書評
『ボランティアを生みだすもの――利他の計量社会学』
東京大学大学院教育学研究科准教授 仁平典宏〔Nihei Norihiro〕
まず表紙がよい。大きな黄緑の双葉がひらき、その上に赤いハートがキラキラと浮かんでいる。双葉の周りにはボランティア活動中と思しき人々のシルエットの群像が描かれている。この優しい世界。
もっとも表紙の印象とは異なり、中身はしっかりした計量分析の本である。ボランティア論の多くが、理念論や事例報告、技術論である中で、本書は「ボランティア行動」を利他や共感性の発露と捉えた上で、日本における参加要因を実証的に解明するもので、他と一線を画している。しかも、客観要因(社会経済的資源)と主観要因(共感性・宗教的態度、及びその社会化要因)を同時に分析する統合理論をめざす野心的なものである。実証的にボランティアを考えたいと思う人なら、誰もが参照すべき本が誕生したと言える。
本書の知見を簡潔にまとめると次のようになる。「日本人のボランティア行動は収入や職業にほとんど制約を受けておらず、教育水準や主観的性質(共感性・宗教的態度)によって形成されている。また、その主観的性質は幼少期に接したロールモデル(人助けする近所の人・宗教的な母親)から学ばれている」(160頁)。少し補足しよう。本書の重要な知見の1つは、現代日本のボランティア活動経験に収入や職業の効果が見られないということである。海外では高階層の人ほどボランティア参加率が高いのが常識だから、かなり意外な結果と言えるだろう。日本でもかつては経済階層の正の効果が見られたが、1990年代から2010年の間にその効果が見られなくなった。より精確に言えば、「家族以外の高齢者への援助行為」はむしろ低階層の人が行う傾向があるものの、ボランティア活動一般については高階層の人が行わなくなりボランティアの「脱階層化」が進んだのである。
この含意について筆者はノブレス・オブリージュとの関係で捉えているが、慧眼である。「ノブレス・オブリージュとは、もともとはフランス語で「高貴な義務」を意味し、一般的には「貴族や資産家など財産や権力を有する者にはある種の責任が伴う」という意味を指す」(165頁)。筆者はこれについて「高階層の人びとがそうでない身分の人びとに対し「利他」的にふるまうことで身分の格差・不平等をみえにくくし、多くの市民を納得させることができた」(166頁)と述べている。大枠では異論がないが、私は少し解釈が異なる。ノルベルト・エリアスの研究などを踏まえるなら、中世以降台頭していく中産階級に対し、上流階層は振る舞いのレベルで差異化を図る閉鎖戦略を精巧化させていった。つまり高貴な施しは、「格差・不平等をみえにくく」するどころか、それを固定し正統化するための象徴的行為として位置づけられていたと考えられる。
起源が「利他」であれ閉鎖戦略であれ、この指摘で重要なことは、欧米では上層のハビトゥスとしてボランティア的態度が位置づき、それが現在も機能している可能性があるということだ。これと対照的な日本の現状について、筆者は「従来は高階層の人は地域社会で中核的な役割を担うことを期待される状況があったが、現在はそうした社会的圧力が弱まりつつあることが考えられる」(164頁)と述べている。私も同様に考える。生業を中心とした地域共同体が機能していた前近代から戦前にかけては、高階層の社会的義務が特に強固に存在していた。もっともそれは、地域における「分に応じた」封建的な役割規範の産物であった。名主や地主層は共同体の福利を推進する責任を負い、寄進に際してはより多くの額を寄付した。しかし近代化に伴い導入された形式的に平等な選抜の浸透と、戦後の都市化と産業構造の転換がもたらす社会移動の激化の中で、前近代的な「高貴な義務」は徐々に解体していった。教育選抜によって形成された戦後のエリートは、出身階層の効果を強く受けつつも、それに伴う身分的意味秩序やハビトゥスは継承せず、大衆文化に包摂された「自分をエリートと思わないエリート」へと変貌した。それでも高階層の方が社会参加率が高いという傾向はしばらく見られていたが、ネオリベラルな政策の中で経済格差が拡大した2000年代に、高階層はボランティア的行為からも撤退していった。この知見はボランティア論に留まらず、現在日本の格差社会の「質」に関する洞察を与えてくれる。
このように本書は、単に「優しい世界」の奨励ではなく、社会学の著作らしく社会についての興味深い含意が随所に見られる。私がもう一つ関心を頂いたのは、教育の効果についてである。教育の効果といっても、「ボランティアする心を育む教育」などではない。むしろ、学校での「利他性教育」は後のボランティア行動に影響がないという、個人的には喜ばしい結果が出ている(7章)。喜ばしいというのは、学校教育のプログラムなんかで、容易に人の行動を変えられないことが分かったためである。万が一、学校で「愛国心教育」が行われても、それを受けた子どもが将来「愛国的行動」に走ると悲観する必要はないかもしれないのだ。他方、効果が見られたのは教育年数である。つまり大学に進学するなどして長く教育を受けることは、共感性を育み、直接的、間接的にボランティア参加率を高める。筆者はその背景として、「教育を十分に受ける過程で、それまで知らなかった現実の新たな次元を学び、多角的な視野から社会での出来事を捉えることが可能になる」と解釈している(163頁)。この解釈は直接実証されたわけではないが、高等教育の外部効果を示唆していて興味深い。特に前述のように、金持ちがノブレス・オブリージュから撤退しているとしたら、教育によってその空隙を埋められる可能性がもつ意義は大きいだろう。
以上は本書の分析の一部だが、ボランティアの要因分析に関する統合理論を作るという狙いに恥じず、様々な角度から丁寧な分析が行われた素晴らしい研究だと感じる。しかしその一方で、本書が対象とする「ボランティア」とは何だろうという思いは最後まで残った。その疑問に憑かれた人にとっては、本書の相貌は全く異なるものになるだろう。
実は私は今、この原稿をパリのマクドナルドのカウンター席で(学会の合間に)書いている。ガラス越しに見える隣の歩道には、ホームレスと思しきパーカーのフードを被った足の長いお兄さんが、畳んだシュラフの上に座って物乞いをしている。顔立ちからすると中東にルーツを持つようだ(おしゃれで、日本で「ホームレス」という言葉が与える印象とは異なる。社会的排除の発現形態も文脈によって異なるのだ)。1時間に7〜8名もの人が何かを渡していった。小銭、ペットボトル、タバコ(火も付けてあげていた)、マクドナルドのポテトなど。物はあげないが気さくに声をかけていく人もいる。これは一体何を示しているのだろうか。
本書で示されているデータによると、ボランティア活動率は日本(24.7%)とフランス(28.5%)で大差はないそうだ(36頁)。しかし私は、そのように数値で比較可能な「行為」とは何なのか徐々に分からなくなっていった。例えばこれと同じような光景を――フォーマルな炊き出し活動や夜回り活動ではなく――新宿で見たことがあるだろうか? パリの片隅でのささやかな贈与行為の頻度や、自然な仕草、会話を取り交わす表情などを横目で見ながら、その行為の意味体系内の位置が日本と異なっているであろうことを感じる。異なる例だが、昔の日本では、共同募金は地域の義務として課され、払わない/払えない家は誹謗中傷の的となった。そのようにして集められた募金について、研究者や施政者は「利他心」の表れであると定義した。この両者は「他者への贈与行為」という概念のもとで比較可能な「同じもの」なのだろうか。
もちろん「日本のボランティアが本物ではない」と言いたいわけではない。逆に「ボランティア」と呼ばれるものの背後に、利他や共感のような本物/本質を見出そうとする実体論的なまなざしに居心地の悪さを感じるのである。研究者が操作的に定義した瞬間、各社会や各文脈における行為の意味は捨象され「同じもの」として扱うことが可能になる。「ボランティア」について利他心を表す人間の普遍的行為と見なすことも、それによって心理学や動物心理学との連続性の中で対象を捉えることも可能になるだろう(45頁)。
しかし、ある行為を因果論的に「説明」しようとする議論は、その被説明項である行為をいかにして同定するのかという問題を無視することで成り立つ。実際には研究者の操作的定義以前に、その行為は社会の成員自身によって言語を用いて記述され理解されている。人々の行為記述の実践とは、行為自体を分節化し、行為者のアイデンティティを措定してそこに意図や責任を帰属させる実践であり、それこそが社会の構成要素なのである(参考:小宮友根「行為の記述と社会生活の中のアイデンティティ――J・バトラー「パフォーマティヴィティ」概念の社会学的検討」『社会学評論』60巻2号)。本書では因果「説明」的研究を、人々の行為記述を内側から理解するタイプの研究の「経験的根拠」と考えているのかもしれないが(29頁)、もしそうなら決定的な転倒があるのではないだろうか。
このように書きながら、私はラマダンについて考えていた。私がフランスに着いたのはラマダンが終わって間のない時期だった。イスラム世界では、ラマダンの期間中、貧しい人への施しや支援団体への寄付が増える。期間中の善行が宗教的に推奨されているからだ。しかしその期間は、過激なイスラム原理主義団体への寄付も増え、結果としてテロが増えることでも知られている。両方に寄付している人のリアリティとしては、貧困や不正と闘う団体への寄付という意味で他の善行と区別はないのかもしれない。人々がその行為に与える意味や文脈の内側からの理解なしに、この種の寄付が「ボランティア」と呼べるのか、利他的なのか他害的なのか、研究者が外挿的に定義することにあまり意味はない。
思いがけず、私のコメントは前半と後半とで全く異なるものになった。この亀裂は、行為の説明と理解、本質主義と構築主義など、認識論や方法論にも関わる形で社会学自体が内側に抱え込んだものでもある。「ボランティア」という対象はその亀裂が露呈しやすい対象の一つであり、私自身の研究も含めその言説は両極に引き裂かれてきた。その「統合」の試みは、「主観要因と客観要因の統合」とは比にならないほど困難で、矛盾と相克に満ちたものになる。しかしそこから芽吹く双葉もあり、日本社会における「ボランティア」の意味・役割の的確な理解という果実をつけるはずだ。今回「説明」的観点から優れた研究を世に送り出した筆者がもう一方の視点も自らのものとし、その果実を楽しむ時、日本のボランティア研究は新たな段階を迎えるだろう。