自著を語る
『メディア社会論』(有斐閣ストゥディア)
中央大学文学部教授 辻 泉〔Tsuji Izumi〕
企画会議の知的興奮
本を作る過程で最も楽しいのは、企画会議である。一つのテーマをめぐって、あれやこれやと思考が広がっていくときの躍動感。野放図に見えたその広がりが、やがて収斂し一定の形へと結びついていく時の達成感。私は、こうした思考のダイナミズムにたまらない興奮を覚える。共著の場合はなおさらである。一人ではたどり着けなかったような方向へと思考が広がり、そうした知的興奮が幾重にも増す。
もちろん違った意見をお持ちの先生方もおられるだろう。学者たるもの、論文を書くことこそが本分ではないかと。文章化し外部化してこそ、思考の相対化が図られ、洗練されていくのではないかと。その指摘はよくわかる。だが、あの思考の躍動感や達成感の、一瞬の輝きに比して、地道にパソコンの前に座り続ける作業がどうしても退屈なものに感じられて仕方ない時もあるのである。
この点を、中年期に差し掛かった私の、視力と体力の衰えによるものと片付けてしまうことも可能だろう。だが、今回の執筆依頼の趣旨に沿うならば、本書の意図は、読者である学生たちに、地道に文章を書かせるためというより、企画会議中のあのスリリングな知的興奮を共有してもらうためといえる。すなわち、メディアと社会について、考えることの楽しさを伝えることが本書の主たる狙いである。
本書の特徴
こうした狙いを踏まえて、本書の特徴を何点か挙げてみたい。
第1に、メディア論的に言うならば、本書は「内容」以上に「形式」を重視して作り上げた教科書となった。読者にとって、なにがしかの得るところがあったならば、それはこの教科書の「内容」以上に「形式」に負うところが大きいだろう。
第2に、教科書ではあるが、知識を詰め込むことはあまり想定していない。それゆえに、メディア社会論に関する、可能な限りのすべての用語や論者、学説などをくまなく網羅しているわけではない。むしろ、読者にとって、考えるためのきっかけとなることが本書の主眼である。よってメディアと社会についての、これまでの学者の「考えた内容」そのものを覚えてもらうというよりは、「考え方」を身に付けてもらうことを重視している。
実はこの点については、有斐閣選書から2007年に刊行された『デジタルメディア・トレーニング』(富田英典・南田勝也・辻泉編)の出版企画を踏襲している。執筆者の複数名が重複していることもあり、編者としては本書をその後継書として考えている。「改訂版」ではなく「後継書」であるのは、扱うのが、とりわけ変化の激しいメディアという対象ゆえに、新規に書き下ろす必要があったからである。前著で最新のものとして紹介した現象のいくつかは、もはや、なつかしさすら覚えるものとなってしまった(例えば、「mixi疲れ」など)。
複眼的思考の徹底
第1点についていえば、本書で徹底されているコンセプトは、「複眼的思考」である。「複眼的思考」とは、複数の視点から同時に思考することである。「複眼」とは「単眼」がいくつも集まってできた昆虫などの眼のことをいう。それらの生き物が、本当に「複眼的思考」をしているかどうかは定かではないが、いわば偏ることなく、バランスの良い思考をするための工夫を現した比喩である。後述の通り、本書では各章の構成についても、全体の章構成についても、このコンセプトを徹底している。
実はメディアについて考えることは、思いのほか難しい。例えばスマートフォンはその典型であろう。「生活に不可欠な最高の相棒」と肯定的にだけ、あるいは、「無限に時間を奪う悪魔の機械」と否定的にだけ考えているのならまだしも、そもそもその存在について、一歩引いて眺めてみるという機会すら乏しいことだろう。当たり前のように身近にある存在であればこそ、落ち着いて考えるのは難しいものである。
本書では、まずそのための工夫として、それぞれの章を4節構成にした。すなわち「両論併記」の徹底である。第1節が導入、第4節がまとめであることは共通フォーマットととし、さらに中間の第2節と第3節では、対比的な議論を展開し、読者の思考を促すようにした。
具体的には、メディアの歴史を取り上げた第1部であれば、画期的な変化による「ビフォーとアフター」の違いが明確になるようにした。第2節でマスメディア中心の社会の、第3節でインターネットが普及した社会の特徴を取り上げ、それらの違いを対比的に論じるといった具合に、である。
あるいは、現状を着目した第2部では、「功罪」の両面を深く掘り下げるように、メディアによって我々が享受しているメリットとデメリットを、ソーシャルメディアやネット広告などの具体例に沿いながら取り上げ、身近な社会に潜む論点への着目を促している。そして、未来を論じる第3部では、「ユートピアとディストピア」といった具合に、複数の未来像を対比的に論じながら、今後のメディア社会の展望を切り開こうとしている。
複眼的思考を促すための授業構成
余談だが、実はこうした章の構成は、私が講義を行うときの授業計画ともほぼ一致している。学生の集中力を喚起するために、講義では前半終了後に一度、10分弱ほどの資料映像の時間を挟むようにしている。そして、前半とは対比的な議論を紹介した上で、まとめに入っていく。
そして何百人が受講する講義であろうと、必ず最後にコメントペーパーを課し、さらなる思考を促す。その際も、ただ漠然と感想を書かせるのではなく、当該の講義内容についての疑問文を提示し、それに関する対照的な2つないし3つの回答を紹介した上で、もっとも自分に近いものを選ばせる。その上で理由を述べさせるのである。こうした形式の講義を行う上では、オンラインの出席管理システムが実に便利である。回答の分布を数値化して、翌週の講義でフィードバックすると、それに対する学生の反応がまたあったりする。彼らなりのメディアに対する思考の深まりへの手ごたえを感じたときは喜ばしい瞬間である。
過去・現在・未来への複眼的思考
さらに、本書全体の3部構成もまた、複眼的思考を促す「形式」的な工夫である。すなわち、現在生起しつつある目前の現象ならばリアリティも沸くだろうが、それをより深く理解するためには、過去の歴史について考えることも重要であるし、これらの理解に基づいて、ようやく未来の社会展望を切り開くことも可能となってこよう。
それゆえ、メディアが普及する来歴を辿った過去編を第1部、現在の功罪を対比する現在編を第2部、これからのメディア社会を展望する未来編を第3部に配置し、時間軸に沿って、メディア社会について深く考えることができるように工夫した。
前著の『デジタルメディア・トレーニング』では、読者や受講生の理解のしやすさを考慮して、現在編を第1部に、それから過去編、未来編と並べていた。講義での実体験からいっても、たしかに身近な現在のことを導入として扱うのは適切なのだが、一方で、過去編になると、急速にリアリティが薄れてしまうためか、一部の歴史マニアと思しき学生だけは目を輝かせて聞くのだが、多数の学生が理解しにくそうにしている様子も多々目にしていた。未来編についても、これまで社会学は未来を積極的に語ることがあまり得意な学問ではなかったゆえに、執筆時に苦労したということもあった。
それゆえに本書では、改めて、過去から現在、現在から未来と至るように、時間軸上に沿って、3部構成を並べ替えた上で、近年の社会理論の展開にかんがみて、そこに一定のストリーを設けることとした。各部のキーワードに当たる、「流動化」「個人化」「再帰化」がそれである。
第1部の過去編でいえば、今日の高度にメディアが発達した社会へと至る来歴を、さらなる「流動化」ととらえ、先述のように、その「ビフォーとアフター」を「両論併記」的に述べた。
第2部の現在編については、「流動化」がもたらす可能性は複数ありえるが、近年の社会状況にかんがみて、特に進展の著しい「個人化」に着目することとした。例えばテレビの歌番組やCDなどで聴かれていた音楽が、ipodなどを通してより「個人化」した聴取形態になっていることの功罪であったり、マス向けの広告が、インターネットのダイレクトメールに代表されるようなより「個人化」した広告になることの功罪などを徹底して対比的に論じている。
そして第3部の未来編では、これらの前提を踏まえ、「流動化」が進み、過度に「個人化」していくと社会を営むのが困難になることを踏まえ、だからといってメディアを一方的に批判して終わらせるのではなく、それでもなおメディア込みの社会をどのように構想しうるか、「再帰的(自己反省的)」な思考を促すための議論を展開した。
メディアを通して学ぶ社会理論
さて第2点の特徴である、知識の網羅性よりも思考を促すことを重視したという点について、誤解のないように記せば、レベルを下げたというわけではない。むしろ、前著と比しても少し上がったと考えている。
具体的な表現でいうならば、東京の私大でいうところのいわゆる「MARCHクラス」の2〜3年生をメインターゲットにしつつ、その中でも、熱心な学生たちがさらに学んでみたくなるようなテキストを目指した。
それゆえ、編者間での本書に関するもう一つのコンセプトは「メディアを通して学ぶ社会理論」というものであった。各章の末尾に、その章に最も関連が深い社会理論家の名前とともに、略歴ならびに主要著作を記したのはそのためである。ワンランク上へと進みたい読者のための手引きとなることも想定し、ギデンズ、マクルーハン、カステル、メイロウィッツ、ゴフマン、バウマン、浅野智彦、ダナ・ボイド、ベンヤミン、アドルノ、フーコー、東浩紀、見田宗介、ラッシュ、アーリなどを取り上げた。
こうした社会理論を学ぶにあたって、理論的な思考だけを学ぼうとすると、どうしても目前の実生活とは乖離しがちである。だが、本書の執筆者は一線級のメディア論者揃いであるので、ビビッドな事例をふんだんに織り込みながら、それと同時に、社会理論のエッセンスへとつなげるように書かれている。
この点において本書は、メディアと社会について、基本的な考え方を身に付けつつ、さらに重要な社会理論家たちの議論へも理解を深めることができるような、バランスの良い出来のテキストになったものと自負している。
むろん、網羅性を犠牲にしたがゆえに、抜け落ちてしまった議論もあるえるし、この点では専門家の先生方のご指摘やご批判を賜りたいが、本書が読者たちにとって、メディアと社会について、考えることの楽しさを共有できる一冊となれば幸いである。