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第5回 人生を決めるのは氏か育ちか

京都大学大学院経済学研究科教授 依田高典〔Ida Takanori〕

1 歴史に残る社会調査

 人間の一生を決めるのは、氏(遺伝的要因)か育ち(環境的要因)か。こうした問いは人間の発達を取り扱う研究者にとって魅力的であり、多くの研究時間が費やされてきた。ダーウィンの進化論、メンデルの遺伝子論、ワトソンとクリックのDNAの発見と、生物学・遺伝学的研究が発展するにつれて、人間の特性や気質は生まれつき遺伝的に支配されているという見解が趨勢になってきた。

 一卵性双生児ほど、二人の遺伝的要因が似通っている組み合わせは他にはない。そこで、研究者は、長年、同じ家庭で一緒に育てられた双子と、それぞれの家庭で別れて育てられた双子の比較を行ってきた。その結果、知能や特質の少なくとも3分の1から2分の1は、遺伝的要因によって生まれながらに決まっていることが分かった。

 しかし、近年の洗練された研究が教えてくれるところは、遺伝的要因と環境的要因が別々に人間の一生に影響するのではなく、その相互作用の部分が重要であるということだ。だから、生まれながらに自分の人生を諦めてはいけない。あなたの努力次第で、人生をより豊かにすることは十分に可能なのだ。

 人間の一生を丸ごと研究した偉大な社会調査を3つ紹介しよう。1つ目は、同じ時期に生まれた赤ちゃんのその後を追跡したコホート研究、2つ目は、幼少時の自制心の強弱とその後を追跡したマシュマロ実験、3つ目は、特別の就学前教育を受けた子供のその後を追跡したペリー修学前プロジェクトだ。以下、順番に解説しよう。

2 人生を丸ごと追跡するコホート研究

 ある1週間に生まれたすべての赤ちゃんを追跡しようという大規模で長大なライフヒストリー研究――出生コホート研究――を開始したのは、第二次世界大戦が終わって間もない1946年のイギリスだった。1946年生まれコホートは、世界で最も長く続いている大規模な出生コホート研究であり、人間の発達に関して最も長く運営されている研究だと言われる。

 その後、イギリスで、出生コホート研究は1958年生まれ、1970年生まれ、1991年生まれ、2000年生まれで、新しい研究課題を模索しながら、継続されている。残念ながら、学術界に縮小の嵐が吹き荒れたマーガレット・サッチャー首相の時代に、1982年コホート研究は実現されなかった。イギリスのコホート研究にぽっかりと穴が空いてしまった。ここら辺の経緯は次の著作に詳しい。

 

ヘレン・ピアソン (著)、 大田直子 (訳)『ライフ・プロジェクト――7万人の一生からわかったこと』みすず書房、2017年

(みすず書房のサイトに移動します)

 

 以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。

 

 「その研究が始まったのは1958年のこと、科学者が3月のある週にイギリスで生まれたほぼすべての赤ん坊、合わせて1万7415人を手間暇かけて記録したのだ。彼らはそれ以降、その子どもたちの生涯をじっくり追いかけ、身長、健康状態、知能、学業成績、社会階級、のちには職業や結婚など、ほぼあらゆることについて記録した。そうすることによって、科学者はすでに重大なことを発見していた。最も不利な境遇に生まれた子どもたち――両親が貧しく狭苦しい家に住む子どもたち――は、それからずっと苦しい生活を送る傾向にあり、しだいに問題行動、病気、そして学業成績不振を蓄積していくのだ。その子どもたちはあまりに多くの問題を抱えていたので、科学者は落胆するしかないレッテルを貼った――「生まれながらの落伍者」と。」『ライフ・プロジェクト』9―10頁)

 

 「生まれながらの落伍者」とは酷い言い方だが、幸いにも、人生はそれほど単純でもない。「生まれながらの落伍者」の条件は、例えば、一人親であること、5人以上の兄弟姉妹がいること、世帯所得が低いこと、かつ、狭い家に住むこととされる。そうした境遇で生まれ育った子供たちのほとんどが、その後の人生で学歴がないとか、無職であるとか、何らかの苦労を経験していたが(「非達成者グループ」と呼ばれる)、困難な出発点から抜け出し、立派に生活を立て直した人達もいた(「達成者グループ」と呼ばれる)。

 達成者グループに共通な特徴としては、第1に、子供の教育に関心を抱き、彼らの将来に希望を持つ親がいること、第2に、意欲的な親を助けてくれる学校が近隣にあること。第3に、就職の機会がある地域に住んでいること、等が挙げられる。

 しかし、こうした要因に対して、子供は常に受け身の弱い存在である。子供は自ら何もできないのであろうか。必ずしもそうではない。もう一つの重要な因子は、子供たち自らのモチベーションなのだ。典型的な達成者は、学業をやり遂げたいと願う気持ち、自分の仕事を見つけるための苦労を厭わない気持ちを持ち続けていた。

3 自制心で人生は変わる

 マシュマロの1つ、2つを我慢できるかどうかで、人生の成功を予想できる。これが、ウォルター・ミシェルの考案した「マシュマロ・テスト」だ。幼い子供に、マシュマロ1つ(あるいは本人にとって、魅力的な報酬1つ)をただちにもらうか、一人きりで最長20分待って、 マシュマロ2つ(あるいは本人にとって、魅力的な報酬2つ)をもらうかという選択肢を与え、どうするかを観察するというものだ。

 たかがマシュマロの1つ、2つと馬鹿にしてはいけない。マシュマロを2つもらうために我慢できる子供は、長じて、大学進学適性試験の点数が良く、認知的機能の評価が高く、肥満や依存症になりにくく、自己肯定感が高く、総じて言えば、より恵まれた人生を送ることができていたのだ。ここら辺の経緯は次の著作に詳しい。

 

ウォルター・ ミシェル (著)、 柴田裕之 (訳)『マシュマロ・テスト――成功する子・しない子』ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2017年

(早川書房のサイトに移動します)

 

 以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。

 

 「なぜこの研究を続け、本書を書く気になったかといえば、基本的には、将来のためなら今すぐ欲求を満たすのを我慢するというのは、あとから身につけられる認知的スキルであると信じているからであり、それを裏づける成果が得られたからだ。五〇年も前に取りかかり、今なお進めている研究で示したとおり、このスキルは幼い頃から明らかで測定することができ、一生にわたって人の福利や心身の健康に、重大で長期的な影響を及ぼす。何よりも重要で、教育や子育てでの効果を考えると胸が躍るのは、このスキルには伸びしろがあり、今やわかっている特定の認知的戦略で高められる点だ。」(『マシュマロ・テスト』9―10頁)

 

 現在の小さな満足と将来の大きな満足のトレードオフは、行動経済学で言うところの時間割引率で表現される。時間割引率が大きいほど、目先の利得を重視して、我慢できなくなってしまう。もともと、人間の脳の中には、現在の欲求充足を求める「ホットシステム」と将来の欲求充足を求める「クールシステム」が存在する。言わば、キリギリスとアリを両方とも飼っていて、頭の中で絶えず喧嘩している状態だ。

 この2つのシステムの優劣関係は遺伝的に決まっているわけではなく、後天的に自制心を発達させることも可能である。例えば、「イフ・ゼン(もし〜したら、そのときには〜)」という工夫に従って、魅力的でホットな刺激を特定し、誘惑に抵抗する望ましい反応に結びつける認知的スキルを使うことを挙げられよう。

 氏か育ちかの問題に立ち返れば、環境は遺伝子同様の影響力を持っているし、遺伝子は環境同様の適応力を備えているということができる。結局のところ、人間の一生を決めるのは、氏と育ちの両方であり、もっと言えば、その複雑な相互作用こそ重要なのだ。

4 幼児教育で人生を変える

 ミクロ計量経済学の創設で2000年のノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のダニエル・ヘックマンだが、教育や労働の分野でも精力的に活躍した。黒人の貧困問題の理由を明らかにしたり、職業教育、学校教育ときて就学前教育に取り組んだりした。

 ヘックマンが使ったデータは、「ペリー修学前プロジェクト」と呼ばれる。このプロジェクトは、1962年から1967年まで、ミシガン州の低所得な黒人世帯の子供を対象として、就学前の幼児に教室での授業と家庭での指導を与えた。指導内容は、子供の自発性を大切にして、自ら学び、自ら遊ぶことを尊重した。就学前プロジェクトは、30週間続き、40歳までの追跡調査を行った。ここら辺の経緯は次の著作に詳しい。

 

ジェームズ・J・ヘックマン(著)、大竹文雄(解説)、古草秀子(訳) 『幼児教育の経済学』東洋経済新報社、2015年

(東洋経済新報社のサイトに移動します)

 

 以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。

 

 「生まれあわせた環境が人生にもたらす強力な影響は、恵まれない家庭に生まれた者にとって悪である。そして、アメリカ社会全体にとっても悪である。数多くの市民から社会に貢献する可能性を奪っているのだ。

 これは是正することができる適切な社会政策を施せば、技能労働者と単純労働者との両極化を阻止できるのだ。だが、適切な政策は入手可能な最善の科学的証拠によって情報を与えられなければならない。そのためには、代替となる政策の利益だけでなく、費用にも細心の注意を払う必要がある。証拠を入念に検討したところ、社会政策策定のための三つの大きな教訓が示唆される。」(『幼児教育の経済学』10頁)

 

 3つの教訓とはこうだ。第1に、人生での成功は、IQテストや学校の成績のような認知的スキルだけでは決まらずに、心身の健康、根気強さ、注意深さ、意欲、自信といった非認知的スキルが重要である。

 第2に、認知的スキルも、非認知的スキルも、幼少期に発達し、その発達は、家庭環境に左右される。したがって、恵まれない家庭に生まれることが、子供たちの格差を生み、そうした家庭環境は世代を超えて受け継がれてしまう。

 第3に、子供の幼少期の発達に力を注ぐ教育政策で、子供の格差の問題を改善することは可能である。格差は遺伝的要因だけで決まるのではなく、幼少期の介入で、その後の人生にプラスの影響を与えることができる。学校教育を推進し、犯罪率を低下させ、労働者の生産性を向上させ、10代の妊娠を防げるのだ。こうしたヘックマンの教育論は、2019年から実施される予定の日本の幼児教育無償化の議論にも影響を与えたと言われる。

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