自著を語る
当事者目線の憲法論
――『事例問題から考える憲法』の刊行に寄せて
大阪大学大学院高等司法研究科教授 松本和彦〔Matsumoto Kazuhiko〕
はじめに
今年5月に演習書『事例問題から考える憲法』(以下、「本書」と称します)を上梓しました。その「はしがき」にも記したように、本書は2012年4月から2年間に渡って法学教室誌に連載した「演習憲法」を基礎に、新問を6つ加えて全体を再整理し、単行本化したものです。最近の憲法演習書と同様、各設問の冒頭で具体的事案を提示し、その事案に潜む憲法問題を示して、争点を明らかにしながら解説を加えていくというオーソドックスなスタイルを採用しています。
他方で、いくつかの点において、類書とは異なるアプローチも試してみました。例えば、提示した具体的事案について、あくまでも架空の話ながら、リアルでアクチュアルなものになるよう努めました。しかし著者としてとりわけ心がけたのは、当事者目線で憲法論を展開していくということでした。ここで当事者目線とは、特定の当事者の立場に立ち、その主張を擁護するため説得力のある理由を考え、客観的論拠として条文と判例(特に最高裁判決)を引証し、当該当事者に有利な憲法論を打ち立て、かつ、不利な憲法論に反論するという姿勢を指します。
このような姿勢をとったのは、それが実践的な憲法論を習得する上で有益であると確信しているからに他なりませんが、この度、幸いにも本書について語る場を与えられたことを奇貨として、著者の意図を敷衍してみたいと思います。やや大げさな言い方をさせてもらうと、本書の方法論的基礎づけを図ってみようというのです。
1 ジグザグ論証
まず、法律論は弁証法の一種であるとみなすことができます。ここで弁証法とは、ある主張に対して、それと対立する主張(すなわち反論)をぶつけ、主張→反論→再反論→再々反論という過程の中で妥当と考えられる結論を見出していく営みを想定しています。この過程が単なる罵り合いに陥らず、生産的な営みになるためには、最初の主張に対して、理由が付されていなければならず、さらに、その主張に対する反論が当該主張の理由に対する反論になっていなければなりません。再反論や再々反論もまた理由づけをめぐる争いであることが求められます。法律論としての憲法論の場合も事情は同じです。筆者はかつてこのような法律論の構成の仕方を「ジグザグ論証」と呼びました(棟居快行・鈴木秀美・松本和彦「法学未修者の憲法の学び方」法学教室〔2013年〕392号7頁)。
妥当な結論を見出すため、ジグザグ論証では最初に誰かの立場に身を置き、そこからその立場にふさわしい主張と、それを支える理由づけを考えます。次にその主張を支える理由に加えられるであろう反論を推測し、その反論に再反論することを試みます。うまい再反論ができない場合は、元の理由の方を再考せざるを得ないこともあるでしょう。うまい再反論ができたと思った場合でも、強力な再々反論が行われる可能性がないか、吟味してみる必要があります。再々反論には耐えられないと思った場合は、再反論の仕方を再考しなければならないでしょう。場合によれば、元の理由から考え直さなければならなくなるかもしれません。いずれにせよ一直線に結論を得ることはできません。行きつ戻りつしながら、主張を支える理由を強化していくこと、それがジグザグ論証と呼ばれるゆえんです。
本書で取り上げた死刑制度の合憲性の論じ方がその一例です(「設問08」)。そこでは現行死刑制度が違憲であると主張する側に立ち、その立場から違憲主張の理由を挙げつつ、その理由に対する反論等を明示して検討しています。死刑は違憲であると主張する者は、通常、死刑が生命権を侵害し(憲法13条違反)、絶対的に禁止されているはずの残虐な刑罰に当たる(憲法36条)と論じます。本書ではこれらの主張に加えて、死刑制度への関与を強制される者(死刑判決に関わる裁判員や死刑執行に関わる刑務官)の権利(憲法18条や19条)侵害の主張も提示しました。これに対して、死刑は合憲であると主張する者から、応報刑論・目的刑論からする実質的な死刑擁護論がぶつけられます。違憲論者は、死刑擁護論の実質的理由に再反論しつつ、憲法13条・31条の反対解釈論や死刑を合憲と判示した昭和23年判決以来の一連の最高裁判決とも対峙せざるを得なくなります。かくしてジグザグ論証は複雑化していくのですが、こうした複雑な論証を引き受けることこそが、実践的な憲法論を構築する能力を鍛えるために不可欠であると考えるのです。
2 客観的論拠の引証
ジグザグ論証における理由づけは、常に、客観的な論拠に基づいている必要があります。ある主張を支える理由が、その方がよいと思うから、といった主観的な感想にとどまるものであってよいはずがありません。主張を支える理由が、結局、当人の主観に過ぎないのであれば、いくら反論や再反論を重ねても議論は深まりませんし、妥当な結論を得るのも難しいと思われるに違いありません。それゆえ、(仮想の)対立当事者の合意が得られない主張に対しては、一般に受け入れ可能な客観的論拠に基づいた理由を提示しなければなりません。
法律論の場合、客観的論拠として、法律条文に言及するのが通常です。法律条文は、主張を支える理由の客観的論拠たり得る、との一般的合意があるためです。事情は憲法論においても変わりません。ただし、条文に言及すればそれで済むわけではなく、今度は条文の意味をめぐって議論が展開されることになります。
本書では、例えば、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と規定する憲法38条1項の解釈論に触れています(「設問29」)。憲法38条1項は、一見すると、自分にとって不利だと思われる事項への回答を拒否する権利を保障した規定であるように読めます。少なくとも文言解釈として、そのような読み方も可能です。しかしそうなると、この権利は憲法21条1項の消極的表現の自由(表現しない自由)と変わらないということになりそうです。そこで、異なる解釈として、憲法38条1項は本人の刑事責任に関する不利益供述強要の禁止を定めたに過ぎず、言いたくないことを言わない自由を規定するものではないと主張します。この主張は憲法38条1項が英米法にいう自己負罪拒否特権に由来しているという歴史的解釈を根拠にするものです。文言解釈よりも歴史的解釈を優先する理由はあるか、と尋ねられたとき、少なくともこの規定に限っては、最高裁がかつて「この制度発達の沿革に徴して明らかである」(最大判昭和32・2・20刑集11巻2号802頁)と判示したことを決め手にすることができます。
3 判例準拠の意味
主張を支える理由の客観的論拠として、本書では判例(特に最高裁判決)の引証を重視しています。もちろん、判例があるから、とか、最高裁がそう言っているから、といった理由が、そもそも理由として意味を成すのか、あるいは客観的論拠たり得るのか、異論が呈されてもおかしくないところです。判例追随の姿勢はむしろ戒められるべきとの意見もあり得ます。この点は判例の法源性をめぐる議論とも絡んで、かつては否定的に解する意見が有力でした。しかし、近年では判例の先例拘束性を肯定し、判例の理由づけの中に遵守されるべきものがあるとする理解が広く普及しています。解釈論的には、憲法14条の平等原則、憲法32条の公正な裁判を受ける権利、憲法31条の適正手続の要請が、判例の先例拘束性を支持していると言われます(佐藤幸治『日本国憲法論』〔成文堂・2011年〕31頁参照)。そうであるなら、ある事案に関して最高裁の先例が認められる限り、その判示内容に従うことが一般に要求されることになります。その限りにおいて判例は、主張を理由づける客観的論拠たり得ると言えるでしょう。
ただし、憲法条文と異なり、憲法判例は、時代状況に合わなくなった場合や重大な誤りが発見された場合に、裁判所によって変更されることも認められています。実際に変更された例もあります。変更には十分な理由が必要であるとはいえ、そうした理由を考えることは決して不可能ではないので、判例に従うべきかどうかが対立する当事者間の争点になることもあり得ます。判例は、確かに主張を支える理由の客観的論拠になるものの、主張に反論する側から判例変更が求められる可能性を残すのです。
それでもそのような可能性は大きいとは言えません。だとすると、判例の存在が認められる場合はそれに拘束されるのだから、その内容には十分留意しなければならないということになります。その際、気をつけるべきは判例の射程です。判例は具体的事案の解決に際して定立されたものなので、もともと限定された範囲の妥当性しか持ちません。それゆえ、判例が定立されたときの事案と手元の事案が同視されてもよいものかどうか、慎重に検討される必要があります。英米法でいうところの区別(distinguishing)の技法が、ここでは重要な意味を持つと言わなければなりません。
本書においても、単純な判例追随は慎み、事案と事案の区別ができないかどうかの検討を行っています。自己に不利に見えた判例が、区別の技法を用いれば、自己には適用されない判例であったと位置づけることも可能です。区別の技法を通じて判例の守備範囲を限定したり、あるいは逆に、その範囲を拡大したりすることもできるかもしれません。そのようなテクニックを行使できるかどうかは、まさに憲法論を操る法律家の力量に依るのだろうと思います。
おわりに
当事者目線で憲法論を展開しようとすれば、特定当事者の主張に対し、憲法条文と憲法判例を駆使して説得力のある理由を考案し、対立する主張に反論を加え、こちらの主張が正しいということを、筋道を立てて構成するよう努めざるを得なくなります。一方の当事者の主張は、他方の当事者の反論を想定せざるを得ませんから、そこを突破するためには、どうしても、条文や判例といった客観的な論拠を引き合いに出し、公正中立な第三者の支持を獲得すべく、説得的な論証に傾注する必要があるのです。
本書を通して筆者は、具体的な事案における特定当事者の立場で、第三者の支持が得られるような憲法論を真剣に模索していれば、自ずと、筋の通った憲法論を構成する術が習得でき、ひいては実社会で憲法を活かす方法が体得できるのではないか、と目論んでいるのですが、果たしてそううまくいくものなのか、読者の皆さんのご意見をうかがうことができれば幸いです。