自著を語る
「わからないから考える」教科書をめざして
――『政治学』を執筆して
京都大学大学院法学研究科教授 新川敏光〔Shinkawa Toshimitsu〕
この度、大西裕、大矢根聡、田村哲樹の三氏とともに『政治学』を著した。これについて共著者のなかで最年長であり、かつ言い出しっぺでもある私が本誌でPR係を担当することになった。いささか自己弁護的になることを覚悟で、刊行にいたるまでの経緯などを交えながら、企画の狙いと目的について多少なりとも読者に伝えられればと思う。なお事前に共著者たちから意見や感想をいただいたので、できるだけそれを反映させるつもりであるが、年寄りの妄想虚言が滑り込む危険性もあるので、文責はすべて私個人にあることを予めお断りしておく。
『比較政治経済学』でお世話になった青海泰司氏から、政治学の教科書を出さないかというお誘いを受けたのは、もう5年ほども前のことである。ありがたい話ではあるが、気が重かった。本書の「はしがき」でも少し触れたが、昨今では最新の知見に基づいた明解で洗練された教科書が数多く出版されており、今さら老兵がしゃしゃり出る幕はないと思ったからである。そもそも私は、教科書というものをほとんど書かない。書けないといったほうが、正しい。長年、政治学者として禄を食んでいるが、実は政治や政治学というものがわかったと思った試しがない。
しかし今回の企画では、近年のトレンドとは一線を画したオーソドックスなスタイルの入門書を作りたいということであった。「教科書の現代化を牽引してきた有斐閣が」と多少驚いたが、それで私に声がかかったのかと納得し、ふと「それならやってみようか」という気持ちになった。私がイメージする「オーソドックスな」教科書とは、日常的市民生活を超える政治の捉え難い「正体」と格闘し、ほとんどの場合、刀折れ矢尽きて終わる。したがって、到底わかりやすいとはいえない。わかりづらくてもよいなら、長年考えてきたこともあるので、粉砕覚悟で書いてみようかと思ったのである。したがって、本当のことをいえば、完成にいたるという自信は全くなかった。
ところが、共著となると、個人を超えた力が生まれる。こちらがちょっとした思い付きを発してみたら、会話のキャッチボールが始まり、それがおもしろいアイディアに化けたりする。文字通り全く書けなくて投げ出したくなったときに、私などよりよっぽど忙しい共同執筆者から完成度の高い草稿が送られてきて、これは逃げられないと観念して机に戻ったこともある。そんなことを繰り返しているうちに、なにやら本の骨格らしいものができあがってきた。
最初の企画会議で、私は「わからない教科書」というコンセプトを提起した。一部心優しいフォローはあったが、さすがにそれはまずいだろうということになり、いろいろと議論しているうちに、「わかった気にさせない」というコンセプトでいこうということになった。「わからないからやめた」ではなく、「わからないから考える」という方向に読者を誘い込むにはどうすればよいか、これについて結構話し合ったが、なかなか妙案は思いつかない。結局、オーソドックスな教科書が論じてきたテーマについて(資料に当たって確認したわけではなく、漠然としたイメージにすぎないが)基本な知識を提供しつつ、「対立する見解や視点を提示する」という方針に落ち着いた。
複数の視点から考えることは、一方的な見方の限界を知り、それを相対化し、対象の多面性を把握するために必要な作業であり、異見に対する寛容性を培うことにもつながる。複眼的思考は、それ自体のなかにアンビヴァレンスを孕んでいる政治という現象を考察する場合には、とりわけ重要である。一面についていかに丹念に調べ上げても、それだけでは対象は掌から滑り落ちてしまう。相反する二面性、多面性へと目を向けなければいけない。
しかし、さまざまな理論や見解がきれいな対立構図を描くとは限らないわけで、そのように形を整えるためには当然単純化が必要になる。そうすると、どうしても各々の見解や理論の持つ複雑なニュアンスが捨象されがちになる。この点について、執筆者たちのなかに忸怩たる思いがなくはないが、本書の性格上やむを得ないことと割り切ることにした。もとより一つの教科書がすべてを語ることはできず、足りない部分は本書を使用してくれる先生方にお任せしたい。
本書はまた、あくまでも政治を考える基礎作りを行うことが目的であるため、内外の喫緊の政治課題に取り組んではいないし、各分野の先端的議論を紹介することもしていない。したがって本書を読めば、たちどころに政治がわかるわけではないし、ましてや政治学に精通できるわけではない。しかし政治についてどのような関心を持っているにせよ、基礎固めが大事である。基礎さえしっかりしていれば、その上にはどのような家でも建つはずである。
本書は、2単位15回程度の講義で使うことを想定して、7章構成にしてある。最初の2つの章、「政治の世界」(第1章)と「政治体制」(第2章)では、現実主義と理想主義という2つの視点から権力、国民国家、民主主義、福祉国家などの近代政治の枠組みを主に検討している。次の2つの章、「政治過程」(第3章)と「リーダーシップと行政」(第4章)では、代表性と説明責任という観点から、代議制民主主義、政党、中間団体、執政長官、地方―中央関係、マスメディアなどの現代政治の動態を理解するうえで欠かせないテーマについて考察している。
第5章「国際政治」では、第4章までが対象としていた国内政治の前提、すなわち社会秩序や制度化された権力関係というものが存在しない空間において、政治がどのように表出するのかを、現実主義に対応するリアリズムと、理想主義に対応するリベラリズム、この双方に関連するコンストラクティヴィズムの観点を手がかりに体系的に示している。第6章「近代政治の限界」では、公私二元論の超克という視点から、近・現代政治の枠組みそのものを相対化する視点や理論を紹介している。本書では、基本的に実証・規範、どちらであろうと政治を考える上で鍵となると思われる議論は紹介するというスタンスをとっているが、これら2つの章では、既存の秩序を前提とするのではなく、それを相対化し、新たな秩序形成を考える視点が打ち出されており、それだけ多く規範論への言及がなされている。
最後の章「政治学への招待」は、本書のいわば「まとめ」に当たるが、より本格的に政治学を学ぼうとする読者への登山口までの道案内である。最初に本書冒頭で提示した理想主義と現実主義について古典に依拠して敷衍した後、実証的政治学の認識論として主流を占める科学的推論についていささか詳しく紹介している。その後、それとは異なる認識の方法について、規範と実証という対立構図を念頭に置きながら、新たな可能性を検討している。筆者たちのメッセージは、政治現象を認識する方法は多様であって、さまざまな方法が競争・協奏することで政治学という学問がより実り豊かなものになるであろうということにある。
以上のように、四六判で総頁数300頁あまりのコンパクトな本ではあるが、内容は盛り沢山である。これだけの領域を一人でカバーすることはおよそ不可能であり、共同執筆であったからこそ可能であった。しかも4人の共同執筆者は、政治学という共通の基盤に立ちながらも、研究分野やテーマが違うので、異なる政治のイメージや政治に対するアプローチをかなりくっきりと提示できたのではないかと思う。
ただし、一つ一つのテーマについてすべての議論を包括的に紹介することはしていないため、とりわけ国際政治、政治理論については、各々1章しか設けられていないため、そこに特化して勉強したい向きには物足りなく感じられるかもしれない。しかし、本書は、アラカルトではなく、コース料理として用意されている。どの章も、雑然と並べられているわけではなく、コースのなかで不可欠な一品としてサーブされている。本書では、まず近代市民社会を前提として政治の世界をイメージし、現代政治までを論じ、しかる後そのような前提を相対化する国際政治、ポストモダンの視点が導入されている。このような構成によって近代国内政治中心の枠組みを相対化し、近代への複眼的思考を試みた。
とはいえ、「よき」意図が「よき」結果を導くとは限らない。異なる分野の研究者による共同作業の場合、各章ごとに分担を決め、執筆は各自にまかせ、出てきた原稿を一つの本にまとめるというやり方では、たとえ各章が水準の高いものであっても、本としての統一感がなくなってしまう。論文集ならともかく、教科書となるとそれでは使いづらい。そこで執筆者が繰り返し集まって本の基調や構成について見直し、調整を行った。もちろん各章について執筆担当者はいるが、各々の原稿については、相互に疑問点や批判点を、文章表現まで含めて、率直に出し合い、修正を加えている。したがって本書は文字通りの共同執筆であり、各章ごとの執筆分担者はあえて明記していない。
このような本作りには、当然のことながら、時間がかかる。初会合からでも、4年は有に超えている。執筆者たちがその間この仕事に没頭したわけではなく、各自他の仕事の合間を縫いながらの作業であったが、たとえ時間的に余裕がもっとあったとしても、一度議論したことを咀嚼し、書き直すためには、それなりの時間は必要であっただろう。このような贅沢な本作りが可能であったのは、本の性格にもよるが、なんといっても青海泰司氏、岩田拓也氏、岡山義信氏をはじめとした有斐閣の理解があったからである。記して、深謝したい。