星野英一 [著]『 法 学 入 門 』<2010年11月刊>(評者:東京大学 大村敦志教授)=『書斎の窓』2011年4月号に掲載= | 更新日:2011年4月15日 |
架橋する法学・開放する法学
はじめに
「法学学習の困難さ」――本稿が紹介・検討の対象とする星野英一『法学入門』(有斐閣、2010年11月刊。以下「本書」という)は、この点の指摘から説き起こされている。
本書において著者が目指すのは、「法律家でない人に、法・法律に対する関心を少しでも深めてもらうこと」(旧書まえがき。「旧書」の意味については、すぐ後に述べる)である。本書の端緒となった著者の「法学」講義の冒頭では、法学入門は「オードヴル、スープ、アペリティフのようなもの」とされ、「法学に対する食欲がわけばよい」と述べられていた(手元の講義ノートによる)。さらに本書では、「(法学部・法科大学院の――筆者)学生には、むしろ外の人から見た法や法律をよく理解してほしい」(はしがき)という願いが(旧書に比べて)より明確に表明されるに至っている。一通り、コース料理を経験したことがある人にも、料理というものを見直すきっかけとなる一皿を提供しようというわけである。
目の前に差し出されたのは小ぶりのテリーヌ。だが、そこには様々な工夫が凝らされ、グラン・シェフの試行(思考)の成果が集約されている。その真価を知るには味わってみるのが一番ではあるが、以下、ミシュランの記者になったつもりで、若干の紹介・検討を行ってみよう。
すでに示唆したように『法学入門』には前史がある。出発点は1980年代の半ばに法学部進学予定の学生を相手に行われた「法学」の講義にもとめられるが、直接には、1990年代の後半に放送大学で行われた著者の講義の教科書(放送大学では「印刷教材」と呼ばれる)『法学入門』(放送大学教育振興会、1995年刊。「旧書」はこれを指す。樋口陽一教授の書評〔法教181号、1995年〕がある)を原型とする。旧書は15回編成の「放送教材」にあわせて15章に分けられていたが、本書ではそれらは8つの章にまとめられている。放送との対応という制約がなくなったため、本書の編成は旧書よりも自然で分かりやすいものになった。
そのほかにも、見出しが太字となり、改行が増え、ひらがな書きが増えているのは、若い読者にとっては朗報であろう。索引の作り方も旧書から少し変化しており、人名などが多く拾われている。内容については大きな変更は加えられていないが、法律の改廃や教科書類の改版などに対応しているほか、近時の話題(法教育、法学教育、ロースクール、ソフトロー、ADR、立法論(学)、「法と経済学」、国際条約、法整備支援など)につき、新しい文献を引きつつ興味深い加筆がなされている。
著者自身も述べるように、本書の特徴の一つは、「外的視点」「内的視点」の双方を考慮に入れ、相互の関係に留意している点にある。著者の強調する「法」と「法律」の区別もこの点と密接に関連している。もう一つ、法学学習のあり方を示すにあたり、「教養」というものの位置につき特別な関心が払われているのも、本書の特徴であろう。以下、これらのキーワードを借用しつつ、本書の内容を紹介し(Ⅰ)、若干の検討を行うこととする(Ⅱ)。
Ⅰ 紹 介
「外的視点」とは(法システムの外部にある)観察者の有する視点、「内的視点」とは(法システムの内部にある)当事者の有する視点を指す。第一次的には、一般市民の立場が前者に、法曹の立場が後者にあたるというのが、著者の見方であるが、以下においては、著者の他の著作との関連で本書を位置づけるとともに(1)、著者が本書を書くに際して念頭に置いている主要な対立軸を取り出して(2)、本書の内容を紹介したい。
1 「外的視点」からの位置づけ
(1) 『民法のすすめ』『人間・社会・法』との関係
著者は、本書のほかに2種の入門書を公刊している。『民法のすすめ』(岩波新書、1998)と『人間・社会・法』(創文社、2009)がそれである。「前者は……主として社会科学を学習した人、後者は人文科学を学習した人にとっての法学入門書のつもりである」(本書はしがき)というのが、著者自身による位置づけである。もちろん、同じ著者の手になるものであるので、2種の入門書と本書との間には、共通の部分が少なくない。しかし、著者の言うようにウエイトの差があることも確かである。
『民法のすすめ』で目立つのは「民法と経済」「民法と市民社会」あるいは「民法の理念」「民法と人間」といった項目である。民法と「経済」「市民社会」(ここでいう「市民社会」は経済とは区別される領域としての市民社会)との関係をどう考えるかは、民法学にとっては根本問題であると言えるが、同時に法学と経済学・社会学・政治学などとを連結する問題であるとも言える。また、民法の理念や人間像(両者は表裏の関係にある)は、公共哲学や社会思想史へと連なる。『人間・社会・法』はどうかと言えば、「人類の存続――家族」に重点が置かれるとともに、「学問・芸術」「宗教」にも紙幅が割かれている。後者と人文科学の関連は分かりやすいが、前者は、歴史や心理・倫理と密接にかかわる問題として取り上げられているのであろう。
これに対して本書の特色は、「人の法・法律に対する見方、関わり方」が重視されている点に求められる。そのために、(法律家が行う)「法律の適用」や(法学者が行う)「法学」に対する言及がなされている。(社会科学・人文科学を学ぶ人も含めて)広く一般市民に、法律家・法学者の視点の特色を提示しようというわけである。
(2) 『民法〔財産法〕』『家族法』との関係
すでに述べたように、本書は放送大学の教科書として書かれた旧書を原型としているが、著者の手になる放送大学の教科書は旧書だけではなく、ほかに『民法〔財産法〕』『家族法』(いずれも、放送大学教育振興会、1994)の2冊がある。
両著はいずれも制度の思想的・社会的側面に重点を置くものとなっており、技術的側面は大胆に刈り込まれている。特に担保や各種契約は省略され、相続は簡略化されて、「人」、「物の支配」(所有)、「契約」、「不法行為」(責任)と「婚姻・離婚」「親子」(家族)がクローズアップされているのが特徴的である。
これらは、「教養学部の学生」を想定して書かれているが、本書の場合と同様、「法学部の学生」にも有用であろうとされている。
(3) 『民法の焦点Part1総論』『民法のもう一つの学び方』との関係
著者には実は、もう一つ別の系列の入門書がある。『民法の焦点Part1総論』(有斐閣、1987)と『民法のもう一つの学び方』(有斐閣、2002、増補版、2006)である。
前者は、法学部生のインタビューに答える形で、「民法の勉強の仕方」と「民法の解釈について」について語ったものである。法学者・法律家の営みがいかなるものであるのかが示され、法学部生に対して学習の方法と意義が説かれているが、学生の思考を法律家の思考へと導くために、(法律家の)内的視点を客観化して示すことが試みられていると言えるだろう。著者は、いわば「内的視点を考慮した外的視点」に立っているのである。このような視点間の架橋は、本書においてより明確に示されることになる。
後者も、その多くはインタビュー形式をとっているが、そのほかのものも含めて、「法学教室」に発表されたものをまとめて一書としたものである。著者は「教科書による学習(タテの学習)」のほかに、「条文」「基本原則」「用語」「判例」などといった「特定の観点からの学習(ヨコの学習)」をすることを、さらには、両者を含めて民法を「内側から学ぶ」だけでなく「外から眺める」ことを推奨している。「学説史」や「新しい問題」への言及も、学習の幅を広げようとするものであろう。ここで示されている(法学部生にとっての)「もう一つの学び方」の延長線上に、本書や前掲の『民法(財産法)』『家族法』は位置づけられることになる。
ここまでの叙述で、本書を頂点とする著者の一連の著書群の特徴がある程度まで明らかになったはずであるが、今度は本書の内容に即した形で、その特徴を確認することにしよう。
2 「内的視点」 からの位置づけ
(1) 法と法律、法と法学
すでに一言したように、著者年来の主張である「法」と「法律」の区別(本書第1章)は、本書の最大の特徴である。著者は、制定法(lex/ loi/ Gesetz)を包摂するものとして法(jus/ droit/ Recht)を観念すべきことを強調する。この区別を導入することによって、一般市民と法律家との相互理解が要請される(本書第2章)。一般市民は「法律」に対して、外的観点に立ってこれを認識するとともに、内なる「法」を発見しこれに依拠して「法律」を批判的に検討することが可能になる。反対に、「法律」に対して内的観点に立つ法律家に対しては、「法」の内的観点を勘案すべきことが求められるのである。
こうした見方は、「法」を対象とする「法学」という知のあり方に対する著者の見方(第8章)と通底している。著者は一方で、(前述の社会的側面・思想的側面に対応する)法・法律の科学的研究・哲学的研究を重視するとともに、(特定の地域・時代・法領域を対象とする)実定法学が①科学・哲学に依拠した技術であること、②法実践を認識するだけでなく法実践に働きかけるものであること、③法律家や(法的素養を持つ)市民の養成を本質的な任務とすることを指摘しているが、そのいずれもが視点間の移行を含意しているからである。
(2) 法と生活、 法と規範
本書の序論・結論をなす第1章・第2章と第8章が抽象度の高い総論であるのに対して、各論の主たる部分をなすのは第3章と第4章である。
この部分で著者はまず、「人間生活・社会現象」を基底部分をなす「経済・家族・生存・安全」、中間部分をなす「隣人関係・社会団体」、上層部分をなす「学問・芸術・宗教」とに分ける。その上で、各部分と法・法律との関係を説明する(第3章)。ここでは人間・社会の側から法・法律への接近が試みられる。続いて著者は、「法・法律」を「規範の面」「理想の面」「(規範)実現の面」とに分けて、道徳・習俗・技術や正義・自然法や実力との関係を問う(第4章)。今度は、法・法律の側から出発して隣接領域との異同を明らかにしようというわけである。
二つのアプローチに共通に認められるのは、法・法律の領分を画定しようとする姿勢ではなく、むしろ法・法律を他の領域へと開いていこうという姿勢である。「線引きdemarcation」ではなく「開放ouverture」が目標とされていると言ってもよい。そうであってこそ視点の往還も可能になる。
(3) 法と歴史、法と解釈
残る第5章から第7章までは、各論の従たる部分としてまとめられよう。著者は「日本法の沿革」に関する部分(第5章・第6章)と「法律の適用・解釈」に関する部分(第7章)とを区別し、前者は第3章・第4章とともに外的視点に立つ考察であるのに対して、後者は内的視点に立つものであるとしている(旧書まえがき)。
しかし、ここでは著者の意図から離れて、両者をまとめてとらえたい。というのは、後者においては「法律家」の行う操作(広義の法の「解釈」――適用を含む)の特色が摘示されているのに対して、前者においては(日本の)「法学者」の関心の所在(広義の法の「歴史」――比較を含む)が説明されていると理解することもできるからである。
Ⅱ 検 討
旧書が教科書として用いられていた放送大学は教養学部のみからなる大学である。それゆえ、「法学入門」も「教養」の一環として教えられており、旧書はもちろん本書もまた「教養」としての法学とは何かを考えざるをえない(1)。そして、その過程を通じて著者の思考は、(専門科目としての)法学学習における「教養」の意義に及ぶことになる(2)。
1「教養科目」としての法学学習
(1) 法外の観点から――法への関心
著者の問題意識が「法学学習の困難さ」の克服にある点は冒頭で触れたところであるが、本書においては、とりわけ日本社会では「法律は『人々』に敬遠されている」ことに鑑み、論理主義・法律万能主義を排し、社会や思想に開かれた形で、あるいは生活感覚と結びついた形で、法・法律を提示し「法律への興味」を喚起することが目指されている。
では、法律家ではない人々にとって、「法律への興味」が必要(あるいは有益)なのはなぜか。著者はこの点につき、「狭く、技術的または職業的トレーニングの要求に限定されない、一般的な知的拡大と向上に向けられた」教育を教養教育と呼ぶ(旧書まえがき)。「法・法律・法学を他の領域と比較しつつ、それらの共通点・差異点などを明らかに浮き上がらせる」「生活領域・社会現象のどれかにひっかか(る)」ことによって、学習者の関心を広げること自体に意義があるというわけである。
しかし、この先には、次のより根本的な問いが立ちはだかる。なぜ「教養 = 知的拡大」が必要なのか。この点については後で改めて触れることにして、ここでは著者が、人々に忌避されがちな「法」が「知的拡大」の対象となるに値するものであると確信していることを確認しておこう。「法・法律は人間・社会の規範であり、社会の構成原理を定めるものであって、それらと切り離せないものであることに気づ(く)」(第6章)ことが求められているのは、そのためであろう。
(2) 法の観点から――法の拡張
「教養科目」としての法学学習が望まれる理由はほかにもある。著者によれば、法学学習を通じて「『法』の尊重と、『法律』に対する一方で批判的な態度、他方で真に『法律』を守る精神をもち、民主国家の一員、つまり立法者としての役割に対して一層関心をもつようになること」が期待される。
これは、一般市民が、内なる「法」を意識化することを通じて、「法律」を自らのものとして引き受けることを意味する。こうした発見と受容が深化することを通じて、はじめて法は実効性を持ち正統性を得る。ここには、法は人々の意識の中にあるのであり、書物の中にあるのではないという見方が示されている。そう考えるならば、「教養科目」としての法学は、むしろ法にとって、必要不可欠であるということになる。
「教養」としての「法学」に対する著者の見方は、おおむね以上のようなものであろう。では、「法学」における「教養」については、どう考えられているのだろうか。
2 「専門科目」としての法学学習
(1) 教養の効用――自己認識と他者理解
「教養」はなぜ必要か。先ほど留保したこの問いにつき、「専門科目」としての法学学習に即した形で考えてみよう。
ここまで繰り返し述べてきたように、著者は法・法律の「開放」をはかろうとする。その理由の一端は次のような表現に求められる。「広い比較法的、社会学的視野を要請し、自国法を相対化する視点を養(う)」「国際的視野を養う」(第5章)。つまり、「法・法律」からその外部への「知的拡大」は、視野の拡大を通じて、自己認識を深化させるとともに他者理解を促進するということである。
自己認識・他者理解はそれ自体が価値を持つ。「教養」がそれ自体として価値を持つのはそのためである。同時に「教養」には実用的な効果が伴うこともある。教養は実用を目的とするものではない。しかし、結果として、教養が法・法律に対する「気づき」を触発し、法・法律の改善の「きっかけ」になることは、しばしばおこりうることである。
(2) 教養の所在――内在型と外在型
「専門科目」として法学を学ぶ者(将来の法律家)には「教養」が必要であるとしても、「教養」の獲得には定められた唯一の方策があるというわけではない。たとえば、法学以外に専門分野を持つというのも一つの方策である。アメリカのロースクールがグラデュエイト・スクールであるのはそのためであるとも言われる。法律以外の科目を学部段階で学習した者がロースクールに入学すれば、ロースクール生たちは、少なくとも一つ、法学以外の専門科目を修得していることになるからである。
しかし、著者は、このような方策とは別の方策によって「教養」の獲得をはかることを想定しているようである。一言で言えばそれは、「法学とは別に」ではなく「法学を通じて」、「教養」を獲得するという方策である。著者が繰り返し、本書を法学部生・法科大学院生に勧めているのは、それゆえであろう。本書を通じて、「法律技術」にとどまらずそれを取り巻く諸現象に関心を寄せよ、というわけである。
このメッセージは暗黙裡に、法学を教える者(法学者)にも向けられている。学習者の関心に応える(関心を広げる)教育、そのために必要な研究がなされているのか。著者が本書を刊行したのは、この点を指摘したかったからかもしれない。
(おおむら・あつし=東京大学法学部教授)