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書斎の窓

連載

地域研究は楽しい

第9回 「ムサッカフ」の陥穽

千葉大学法経学部教授 酒井啓子〔Sakai Keiko〕

 エジプトに滞在していたとき、週一で掃除に来てくれていたおばさんと親しくなった。借りていたマンションの大家が、ある地方都市の名家出身だったようで、実家で代々使用人として雇っていた一家の娘を私の家に寄越したのだ。生まれたときから使用人として教育され、学もないし文字も読めない。貧しくて、レンガ造りの粗末なアパートの、ほとんど踊り場を改造してドアのかわりに布を掛けただけの六畳一間程度の家に、子供2人と住んでいる。だが、彼女と話していると、その聡明さに驚かされることが多かった。

 大家の大奥様が亡くなったときのことである。葬儀に行くのに、彼女が黒の喪服を持っていない。その時に彼女が言ったのが、こうだ。「エジプトじゃ黒じゃなきゃダメ、っていうんだけど、昔出稼ぎに行っていたサウディアラビアでは、喪服として白だってかまわなかった。人の死を悼む気持ちに変わりはないのにね」。

 伝統的なエジプト社会は、基本的に保守的である。地方都市の旧家の使用人として育ってきた彼女の生活環境は、ただひたすら保守的だったに違いない。雇い主が白を黒と言えば黒なのが、彼女たちが生きてきた世界だっただろう。

 それが、服装は本質ではないと看破するリベラルさ、自由な発想を持っていたことに、恥ずかしながら吃驚したのだ。彼女は私の黒のブラウスを、きついきついと文句を言いながら着こなし、殊勝な顔をして葬儀に参列した。

 もうひとつのエピソード。イラク戦争後、イラク復興を支援する日本国際協力機構(JICA)が、イラク人学生向けに日本の大学院で学ぶ奨学制度を作った。隣国ヨルダンで面接試験をするというので、たまたまヨルダンに出張していた私も面接に同席させてもらった。そこで会ったのが、大学を出て公務員になったばかりの若い女性である。

 彼女の出身地は、首都バグダードのスラムともいわれる最貧困区だった。地方農村から、土地を捨てて都会に職を求めて移住してきた人々が住む地域で、貧困に加えて保守的、封建的社会慣習が色濃く残るところだ。そんな地域から、独身女性が1人で日本に留学しようなどと考えたこと自体が、驚きである。だいたいそんなことを家族が許すはずがない、と思ったが、反対されても絶対に行く、と言い張った。こんなところにこんな自由な考え方の持ち主が生まれるのかと、驚いたものだ。


 アラブ社会では、「文化人」を意味するムサッカフという言葉をよく使う。「知識人」とか「有識者」といったほうが近いかもしれない。だが、論壇を主導するとか名が売れている著作家を指すだけではなく、「物を知っている」、下手をすると「教育を受けている」程度の意味であることが、少なくない。大卒で仕事もなく、バイト程度に店番しているような若者が「俺はムサッカフなんだぜ」、と自負することもある。貧しいけど教育を受けている、という程度から、伝統的に名家出身で学歴も高く社会的影響力がある者まで、幅が広い。

 そのムサッカフと話していると、ときどき強烈な違和感を感じることがある。教育を受けていない最下層の人々に対して、曰く、「彼らは軍隊に入って初めて靴の履き方を覚えたのよね」。前述の、地方旧家の大家一族の葬儀には、私は呼ばれていたが、使用人の娘は呼ばれていなかった。私が、案内役として強引に連れて行ったのである。

 もちろん、ムサッカフの間には、教育のない貧困層を救済する措置をとらなければ、という問題意識は強い。むしろ、歴代の政治家、思想家たちは、中東諸国の階級社会をいかに克服するか、高邁な理想、政策を掲げてきた。伝統的な名家にとっては、貧しい人びとが社会から零れ落ちないように、福祉の手を差し伸べることが「ノブリス・オブリージュ」として当然の行為だった。共産主義や社会主義を掲げる政党は、都市、地方の貧困社会に支部を作り、大衆の教宣に力を入れてきた。

 だが、旧家の「ノブリス・オブリージュ」はあくまでも、使用人を一生使用人として、それなりの生活を確保してやる程度のものである。映画『風とともに去りぬ』で描かれる、白人から温かい待遇をうけ家族同然に育つ、アメリカ南部の黒人奴隷と近いものがあるかもしれない。

 ソ連の軍事侵攻からターリバーン政権までのアフガニスタンを題材にした、『君のためなら千回でも』という映画でも、アメリカに亡命した主人公一族は、カーブルの貴族階級の出身だった。アフガニスタンが共産化するまでともに育ってきた召使の子を、幼少時代の主人公が裏切り、後にその子を救いにターリバーン政権下の故国に戻る、という友情物語に出来上がっているが、その友情の前提にあるのは「貧しい人々に理解のある特権層」だ。

 左翼知識人はといえば、大地主の収奪、過酷な年貢取り立てにあえぐ小作人の窮状に心を痛め、社会の矛盾を糾弾する小説を書いたり映画を作ったりした。だが、共産党や社会党の党員のほとんどは、彼らよりも少し上の階級、都市の教員や自営業の家庭に生まれたものだった。

 今年、イラクの共産党は、統一地方選挙で久しぶりに獲得議席数を伸ばした。その理由のひとつに、議席を得るため地方でそこそこ名と顔が売れている人物を公認候補とした、ということがあるのだが、当選後、この候補は「議員として取るべき役割」をしっかり果たせなかったらしい。田舎者議員が議会政治に不慣れなせいで、県議会の重要ポストを逃した共産党は、にわか仕立ての非党員候補を「もっとちゃんと党教育しとかなきゃ」、と反省していた。


 教育のない民への、同情と蔑視がないまぜになった中東の「ムサッカフ」の姿が、グロテスクな形で浮き彫りになったのが、この7月にエジプトで起きた軍事クーデタと、その後のクーデタ政権を支える超一流のムサッカフたちの行動である。11月号のこの連載でも触れたが、「アラブの春」後、民主的な選挙で選ばれた大統領に対して、大規模な大衆抗議行動が組織され、それに乗った形で軍が、ムスリム同胞団の支える政権を倒した。民主主義的手法とは真っ向から矛盾したこの軍の行動に対して、ムサッカフたちは一様に支持を表明したのである。

 その後樹立された文民政権には、大統領には最高憲法裁判所裁判長が、首相には国際機関などの重職を歴任した、国際的にも有名な経済学者が任命された。外相には、日本やアメリカで大使を務めた経験を持つ、カイロ・アメリカン大学学長が就任している。今のエジプトで考えうる限りの欧米式知識人の超エリートをずらりと並べた、という感じだ。その超がつくエリート・ムサッカフたちが、民主主義とは到底言えない軍の行動を弁護し続けているのである。

 彼らが対抗するのが、ムスリム同胞団だ。ムスリム同胞団がなぜ2011〜12年の選挙で過半数を得て議会選、大統領選に勝利したかといえば、彼らが大衆、特に貧困層への浸透に成功していたからである。国内外からの寄付をもとに、孤児院を建設し病院を経営する。貧困層への福利厚生に尽力し、「社会的弱者の味方」という売りで、ムスリム同胞団だけではなく、イスラーム政党全般として、貧困層への支持を広げてきた。

 軍のクーデタでムスリム同胞団政権が倒れたことを喜ぶ、ムサッカフと自称する人々が苦々しく思ってきたのは、本来自分たちを支持すべき貧困層が、やすやすと同胞団の戦略に取り込まれたことである。イスラーム勢力はカネを持っている、海外から支援を受けている、だから左翼のムサッカフが貧困層を取り込もうと思っても、貧しく教育のない人々はイスラーム勢力の甘言に乗って、同胞団を支持させられてしまうのだ――。90年代後半にエジプトに滞在していたころから、こうした左翼の愚痴をよく聞かされたものだ。

 確かに、同胞団自体も決して貧困層の出身ではない。中核は、やはり高学歴の、ムサッカフである。イスラーム勢力に資金がなく、宗教を利用して大衆を丸め込まなければ、貧困層を魅了するのは左翼のほうのはずだと、左派系のムサッカフたちは、信じてきた。いや、信じたがっていただけかもしれない。

 このような議論は、ともすれば、「教育のない人々=二級市民」視に陥りがちである。選挙で勝利した同胞団の政権を軍を以て倒してもいいのだ、と考える発想の裏には、同胞団政権を支えた「民意」は真の民意ではない、という認識が見え隠れする。そして、広場に集い政府に抗議の声を上げるムサッカフ中心の「民衆」は、判断能力もなく同胞団支持に駆り出されたただの「群衆」とは違う、本当の「民衆」なのだと、密かに思っているのではないか。

 これは、エジプトに限った話ではない。エリートによる賢人政治か、衆愚政治に陥る民主主義か。世界が共通に抱え続けてきた問題である。

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