書評 憲法基本判例を読み直す | 有斐閣
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野坂泰司[著]『憲法基本判例を読み直す』<2011年6月刊>(評者:大阪大学大学院高等司法研究科 棟居快行教授)=『書斎の窓』2011年10月号に掲載= 更新日:2011年10月24日

1 はじめに

 著者は研究室の直近の先輩であり、その端正で実直な人となりはよく存じあげてきたつもりだが、研究会などでその学風に直接に触れる機会は、学統を異にする評者には、残念ながらこれまであまり与えられてこなかった。ところが、2004年に開始された法科大学院教育は、学界内部の些細なムラ意識や、国別・テーマ別の役割分担の感覚(これは悪くすれば「縄張り」といった形で学問の発展を阻害する)を洗い流すに十分すぎるインパクトをいわゆる実定法学者に及ぼしたのであり、研究者養成の枯渇や研究時間の搾取という死活的に重大な負の側面から一瞬だけ目をそむけるとすれば、本書の出現のような喜ばしい成果物が目に入ってくる。これまでアメリカの重厚な司法審査制研究を下地に、憲法訴訟論の各論点についてのみ学生向け解説を自らに許してきたとおぼしき著者が(信教の自由など人権論の領域での学問業績にも事欠かないにもかかわらず)、主要な憲法判例(大法廷判決のみ)を素材として毎回一話完結風の解説を2005年から2008年にかけて月刊誌『法学教室』(有斐閣)に連載し(同誌でのタイトルは「判例講座 憲法基本判例を読み直す」)、さらに2章を追加し、全21章の構成で本書(初の単著である)の出版に踏み切ったことは、法科大学院制度のゆえ以外の何物でもないであろう。
 「はしがき」を引用すれば、「本書の狙いは2つある。1つは、タイトルの示す通り、憲法の基本判例を読み直し、当の判例に関する理解を深めることである。判例を読み直すことによって、これまであまり問題にされてこなかった論点に気づくということがあるかもしれないし、従来当然とされてきた理解とは異なる理解に到達するということがあるかもしれない。……もう一つの狙いは、憲法の基本判例を読み直すという作業を進めながら、改めて、日本の憲法訴訟がどのようなものとして実現されているか、また、憲法訴訟を通じて日本国憲法がどのように具体化されているかを明らかにすることである。」すなわち、第一の狙いとして、あくまで憲法「判例」そのものの分析が意図されており、それ以上に憲法判例の読解を通じて憲法解釈の体系を提示するなどが目指されているわけではないこと、第2の狙いとして、著者の関心はあくまで「憲法訴訟」から離れていないことが、周到に宣言されている。
 もっとも、右の「憲法訴訟を通じて日本国憲法がどのように具体化されているかを明らかにする」というくだりは、筆者の僚友であり同門の先達でもある戸松秀典教授の名著『憲法訴訟』(有斐閣、初版2000年、第22008年)の「はしがき」の「何が現実の憲法内容であるかを把握し、把握したところを整理して示すことに憲法訴訟研究の主たる役割がある」という一節(同書ⅰ頁)を想起させるものがある。戸松教授はここで、「憲法訴訟」ないし「憲法裁判」の考察が、日本国憲法の「現実の憲法内容」の把握にとって必須であることを明瞭に宣言しているのだが、本書の筆者である野坂教授にあっても、積年の「司法審査制」および「憲法訴訟」の研究が単なる一分野の研究にとどまらない、という手応えを密かに持っておればこそ、「基本判例の読み直し」を本書の狙いの第一に挙げることが出来たのではないか。「読み直し」は筆者自身の思い込みを改めるだけの営みではもちろんなく、むしろ学界に共有されている判例の位置づけに異を唱えるというチャレンジを意味する。それはとりもなおさず、憲法判例が日本国憲法の意味づけに他ならないのであれば、学界が憲法判例というファインダーを通して捉えてきた「日本国憲法」そのものの理解に異を唱えるというチャレンジに他ならないであろう。 

2 本書の特徴をランダムに

 本書は第1章が郵便法違憲判決(平成14年)、第2章警察予備隊違憲訴訟判決(昭和27年)、第3章第三者所有物没収違憲判決(昭和37年)、第4章苫米地事件判決(昭和35年)、第5章三菱樹脂事件判決(昭和48年)、……第18章猿払事件判決(昭和49年)、第19章東京都管理職選考受験拒否事件判決(平成17年)、第20章旭川学力テスト事件判決(昭和51年)、第21章国籍法違憲判決(平成20年)と配列されており、教科書的体系的配列とも年代順とも無関係の、文字通りランダムな構成をとる。こうした章立ては、本書が筆者の憲法学の体系的理解とは無関係の、あくまで法科大学院等での学習教材として編まれていることを形をもって示すとともに、一章ずつが読み切りのものとして書かれていることをも意味している。
 読み切りというのは、判例の時代背景や事件をとりまく政治的状況はもとより、判例としての積み上げないし発展の歴史さえも、本書の主たる関心事ではないということである。大げさに言えば、本書における判例の扱いは、こうした意味で反社会科学的であり、また反歴史主義的でもある。むしろ、作品の構造を分析し作家の世界観をえぐり出す文芸評論の、ある種の手法に近いものを感じるのは評者だけではあるまい。また、最高裁大法廷判決が、戦後すぐのものであれ最近のものであれ、こうした分析的手法に耐えるだけの堅牢な構造を有していることを、本書はわれわれに良く知らせてくれる。
 むしろ、筆者は判例の論証の流れに自ら入り込み、多数意見やそれと同等に重視された個別意見の裁判官と相まみえ、もっぱら論理的に刃を交わす。2000年代の判決も、昭和20年代の判決も、大法廷判決として以後の下級審や小法廷判決を事実上拘束するだけの説得力はあったのか、大法廷の多数意見に収束しきれない個別意見は何を言いたかったのかが同時代的に、いわば再審的に「読み直」される。その際、「事案に即して」とか「判例の射程」という法科大学院教育の呪文の影響は見当たらず、むしろ古典的な憲法判例評釈の手法であるところの、判例を理論として捉えたうえで学説に対して屹立させることが行なわれる。引用される学説も時代的な制約はなく、オリジナルが尊重されている。調査官解説から判例に入るような読み方は、意図的に排除される。 
 たとえば、第5章の三菱樹脂事件判決では、いわゆる直接適用説を否定して間接適用説を宣明したと一般に理解されている判旨につき、「しかし、企業者が理由の如何を問わず雇入れを拒否しうることは契約の自由の当然の帰結であって、人権規定が私人間に適用されるかどうかとは関係がない。したがって、この点で直接適用説を否定したのだとすれば、それはあまり意味のあることではなかったということになる」(75頁)、「しかしながら、本判決が間接適用説を採用したということはそれほど明確ではない。そこにあるのは、私人間では、適切な『立法措置』と『私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定の適切な運用によって』調整を図るべき旨の説示だけであって、憲法の人権規定を私法の一般条項を通じて間接適用する趣旨がそれとして述べられているわけではない。その意味で、本判決は、むしろ無適用説の立場に立ったものと見るべきではないかと思われる」(77頁)とする(なお、この最後の部分の脚注では、最近の無効力説への言及はなく、小嶋和司『憲法概説』(良書普及会、1987年)161頁以下の「私法の問題をあくまで私法の問題として」処理した判決と捉える一節のみが引用されている)。筆者が本判決を「無適用説」であるとする真意は、次の一節に集約されている。「人権規定が私人間に適用されないといっても、私人間で人権が全く保障されなくなるわけではない。国家に対する場合とでは、その保障のされ方が違ってくるということである。本判決もこの理を述べたにすぎないのではないか。……『私人間の関係においては』『一方の他方に対する侵害の態様、程度が社会的に許容しうる一定の限界を超える場合にのみ、法がこれに介入してその間の調整をはかる』という形で保障される、ということではないか」(7778頁。なお、以上の引用中の『 』内は判決文)。このように筆者は、本判決が「間接適用説」を採用したという通念を疑い、むしろ判決は、私人間での人権保障という、対国家とは「保障のされ方が違ってくる」場面での、技術的な有り様に絞った判示を行ったと見るのである。学説がドイツから取り込んだ間接適用説をそのまま採用した判決ではない、ということを言わんがために、「むしろ無効力説の立場」に立つ判決であるとすら断じる。
 右のように本書は、判例が理論的に過大な負荷をかけられてきている場合に、その重荷をほどき等身大の判決に戻す、という作業をしばしば行っている。これは、「判例の射程」という言葉が使われる場面とは異なるものの、判例理論が成立している文脈ないし構造を正確に読み取るという点では、射程の修正とも呼びうる営みである。また、最高裁= 権力装置という肩に力の入った思いに囚われてきた憲法学界にとっては、本書が行った論理内在的な判例批判は、「幽霊の正体」を冷静に見直し、根拠なき被害感情を払拭するという「脱トラウマ」のための必須の過程でもあろう。

3 読後感を一言で

 最高裁の大法廷判決を向こうに回して、堂々として怯むところがない。憲法判例に特徴的な固有名詞(「有名判例」)に対する恩讐の思いを超えて、あくまで理論的に是々非々を論じる。法科大学院導入後、学問が判例のしもべとされたといった不平不満をわれわれは抱きがちなのであるが、こうした思いが恥ずかしくなる爽快な一書である。学生諸氏はもちろん、自信喪失気味の法科大学院教員にも分野を超えておすすめしたい。

(むねすえ・としゆき =大阪大学大学院高等司法研究科教授)

憲法基本判例を読み直す 憲法基本判例を読み直す -- 法学教室ライブラリィ

野坂 泰司/著

2011年06月発売
A5判 , 508ページ
定価 3,850円(本体 3,500円)
ISBN 978-4-641-13061-6

裁判所の判断を通じて憲法を具体化した基本21判例を読み直すことによって,個々の判例の理解を深めるとともに,日本国憲法の諸規定がどのように解釈・適用され,具体化されているか,日本の憲法訴訟がどのようなものとして実現されているかを明らかにする。

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