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書斎の窓

書評


『社会学入門――社会とのかかわり方

明治学院大学社会学部教授 稲葉振一郎〔Inaba Shinichiro〕

筒井淳也・前田泰樹/著
A5判,276頁,
本体1,900円+税

 本書は極めて野心的な、ある意味では画期的な社会学教科書である。

 従来の社会学の入門教科書のスタンダードな書き方としては、理論を中心とした社会学の学説史を一通り解説したうえで、その切れ味を実地の現代社会の分析において例示してみる、というものであった。しかしながら社会学における支配的な理論枠組み、通説の不在という現状は、このような書き方を困難にする。今日の日本におけるオーソドックスな社会学教科書の書き方は、多数の現状分析の例示の列挙であり、かつ、実証的社会学研究のカバレッジの広さに鑑み、分担執筆というものであるが、複数の著者間での分担という形式それ自体に加えて、書き手の間で共有される通説の不在が、教科書から統一感を奪う。

 そのような現状に対して本書の新しさは2つの点において目立つ。まず、本書は単著ではないものの、2名という少数の著者の緊密な共同作業によって、極めて統一感ある仕上がりとなっている。分担は通常の教科書におけるように、対象の違いによってではなく、同じ対象に対して、それぞれが異なった分析法――俗に「量的」「質的」と呼びならわされる調査スタイルで以てアプローチして見せる、という形で展開されている。

 第2に、本書の統一感をもたらしているのは、同じ理論的枠組みの共有ではない。それどころか、理論そのものに対する関心が、意図的に希薄化されているといっても構わないくらいである。にもかかわらず、というよりむしろそれゆえに本書のスタイルは、入門者に対してはともかく、社会学の同業者や隣接分野の研究者に対しては、著者たちの社会学観を極めてはっきりと訴えるものとなっている。すなわち「現代の社会学の実証科学としてのアイデンティティは、(対象としての社会的出来事の構造や特徴をモデル化する)理論の共有によってではなく、(対象としての社会的出来事を認識し記述するための)リサーチ・ストラテジーの共有によって保たれているのだ、だから社会学の教育においても、理論的知識の伝授よりむしろ、調査研究の方法の伝授を中核とすべきである」というメッセージを、玄人の読者たちはそこに読み取らずにはいられないだろう。

 このように書くと「量的調査と質的調査という対極的な方法を用いる著者たちによる合作であるにもかかわらず、そこに統一感をもたらしているのが理論の共有ではなく、ストラテジー、つまり方法の共有であるとはどういうことか?」という疑問が浮上するかもしれない。しかしながら著者たちは積極的に同じ理論的枠組みを共有していないどころか、それぞれ自分の研究においても、その基盤を「対象の構造や運動をモデル化する理論」にではなく「対象にとりあえず一貫した記述を与えるための調査法」の方に置いている。更にそのうえで、それぞれの異なる方法論を、有機的に分業させるための戦略を、この教科書において提示している。

 簡単に言うならばこの教科書で「量的調査」と呼ばれている方法は、自然科学を含めた通常の科学における実証的研究法と本質的に変わるものではない。すなわち、いかなる対象の、どのような特性について調べるか、という風に調査項目を明示的に定義したうえで、それらの項目について、きちんとした尺度に従って測定する、というものだ。それに対して本書で「質的調査」と呼ばれている方法――具体的にはエスノメソドロジー、会話分析であるが――の目的、いわばそうした「量的調査」において列挙されるべき当の調査項目を決定すること、である。

 自然科学や社会学以外の社会科学においては、こうした調査項目の選定という作業は、基本的には研究者の仕事である。むろん研究者の使う科学的な言語ももとはと言えば普通の人々が使う自然な日常言語から分かれてきたものであり、「生命」とか「動物」とか「液体」とか「星」とか、あるいは「市場」とか「国」とかいった語彙も、元々は日常語だった。しかし科学の用語としてのそれらは日常語から区別された別の意味を持ち、そのような厳密に科学的な意味は科学的な理論――対象の構造と運動をシミュレートするモデル――によって与えられている。それに対して社会学の場合には、調査対象の項目とすべき対象やその性質の定義は、社会学者が理論的な考察をもとに与えるべきものというよりも、社会を生きる当事者の言葉遣いと概念系に則して決められるべきだとされる。少なくともこの教科書ではそのような立場が提示されている。

 たとえば「中小企業」というカテゴリーについて考えてみよう。単にその規模が小さいというだけではなく、大企業、あるいは企業一般とは質的に異なる独特のクラスとして「中小企業」なるカテゴリーを括りだせるかどうかは、実は必ずしも自明ではない。経済学者の中にはこの意味で、企業一般から区別された特別なカテゴリーとしての「中小企業」の実在を認めず、それを基本的に思い込みに基く錯覚とみなす者もおり、そうした見解はそれ自体注意に値する。しかしながら社会学者であれば、躊躇なく「中小企業」を分析対象とする。なぜなら「中小企業」とは、仮にそれが錯覚、幻想だとしても、(錯覚に陥った?)研究者や政策担当者の間のみならず、広く社会全体に共有され、自分たちを「中小企業経営者」「中小企業従業員」と思いなして、その「幻想」を当事者として現に生きている人々がいるからである。社会学を他の社会諸科学から分かつ最大のポイントは、こうした「幻想」を真面目に対象とするところにこそある。「幻想」の内容それ自体は現実ではないとしても、人々がそうした「幻想」を抱いているということ自体は現実であり、更にはたとえば、「中小企業」という「幻想」に導かれて人々が「中小企業政策」を現実に行ってしまうように、そうした「幻想」は「幻想」のレベルで完結せず、往々にして現実に介入する。

 このような社会学観は古くはマックス・ウェーバーの「理解社会学」、近くはアントニー・ギデンズの「再帰性」、ニクラス・ルーマンの「自己観察」といった言葉遣いにも明確に表れており、著者たちのオリジナルな見解ではもちろんないが、本書のオリジナリティは、社会学のこうした性格を理論レベルではなく、実態調査を踏まえた実証研究のストラテジーのレベルで具体化しようとするところにある。概念を操作的に固定したうえで行われる「量的調査」それだけをとってみると、社会学と他の社会諸科学との間にはそれほど違いはないように見える。

 しかしながら社会学においては、実証研究の道具立てとしての概念構築に際して、他の社会諸科学(典型的には経済学)におけるような基礎理論からの演繹よりも、日常語、フッサール=ハーバーマス流にいう「生活世界」の中の社会的な言葉遣い、観念を洗練加工するという手法を軸とする。ここまではウェーバーからルーマン、ギデンズに至る伝統的な理論社会学も共有する立場だろう。本書の独創は、いわゆる「質的調査」――個人の生活史のインタビューや、対象コミュニティに滞在しての参与観察など、少数の個別ケースを深掘りする調査の主任務を、まさにこうした「概念構築」にある、としたところにある(この構図においては、いわゆる歴史的資料を解析する「言説分析」もまた理論研究というより「質的調査」の側に組み込まれることになる)。「理論が調査を導く概念を作る」から「「質的調査」が「量的調査」を導く概念を作る」へのリサーチ・ストラテジー上の戦線移動と言ってもよい。とは言えこれは必ずしも「理論なき計測」の提唱ではない。計測のためには尺度が必要であり、尺度とは概念である。ここでは概念構築において、プロの社会学者たちの独創より、普通の人々の「素朴社会学」の方に優先権を認めるという、実は高度に理論的――哲学的なコミットメントもまたなされている。

 従来の「量的調査」と「質的調査」の違いについての支配的な理解は、限りある研究資源をどこに重点的に投入するか、という「検討する要因の数(「質」)とサンプルサイズ(「量」)のトレードオフ」とでもいうべきものだった。しかし革命などの歴史的大事件、大規模社会変動を研究する場合には、そもそも対象自体の絶対数が少なく(しばしば単一事例しかなく)、「質的研究」以外に選択の余地がないことも多い。すなわち、この場合少数事例の細密な「質的研究」というストラテジーは、必ずしも積極的選択とは言えないことになる。実際近年では、戦争や革命といった伝統的な意味ではマクロ的な事象に対しても、数百年から数千年のスパンでの統計的大量観察が行われ、一定の成果を上げつつある。また他方では、近年のコンピューターパワーの増大を背景に、計量テキスト分析や「混合研究法」など、細密な、伝統的には「質的」と呼ばれたようなデータを大量に集めて力押しで解析する技法が発展し、社会学方面へも影響を及ぼしつつある。このような動向の中で改めて少数事例に焦点を合わせる「質的研究」の意義を、積極的に、かつ「量的研究」といたずらに対立させるのではなく、相互補完関係にあるものとして位置付ける本書のスタンスは、極めて興味深いものである。

 それでもなお残る疑問は「それでは、プロの社会学者による独創的理論構築に展望はないのか?」であろう。しかし紙幅に限りがある以上、本書にそれを求めても仕方がない。来るべき『社会学入門・上級編』を待とう。

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