法制執務用語研究会[著]『条文の読み方』<2012年3月刊>(評者:早稲田大学 山野目章夫教授)=『書斎の窓』2012年7・8月号に掲載= | 更新日:2012年7月11日 |
法制執務を嗜む
法律の話であるからには、法文を示してしなければならないことは多い。大学はともかく、学校でない場所で講義ないし講演をする場合において、どうしても法律を専門に学んだ人々ばかりが聴衆ではないから、内容と共に、そもそも法文は、どのようにして読むことが求められているか、ということを話題とせざるをえない。しかし、えてして、そのような話のほうが、聴衆の関心を呼ぶことは、ときに経験することである。
定期借地権の制度を解説する際には、聞き手の手許に借地借家法の22条と23条の法文を配り、「23条のなかが、三つの部分に分かれていますが、この一つ一つは項とよばれます。それで……あっ、でも、前から3番目の席の貴方、にやにやして失礼な想像をしていましたね。2項と3項は項の番号があるのに1項にないのは、講師の資料調製の際の過誤にちがいない、とか考えていたでしょ。失礼ですよ」とか述べて笑いを得てから、おもむろに「慣行上、一項には項番号を附さないことになっています」と説明すると、皆さん、妙に感心して聴いてくれるものである。
法令というものを知るために
かくして、およそ法律というものに関わり、何らかの意味でその運用に参画する限り、法令というもののなりたちを知らなければならない。このたび刊行をみた法制執務用語研究会『条文の読み方』は、いま述べたような類のことが(項番号の説明は第1部Q7)、ハンディにまとまって書かれている。手に取って、ほどよく薄いこともよいし、定価も安い。学生諸君に、そして、すでに法律を職業としている方々にも読んで欲しい。存外、プロといわれている人たちでも、知らないことは多いのである。「山野目君、民法の法文が現代語化されて、便利になったのは良いけれど、うっかり条の見出しを書き落としている場所があるの、君、知ってたかね」と、老大家に話しかけられたときは、本当に困りましたね。その先生が挙げるのは、284条であるが、そんなものはそこに限らずいくらでもあり、そしてそれらは過誤でも何でもない(共通見出しの説明も第1部Q7)。“こんなこともご存知ないのか”という気配が顔に出ないようにしながら、その先生の理解を穏やかに正さなければならず、冷や汗が出たものである。同じような話で、こんなこともあった。原稿を受け取った編集者から電話があり、いわく、「ご送稿をいただき、ありがとうございました。早速に入稿いたしましたが、先生の御原稿を拝見しますと、時の字が変換されず仮名のままになっていたところがありました。お忙しいなか、本当にありがとうございます。当方で全部直しておきましたから、ご心配に及びません」と。思わず私の血が逆流したことは、いうまでもない(「とき」と「時」の区別について第2部⑤)。
専門家でない皆さんも
本書のはしがきに従い、法制執務という言葉を用いるならば、それを知る、ということは、さらに法律の専門家でない方々にも関心をもっていただきたい。戦後日本の自衛隊の発展を跡づけるように、自衛隊法76条以下は、条の番号が変則である。時事的に話題になることも多く、たとえば79条2項と79条の2を取り違えた記事も、まれにある。本書を読んで法制執務に関心をそそられた読者であるならば、この枝番号の問題、そして、その反対事象である「削除」、さらに、それと「削る」(第1部Q2)の区別など応用問題に挑むことも期待したい。
文章読本として用いる
本書は「読み方」という表題であるが、上手に用いると「書き方」の修練にも役立つ。法文は、論理的に明晰な文章の一つの見本であるからである。曖昧な文章と言えば、「どうしてこうも学生の書く文章は……」と愚痴を述べることが教師の習性であるが、大学の掲示板を眺めていると、教師の側が学生に達する際の文章にも問題は多い。「レポートは必ず来週の月曜日までに提出のこと。書面で作成するものとするが、データで提出することは、結構」。和語の「結構」は、多義的である。おそらくデータで提出することが禁止されていないとしても、許容されているか、推奨されているか、ニュアンスが伝わらない。「レポートをデータで提出することも妨げない」とするならば(第2部⑪)、許容されていることが明確になる。似た応用問題として、「正当な理由により試験を欠席した学生に対し、教師は、字数を制限し、または字数を制限しないで、レポートを課するものとする」とかいうのは、オシャレである(「または」を仮名にするのは後述参照)。字数制限の有無という論点があることを、中立の姿勢で伝えようとしている(法令の実例は民事執行法36条1項、近時の例では東日本大震災復興特別区域法46条1項)。大学の掲示板などでは、「字数を制限することもあるから注意すること」などとされたりするが、制限があるほうに傾く語感を醸すのではないか。だいいち、すこし威張った書き方である。
大学の先生も自戒して
話がずれるようであるが、大学で教師が達する際の文章が、妙に威張った精神論がめだつことを私は、いままでも気になっていた。「レポートは必ず来週の月曜日までに提出のこと」の「必ず」は要らないであろう。月曜日が経過して提出があった事実が認められない者に対しては、淡々と不提出の効果が生ずるのみである。それから、同じことを何度もリマインドする先生もいる。しかし、日本の法制執務は、論理的に重複する法条を設けることをしない。改正に際し、従前の規律との論理的な関係を検討し、新法のほうが論理的に重複していたり射程が大きかったりする場合は、旧法を廃する(廃する方法の解説は第1部Q10)。そうしないと、とくに文言の差異がある場合など新旧の関係について読み手を困惑させる。どうしてもリマインドが望まれる場合には、規範の性質や上下関係を明らかにしてすることが望まれる。「細則の定めで月曜日までにレポートを提出することになっているから、そのことに留意することを求める」という掲示であれば、これは運用通達でしかなく、そこで新しく規範が設けられたものでないことが明らかである。
もっとも、欧米の法制は、ここでいう旧法の規律をホッタラカシにしておくこともみられる。そこからも窺うことができるように、日本の法制執務は、私の知る限り、その精密さにおいて、世界に冠たるものである。明治このかた欧米に追いつこうとして近代法典の編纂と運用を急いだ日本が、一世紀余りの間に高い水準に達したことを私たちは、一つの条件を留保して、すなおに誇ってよい。
法制執務を相対化する
留保とは、驕るなかれ。どうしても本書のようなことを知ると、知ったかぶりをして言いたくなる。しかし、銘じておかなければならないことは、あくまで一つの見本であって、絶対ではない、ということである。金銭などを交付して消費貸借を成立させることは、法制執務は「貸し渡す」である(民法465条の2第1項)のに対し、司法研修所の教材は「貸し付ける」である。三権が分かれているのであるから、立法府の文章の書き方に司法府は縛られない。同じことは、私たち個人も、そうである。本稿筆者の執筆の際の内規(自分では公式令という渾名でよんでいる)は、法制執務とは異なることが多い。「又は」・「及び」(第2部①・②)などは漢字を用いないし、「その他」・「その他の」の区別(第2部③)はせず「など」を用いることとし、括弧内の「以下……という。」は、「これからあと……という」(句点を打たない)というふうに、である。
絶対視してならない、ということの補足で述べるならば、世界に冠たるものに育った日本の法制執務も、じつは発展の歴史があったのであり、一日にして成ったものではない。たとえば「入会林野等に係る権利関係の近代化の助長に関する法律」の「助長」。いくつかの目配りのうえに言うならば、それは、一つのスキャンダルとみられても仕方のないものであった。それから、開明性に富む印象がある1946年憲法でも、時代の制約を受け、思わず差別感覚が見えている個所がある。「その保護する子女」(26条2項)の「子」は男の子をいい、女の子を弾き出してしまっている。シモーヌ・ド・ボーボワールが『第二の性』を著わして追求しつづけた主題にほかならない。この感覚を克服した今日の日本の法制執務が、childrenを表現するのにどのような言葉を用いているか、調べてみることも興味をそそりはしないか。
あるいはまた、絶対視しない、ということとは少し異なるが、法制執務のみ(法制執務“だけ”としない)見るのではなく、その奥にあるものも、見ていただきたい。たしかに、何人も麻薬を譲り受けることを“してはならない”のであって、譲り受けることが“できない”のではない。それは、麻薬の譲受けという事実たる行為を禁ずる文脈であるからである(第2部⑩)。しかし、あるいは、そうであるからこそ、では、そのときの麻薬の売買は有効であるか、が問われる。取締法規違反の法律行為の効力という民法の論点が、じつに法制執務のその奥に控える。
法的思考のおくゆき
“ことができない”が出てきたところで、余談を一つ。canもcannotも、名詞のあとに直接に「できる」・「できない」をくっつけることはしない約束である。「解除することができる」であって、「解除できる」は避ける。ひどい答案になると、「解除を請求できる」などというのもあり、汚いこと、このうえない。こうして見ると、法文などで美しい文章を書くことができるためには、単に有職故実を知っている、とかいうことでなく、表現しようとするものの法的構成という中味を理解していることが大切である、という思いにゆきつく。衆議院の「解散ヲ命ス」と書いた1889年憲法の起草者は、形成権の行使ということの意味を理解していないのではないか。46年憲法の悪口を言ったから、ここで名誉を復するとすると、この点において今の憲法は、きれいに書かれている。
トランスナショナルな感覚も
などなど、思わず本書を片手に持ちながら机上には六法を置いて、いろいろなことに考えを巡らしていたら、存外の時間が過ぎた。この至福の時を恵んでくれた本書に謝したい。そして最後に一つ。国境を跨いで物事を考えるとき、たしかに本書も紹介するとおり日本の法文を和語で確かめることができるデータベースが有用である(第1部Q16)と共に、その翻訳を海外に提供するホームページ(日本法令外国語訳データベースシステム)の意義も併せて強調しておきたい。たしかに、それは法文の正文でなく、公定訳でもないけれど、日本政府が運営するサイトであるからには、すくなくとも公的に推奨された翻訳である意義をもつ。このようなことを強調するのは、日本法が準拠法になって法的紛争が処理されることは少なくなく、海外の法廷や仲裁廷に提出して日本法を理解してもらう必要がある場面もあるからである。そのとき、何よりも法文が訳されていなくて、なんとしようか。世界に伍して法制執務を築いてきた私たちであれば、そこにも関心を向けて発信に怠りなきを期すること、それは、可能であると信ずる。
(やまのめ・あきお=早稲田大学大学院法務研究科教授)