書評
『ファッションで社会学する』
関西学院大学社会学部教授 難波功士〔Nanba Kouji〕
受験産業のホームページなどで、ファッションについて学べる大学を検索してみたとしよう。
すると多くは女子大や短大、あとはまれに美術系の大学がピックアップされてくる。昔ながらの「家政学部」や「被服学科」よりも、「生活科学部」や「ファッション学科」などの名称が目立つものの、やはり女性対象の高等教育機関、とりわけ洋裁学校の系譜を引く大学が目白押しとなる。以前ならば花嫁修業としての和洋裁といった需要もあったのだが、現在これらの大学には、ファッション関連の仕事に携わろうとする人々が集まっているのだろう。
それ以外だと、経営学部にてファッション・マーケティングを研究するだとか、文学部の史学科や美学科などで衣服をテーマとする、心理学部で被服心理学を専攻する等々もなくはないが、やはりボリューム・ゾーンは、社会学系の学部でファッションを学ぶということになる。本書は、そうした大学生たちに向けて、ファッション研究の入り口を示し、レポートや卒業論文を書くための手引きとなるよう意図されている。
こうしたテキストが編まれた学問的な背景としては、近年海外でのファッション研究の隆盛がある。ファッションの作り手・送り手の立場からの研究だけではなく、社会現象としてのファッション(衣服、流行)を考察する著作が、次々と出版されている。学問的な
しかし、日本ではまだまだ研究者は少なく、テキストやリーディングス(主要論文集)の類いも未整備であった。社会学系の学部でファッションについて考えたい学生は、手探り状態であったと言ってよい。そこに登場したのが、この『ファッションで社会学する(Doing Sociology through Fashion)』である。本書は、時宜を得た企画であり、類書も少なく、それゆえかなりの「商業的な成功(?)」も見込めるのではないかと思う。
それはさておき、その内容をみていくと、本書は「PARTⅠ メディア(1〜3章)」「PARTⅡ 身体・アイデンティティ(4〜6章)」「PARTⅢ 都市・流行(7〜9章)」「PARTⅣ グローバリゼーション(10〜11章)」の4つのパートからなっている。
まずメディアのパートでは、日本における女性ファッション誌と男性ファッション誌の現状分析とともに、近代ないし大衆社会の浮上とファッション雑誌との関係が歴史的に考察されている。次いで身体・アイデンティティのパートでは、自己論・ジェンダー論などの成果を参照しながら、ロリータ・ファッション、美容整形、異性装、コスプレなどが取り上げられている。そして都市・流行のパートでは、19世紀のパリモードから今日に至るまでのファッションの変遷が概観された上で、東京のストリートファッションの歴史やファストファッションの問題点などが論じられている。最後のグローバリゼーションのパートでは、ファッションデザイナーとファッションモデルの国際的な活動を題材に、国境を越えるファッションの流れとともに「日本らしさ」が再生産される様子や、東京がグローバルなファッション業界の中でいかに位置づけられているかが述べられている。
どの章もたいへん興味深いが、とりわけ最終章「ファッションモデルの仕事から:グローバルな界における市場と労働」は、自らがファッションモデルとして働いた経験を持つ社会学者の手によるものだけに、いたるところで生々しい証言にふれることができる。たとえば、ポートフォリオに新しい写真を加え「エディトリアルな名声を必要としているモデルたちは、パリ、ロンドン、そして興味深いことにシンガポール」へと向かい、現金収入を得るためには「ミュンヘン、マイアミ、東京、香港」へ、「テレビコマーシャルにはロサンゼルスへ、ショーに出てメディアに載ったり、カタログ収入を得たりするにはミラノへ」向かうとある。
最初、目次を眺めた際には、グローバリゼーションの章が他のパートよりも少なく、デザイナーとモデルに照準した2章だけからなることに、「ファストファッションの生産現場がグローバル化していることを扱う章もあった方がよいのでは」という疑問を覚えたが、通読してみて9章「ファストファッション:ファッションの﹁自由﹂がもたらす功罪」が、その部分を埋めていることが了解できた。この章では、2015年アメリカのドキュメンタリー映画“The True Cost”が描き出したような、ファストファッション生産現場の劣悪な環境も言及されている。ファッションをテーマにするといっても、本書は単純に「ファッションはすばらしい」「オシャレ万歳!」とはなっていない。多角的にファッションにアプローチする視野の広さ、バランス感覚のよさが本書の持ち味であろう。ファッションを考え始めるにあたって、必要な論点が過不足なく網羅的に盛り込まれており、読み進める中で誰もがどこか引っかかる箇所を見出せるよう工夫されているのだ。
また、内容分析、インタビュー、アンケート調査、参与観察といった研究方法についてのコラムも充実している。ブックガイドやキーワード解説もていねいで、本書1冊を深く読み込み、常に持ち歩くようにすれば、かなりの確率で、ある水準以上の卒業論文が書くことが可能なように思う。年配の方の中からは、大学生を甘やかしすぎではないかとの声も出かねないが、大学の大衆化が進んでいる現在、こうしたテキストないしサブテキストは、さまざまに用意される必要がある。移り変わりの激しいファッションを対象としながらも、本書はここしばらく、この領域の定番テキストとなりうるものであろう。
しかし、あまりポジティブな話ばかりしていてもおもしろくないので、「ファッションを社会学する」ことをめぐって懸念される事柄もあげておこう。
まず、日頃の実感として思うことだが、昔ほど若者たちはファッションにお金と時間を費やしていないし、ファッションで卒論を書こうという学生もずいぶんと減ってきたのではないかという点である。
たとえば、今から四半世紀前の『朝日ジャーナル臨時増刊:就職特集』(1992年4月15日号)をみてみよう。目次に「売り手市場は終わった!」「ポスト・バブルの企業選び」とあるものの、「就職損益計算書」というコーナーでは、リクルートスーツを揃えるなど男子学生が就職活動にのぞむための平均支出は32万3980円、女子学生では35万7050円となっており、なかなかバブルっぽい。今ならば1万円以下の中古リクルートスーツがネットにいくらでも出回っているし、大手量販店ならば3万円でスーツや靴から鞄・小物まで揃うセットがいろいろ用意されている。だが、当時は上下で6〜7万円、シャツやブラウスも1枚1万円前後が標準だったようだ(そして、スーツは黒に限定されていなかった)。もちろん、留守番電話6万円・システム手帳1万5000円など、今では考えられない支出もあるが、デフレ以前の就職活動――就活という略語もなかった――からみれば、今の就活生は「質素」「清貧」というべきレベルにある。しかも、収益欄の「拘束」の項目には、「ディズニーランド5000円、横浜港ナイトクルージング1万5000円、熱海・伊豆1泊2日の旅6万円、札幌10万円、ハワイ20万円」などとある。
彼我の差に唖然とするばかりだが、不況の中で育った現在の大学生たちは、ファッション全般にあまりお金をかけず、ファッション情報の多くはスマホ経由であり、購入までをネットで済ませることも少なくない。ファッションに対する熱量のようなものが、かつては若者たちの間に遍在していたが、最近では特定の若者たちに「偏在」しており、社会学部勤務の教員の実感としてはファッション関連の卒論は減少を続けている。
だが、ファッション研究のことを心配する以前に、私の本業である広告研究の方も人気は下降気味である。今の学生は、マスコミ、とりわけテレビに対し冷淡であり、当然テレビCMなどにもあまり関心を払っていない。広告研究の生き残る道は、従来の広告観にとらわれることなく、「広告」というカテゴリーを広義に解釈し、広告・広報・販促の主戦場をスマホ画面に見出して、そこで何が起こっていくかを研究・分析していくしかないのであろう(その際のお奨めテキストは、水野由多加・妹尾俊之・伊吹勇亮編『広告コミュニケーション研究ハンドブック』有斐閣、2015年)。
ファッション研究の場合も、ファッション=衣服という前提を捨て、さまざまな人工物(artifact)や身体そのものまでを対象としていく必要があろう。スマホのケースもファッション・アイテムだろうし、メイクだけではなく美容全般、さらにはダイエットや立ち居振る舞いに至るまで、その時々の流行や社会的な価値観の産物と見なしうる。本書にも手がかりはいくつか示されているが、ファッション研究のカバーする領域はまだまだ広げられるはずである。
就活の時期になると、髪が黒くなるだけではなく、姿勢や発声、ときには体型や思考様式までもが変わっていく多くの学生たちを眺めていると、せっかく参与観察する機会に恵まれたのだし、自身のリクルート・ファッションないしスタイルのありようをテーマに卒論を書けばよいのにと思う。が、そう言われた学生のほとんどは、プルプルと首を横に振る。あまり思い出したくない記憶だし、その当時の自身の姿は振り返りたくないものらしい。「リクスーはファッションじゃないし」と言われたことすらある。
いや、それもファッションです。