能なIHDIの最大値ということになる。【図1】のA列は、HDIの国別順位を示したもの、C列はHDIの数値、D列はIHDIの数値をそれぞれ示している。さらに、E列はIHDIの順位をHDIの順位と比較したものを表し、例えばアメリカは、HDIでは第3位であるが、格差が大きいことを反映して、IHDIでは順位が13番下がって第16位となることを示している(残念ながら、日本のIHDIは、適合するデータがないため計上されていない)。

 さらに、従前のHDIで用いられていた1人当たりGDPに代わって、1人当たりGNIが採用されていることも付け加えておこう。経済のグローバル化によって、国外で活動する人々が増え、GDPとGNPとの間の差額が大きくなる傾向がある。そのため、国民の福祉を表現するものとしては、国内総生産(GDP)よりも国民総生産(GNP)、そして生産よりも所得での表現として国内総所得GNIが採用されることになったのである。

図1 HDI及びIHDI 資料:『人間開発報告書2013年』

順位

国名

HDI

IHDI

(不平等調整済みHDI)

順位

変化

出生時

平均

余命

平均

就学

年数

予測

就学

年数

一人当たりGNI

(2005年・PPP$)

2012年

2012年

2012年

2012年

2010年

2011年

2012年

1

ノルウェー

0.955

0.894

0

81.3

12.6

17.5

48,688

2

オーストラリア

0.938

0.864

0

82.0

12.0

19.6

34,340

3

アメリカ

0.937

0.821

-13

78.7

13.3

16.8

43,480

4

オランダ

0.921

0.857

0

80.8

11.6

16.9

37,282

5

ドイツ

0.920

0.856

0

80.6

12.2

16.4

35,431

6

ニュージーランド

0.919

...

...

80.8

12.5

19.7

24,358

7

アイルランド

0.916

0.850

0

80.7

11.6

18.3

28,671

7

スウェーデン

0.916

0.859

3

81.6

11.7

16.0

36,143

9

スイス

0.913

0.849

1

82.5

11.0

15.7

40,527

10

日本

0.912

...

83.6

11.6

15.3

32,545

11

カナダ

0.911

0.832

-4

81.1

12.3

15.1

35,369

12

韓国

0.909

0.758

-18

80.7

11.6

17.2

28,231

13

香港

0.906

...

...

83.0

10.0

15.5

45,598

13

アイスランド

0.906

0.848

3

81.9

10.4

18.3

29,176

15

デンマーク

0.901

0.845

3

79.0

11.4

16.8

33,518

16

イスラエル

0.900

0.790

-8

81.9

11.9

15.7

26,224

17

ベルギー

0.897

0.825

-1

80.0

10.9

16.4

33,429

18

オーストリア

0.895

0.837

3

81.0

10.8

15.3

36,438

18

シンガポール

0.895

...

...

81.2

10.1

14.4

52,613

20

フランス

0.893

0.812

-2

81.7

10.6

16.1

30,277

21

フィンランド

0.892

0.839

6

80.1

10.3

16.9

32,510

21

スロベニア

0.892

0.840

7

79.5

11.7

16.9

23,999

23

スペイン

0.885

0.796

-1

81.6

10.4

16.4

25,947

24

リヒテンシュタイン

0.883

...

...

79.8

10.3

11.9

84,880

25

イタリア

0.881

0.776

-4

82.0

10.1

16.2

26,158

26

ルクセンブルグ

0.875

0.813

4

80.1

10.1

13.5

48,285

26

イギリス

0.875

0.802

2

80.3

9.4

16.4

32,538

28

チェコ

0.873

0.826

9

77.8

12.3

15.3

22,067

29

ギリシャ

0.860

0.760

-3

80.0

10.1

16.3

20,511

30

ブルネイ

0.855

...

...

78.1

8.6

15.0

45,690

ジョージェスク=レーゲン、カップとの交響

 ところで、右でも述べたように、20周年記念号の序文で、センはこう書いていた。「人間開発のアプローチはきわめて広範なものであり、HDIという限定的な指標が人間開発のアプローチのすべてだと思い込んではいけない」と。そして、20周年記念号の本文でも、「人間開発は所得の域を大きく超えるものであるのと同時に、HDIの保健、教育、所得といった3つの構成要素の域もまた大きく超える」と指摘されている。現に、1990年の創刊以降、【図2】で示されているように、これまでにも実に広範な分野での人間開発の状況を示す多面的なデータが紹介、検討されてきたことが分かる。さながら、前回取り上げたカップの「最小許容限界」の「明細目録」を連想させるかのようである。

図2 『人間開発報告書』のテーマ

年度

テーマ

1990

人間開発の概念と測定

1991

人間開発と財政

1992

人間開発の地球的側面

1993

人々の社会参加

1994

「人間の安全保障」の新しい側面

1995

ジェンダーと人間開発

1996

経済成長と人間開発

1997

貧困と人間開発:貧困撲滅のための人間開発

1998

消費パターンと人間開発:人間開発に資する消費とは

1999

グローバリゼーションと人間開発:人間の顔をしたグローバリゼーション

2000

人権と人間開発:自由と連帯を目指して

2001

新技術と人間開発:新技術を人間開発に役立てる

2002

ガバナンスと人間開発:モザイク模様の世界に民主主義を深める

2003

ミレニアム開発目標(MDGs)達成に向けて

2004

この多様な世界で文化の自由を

2005

岐路に立つ国際協力:不平等な世界での援助,貿易,安全保障

2006

水危機神話を越えて:水資源をめぐる権力闘争と貧困,グローバルな課題

2007/2008

気候変動との戦い:分断された世界で試される人類の団結

2009

障壁を乗り越えて:人間の移動と開発

2010

国家の真の豊かさ:人間開発への道筋

2011

持続可能性と公平性:より良い未来をすべての人に

2012

将来の食糧確保に向けて

2013

南の台頭:多様な世界における人間開発

 また、センは「HDIのような単一の数字に、さまざまなテーマを次々と押し込むのは大きな失敗のもとである」と述べていたのだが、これまた前回取り上げたジョージェスク=レーゲンの、欲求の代替不可能性の議論を思い起こさせる。ジョージェスク=レーゲンは、人間の欲求を、生物的欲求、社会的欲求、個人的欲求の3つの領域に区分し、それぞれの領域間では欲求が代替不可能であると指摘していたことは、すでに紹介した。HDIの一項目である平均余命はいわば生物的欲求に連なるものと見ることもできようし、教育は社会的欲求に連なるものと見ることもできよう。そして所得は、それを元に個人的欲求を満たすことにつながると見ることもできよう。これら3つは、本来、次元の異なるものであって、「足し算」によって1つの指標として集約して表現することには無理があるはずのものであろう。20周年記念号では、HDIをそれぞれの次元指数の算術平均から幾何平均に変更することによって、そうした問題への対応を示したのであるが、やはりそれは便宜的な措置と見るべきであろう。ところで、20周年記念号の『人間開発報告書』には10頁にわたる膨大な参考文献リストが載せられているのだが、そこにはジョージェスク=レーゲンの名もカップの名も見当たらない。しかし、20周年記念号の内容は、図らずもこの2人の問題提起としっかりと交響しているのである。

ページの先頭へ
Copyright©YUHIKAKU PUBLISHING CO.,LTD. All Rights Reserved. 2016