自著を語る
『日本法史から何がみえるか――法と秩序の歴史を学ぶ』
京都大学法学研究科准教授 高谷知佳〔Takatani Chika〕
二つの目標
オーソドックスでない教科書を作ろう、というのが当初の目標だった。
有斐閣の柳澤雅俊さんから、若手を中心とした日本法制史の新しい教科書を書いてはどうかとご慫慂をいただいたとき、まず頭に浮かんだ目標は、具体的には、一つは現代の法史についての記述を充実させること、もう一つは前近代の法史を、近代とは異なる国家や社会のシステムにもとづくものとして記述することであった。
私たちの生きる現代社会の法は、明治期に西洋から導入された近代法を基礎としている。そのため、従来のオーソドックスな日本法制史の教科書は、明治期の近代法の導入をもっとも重視して多くのページを割き、近代法制史のみに特化したものも多い。ところが、そこから時代が進み、第二次世界大戦頃に至ると、あまり触れられなくなる。
しかし、戦中戦後の法制史については、近年きわめて活発な研究成果があがっている。また学生にとっても、自分たちの生きる現在と密接に結びついた歴史として関心が高い。この時代のページを充実させるのが、一つの目標であった。
また、従来の教科書は、前近代の法について、たとえば「何々時代の民事裁判」とか「何々時代の土地法」「何々時代の債権法」といった表現、つまり近代法の枠組みを前近代にあてはめた表現を用いて説明することが多かった。これは一見、近代法のなかで生きる学生にとってわかりやすいものにも思える。しかし、近代と前近代では、土台である国家や社会のシステムがまったく異なる以上、かえって正確な理解ができなくなってしまう。
前近代には、近代とは異なる国家や社会のシステムにもとづく法や秩序が形成され、その時代ごとの正当性の観念があった。その実態をできるだけ正確に伝えることが、二つめの目標であった。
こうした目標のために、執筆メンバーには、法制史学だけではなく、日本史学・法社会学・実定法学など、多様な分野から集まっていただいた。そして、この二つの目標を大枠として伝え、各人が学生に伝えたいと思うテーマを中心として書いてくださいという、かなりざっくりとしたお願いをし、何度か研究会を重ねて内容を調整した。メンバーはどなたも、これまで私がいろいろな場でお世話になった方ばかりであり、私はメンバーが持ち寄ってくださるものをわくわくしながら待つという編者であった。
以下では、前近代と近代に分けて、これらの目標をどのように形にしたのか述べさせていただきたい。
前近代法史から何がみえるか
従来の法制史では、古代の律令・鎌倉時代の御成敗式目・戦国時代の分国法・江戸時代の公事方御定書など、現代のわれわれのイメージする成文法に近いものが重視されてきた。しかし現在、その土台である国家や社会の歴史をめぐる研究の進歩により、法制史の視点そのものの転換が必要な段階にある。
一つは、「法典がなくてもいかにやっていくか」という研究の進歩が挙げられる。特に成文の法典や明確な裁判管轄などが見出し難く、影の薄い時代と思われがちであった室町時代について、1990年代以降の日本史で、個別・具体的な秩序形成プロセスについての研究が進んだ。
これにより、「成文法がつねに社会の秩序形成を牽引する」と考えるのではなく、ベクトルを逆転させて、「その社会の秩序形成に対して、成文法がいかなる役割を担ったか」を考える視点が必要となった。
それはこれまで重視されてきた、「成文法のある社会」をとらえ直すことにもなる。たとえば戦国時代の分国法は、大名の支配の先進性を示すものとされてきたが、近年、分国法の内容に場当たり的なものもあることや、むしろ分国法を制定しなかった大名のほうが近世権力へと成長したことが明らかにされた。成文法があれば先進的というものではないのである。また、江戸時代のような、成文法や裁判制度が比較的充実した社会においても、行政や裁判の現場における当事者間交渉が重要であったことが明らかになっている。本書でもこれらの最新の研究に触れ、法や裁判の本質のとらえ方を学生に問いかけている。
また一つは、「不文の慣習」の実態をめぐる研究の蓄積が挙げられる。従来の研究でも、成文法を補完するさまざまな慣習の存在は指摘されてきたが、近年の研究では、日本史でも西欧史でも、不文の慣習・儀礼・その背景にある信仰や思想などのさまざまな規範が、決して静態的・超歴史的なものではなく、法や裁判の動向に機敏に対応したきわめて動態的なものであること、それを利用した人々がなかなかに合理的であったことが明らかにされている。
本書でもこの点を強調しており、とりわけ本書の新しさのひとつは、「礼」という規範の導入と変遷とを、遡れるだけ遡って描き出した点である。当初から「儀礼」は重要なテーマとしてとりあげる予定であったが、執筆者の桃崎有一郎氏の手によって、その背景の「礼」という規範の長い歴史が、古代まで、さらに日本を飛び出して中国にまで遡って描かれた。日本法史の教科書である本書が中国古代から始まるのはそのためである。
終盤に近い研究会で提示されたこのダイナミックな構想は、他のメンバーにも大きな刺激になり、各人それぞれが自分の書きたいものにまっすぐ向き合い、ラストスパートをかけることができた。
近現代法史から何がみえるか
従来の法制史の教科書が明治時代を重視したことに対して、本書では現代に繋がってゆく近い時代を重視する構成とした。明治時代についても、法社会学の近代化をめぐる議論・法学や法に携わる人々を生み出した大学の歴史など、新鮮な切り口の法史像を提示することとした。また、植民地の法制史を教科書で取り上げるのは、本書が初めてである。
日本の近代化というテーマは、法制史や歴史学のみならず、さまざまな社会問題を論じる前提として頻繁に触れられるが、それゆえにこそ、多様な切り口があることを学生には学んでほしいと思う。実定法や法社会学といったさまざまな分野から本書に参加していただいたのはこのためである。
しかし、多様な切り口から書かれたものの調整や補足などは、やはり一仕事だったと思われるが、それを担ってくださったのは(また植民地の法制史を取り上げることを提案して岡崎まゆみ氏をスカウトしてくださったのも)、もう一人の編者の小石川裕介氏であり、私よりはるかに働き者であった。
また、酒巻匡先生には、以前から歴史学は面白いとお励ましをいただいていたが、この教科書の企画を立てていたとき、ちょうど先生の教科書『刑事訴訟法』(有斐閣、2015年11月)が刊行されて飛ぶような売れ行きになっており、半ば冗談で「あやかりたいので、『酒巻先生推薦!』という帯をつけさせてください」と口にしたところ、なんと中身を書いてくださることになった。また研究会にも一度ご参加くださり、さまざまな問いを投げかけてくださった。刑事訴訟法の重鎮でいらっしゃる先生が本書に寄稿してくださったのはそういう事情による。
法と秩序を生み出すための過去の人々の試行錯誤を、長い旅をするように読んできた学生に、旅の終わりに、現代の法制度の形成にかかわる先生のコラムを読んで、自らの生きる時代にもその試行錯誤は続けられていることに気づいてもらいたい。そしてよりよい法と秩序とは何か、主体的に学び考える方向へと、歩き出してくれればと願う。
法を運用する側になるかもしれない学生たちへ
法学部の法制史や一般教養の歴史科目は、多くの学生たちにとって、社会に出る前に最後に歴史学にふれる機会になる。そしてかれらは社会に出て、契約や雇用など、さまざまな法的行為の主体となる。さらに、法学部の学生は特に、公務員になったり企業法務を担ったりして、自ら法の制定や運用にたずさわるかもしれない。
現在の法を運用するのに、法制史などはほとんど関わりがないと思われるかもしれない。しかし、その現在の法や規範の内容を正当化するために、伝統や歴史という言葉は、頻繁かつ手軽に用いられている。
それを鵜呑みにせず、現在の規範と一見似ているように見える過去の法や規範が、過去に定められた時点ではいったい何をめざし、どこまで実現されたものなのか、それから今日までどのように変化してきたのか――「伝統」「歴史」の内容を問い直し、検証する力は、法にたずさわる者にこそ必要になる。本書はその力をつけるための教科書となることを目指した。
また10年くらい先に
当初の目標は、オーソドックスでない教科書を作ろう、ということだったが、刊行後、京大の同僚の先生方からは「斬新だね」という感想をたくさんいただいた。「あっ教科書だったの」というお言葉もあり、やっぱり目標地点よりだいぶ先まで駆け抜けたようである。しかし、とても楽しい一冊をつくることができた。
研究会を重ねつつ、教科書の全体像について、メンバーの誰もが積極的にイメージして意見を出しあうようになり、特に佐藤雄基氏には、序論である「日本法史への招待」や法史学史など、全体にかかわる部分をほとんど一手に引き受けていただいた。その一方で、個々の担当部分はそれぞれの問題関心をいっそう鮮明に反映するようになり、オーソドックスな教科書からはとても遠いところまで行ったなあ……とたぶん誰もが思っていたが、相互に面白いと思うものになっていった。
また、そうして自らの目指すところに向かって執筆する中で、各人がそれぞれ新たな課題を見出されたのではないかと思う。もしできることなら、10年くらい先に、またこのメンバーで、それぞれの問題関心を持ち寄って、教科書でなくても何か面白いものを一緒に作ることができれば、とても幸せである。メンバーに心からの感謝とラブコールを捧げて、この文章を閉じさせていただく。