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書斎の窓

自著を語る


『日本地方財政史――制度の背景と文脈をとらえる』

奥野誠亮と柴田護、石原信雄、そしていま

関西学院大学大学院経済学研究科人間福祉学部教授 小西砂千夫〔Konishi Sachio〕

小西砂千夫/著
A5判,422頁,
本体4,400円+税

制度形成期の巨頭

 昨年11月に逝去された奥野誠亮氏は大正2年生まれ、柴田護氏は大正7年生まれである。奥野と柴田は、自治官僚として地方税財政制度を形成した二大巨頭である(一方、自治制度の立役者には鈴木俊一、小林與三次、長野士郎の名前が挙がる)。昭和22年12月末をもって内務省は解体された。その際、後の自治省財政局・税務局と行政局は、それぞれ地方財政委員会と総理庁官房自治課(一時的な組織としての内事局を経て)に分かれている。

 解体されたばかりの地方財政委員会が創設したのが昭和23年の地方財政法である。前年に地方自治法が成立し、そのなかで財務に関する規定が盛り込まれていたことから、そこは触らずに、国と地方の負担区分と起債制限の2つを柱とした。誇り高き内務省が無残に切り崩された失意はいかばかりかと思うだけに、地方財政法の立法過程はまさに鬼気迫るものがある。

 内務省は強大な省であったといわれるが、教育や鉄道、逓信などの一部を除いて、内政に関するすべてを所管していたのだから当然である(厚生省や建設省は内務省から分かれた)。戦前の府県は、自治的な機能はあったものの内務省の出先機関であり、地方自治体と呼べるのは市町村だけであった。内務省は、内国統治を司る省として、各省の政策を市町村に委任する場合に、市町村の行政執行環境を整える盾の役割を負っていた。

 しかし、戦後、都道府県が自治体化されて、内務省が解体され、各省が競って出先機関を設けるようになると、地方自治体は、各省のやりたい放題にされる懸念が生じた。各省が法律を根拠に仕事を地方自治体に委任するものの、財源手当を始め、十分な執行環境を提供しないことである。地方財政法の国と地方の負担区分論は、それを防ぐための立法規定として設けられた。その起草は、奥野と柴田が行った。昭和24年には両名で『地方財政法講話』(太平社)を刊行している。

 もっとも法律だけで、財源面の問題が回避できるわけもない。地方の一般財源は、地方財政平衡交付金時代はまったく不十分であり、地方交付税に改組後10年あまりを経過した昭和41年度に、法定率を32%に引き上げたことで、一応の結果が出る。一方、国庫補助金関係はさらに問題が大きく、昭和48年の摂津訴訟を契機に超過負担問題の解消が動き出すのは昭和50年代に入ってからである。

 ところで、地方財政法は、戦前の地方自治制度のながれのなかで、国と地方が協力・分担して事務執行を行う、融合型の事務配分を基本としていた。地方財政法もそれを前提に負担区分を規定している。それに対して、国と地方の分離型の事務配分を提起したのが昭和24年のシャウプ勧告である。シャウプ勧告の事務配分論を具体的に検討したのが神戸正雄を議長とする地方行政調査委員会議であった。この神戸勧告に対して、奥野も柴田も冷ややかであった。その後の制度の動きを見る限り、事務配分を分離型にする神戸勧告は、方向性の議論としてのみ正しいと受け止められた。一気呵成に変えるのは現実的でなかったからである。融合型事務配分が現実的と判断したことは、奥野が義務教育費国庫負担金に理解を示したことに表れている。

 シャウプ勧告が産み落としたもののなかで、その後の地方財政を決定づけたものに、地方税体系の確立と地方財政平衡交付金がある。奥野は、地方税財政のすべてに通じた人物であったが、とりわけ附加価値税に対する思いが深く、地方税のあり方について多くの論考や対談を残している。その意味で、地方税体系は奥野が基礎を作った。

 一方、地方財政平衡交付金に対して、占領統治の当時からワークしない机上の空論という思いを、奥野も柴田も持っていた。柴田に至っては実名で批判論文を公表している。所要の財源確保ができないからである。柴田は、昭和29年に地方交付税に改組した際の直接の担当者であり、41年に法定率を32%に引き上げたときの財政局長であった。その時点では、奥野は事務次官を終えて国会議員に転出し、与党の有力議員として地方行政を支えていた。

 地方財政制度の基本を形成したのは柴田である。柴田の名著『地方財政のしくみと運営』(良書普及会)は、「地方財政物語」として『自治研究』における、財政局長時代の昭和41年から退官後の昭和45年までの35回にわたる連載を基にしたものである。そこには、地方財政制度の理論をかたちにして残すという確固たる意思があった。柴田が残したおびただしい論考は、いまも輝きを失わず、読み手を魅了する。それは理論的整合性もさることながら、内務省解体の悲劇を乗り越えて、地方自治制度をつくり戦後社会を支えた者の誇りと思慮深さゆえであろう。

制度の柔構造の基を作る

 石原信雄氏は大正15年生まれ、内務省経験がなく、昭和27年地方自治庁入庁である。昭和61年に自治事務次官の後に、62年の竹下内閣から平成7年の村山内閣まで7つの内閣で官房副長官を務め、大喪の礼を仕切ったことで知られる。一言でいえば能吏だが、そのような軽い言葉では表現できない存在である。地方財政制度はさまざまな政治的課題を吸収できる柔構造であるが、その性質は、石原が持つ柔軟性を、永年にわたる制度運営で発揮してきたゆえに磨かれたといえるのではないか。石原は、奥野にも柴田にも信任が厚く、制度の具体的な設計と運営の面で頼りにされた。

 石原が自治官僚として関わってきた項目を挙げると、地方財政再建促進特別措置法に始まって、地方交付税における投資的経費の算定のあり方、法定率の引き上げ、都区財政調整制度、高率補助金の補助率引き下げ問題、摂津訴訟、東京都起債訴訟、公営企業金融公庫の改組問題、自治医科大学の設立など、枚挙に暇がない。なんのことはない、昭和27年入省から61年の退官時までに地方財政に関して生じたほぼすべてのことに関わっている。文字通り、脅威の引きの良さである。

 柴田が制度を形成する意志の強さを感じさせる人物だとすれば、石原は、比類のないバランス感覚で急流を事故なく駆け下るような、無類の適用力をもった人物といえる。石原氏も多くの論考を残しているが、『財政調整制度論』(ぎょうせい)は、この度、2度目の改訂版が公刊された。そこにはマクロ(地方財政計画)とミクロ(地方交付税)の運営が、制度の連続性という観点で説き起こされている。

従軍記者として実態に学ぶ

 拙著『日本地方財政史――制度の背景と文脈をとらえる』(有斐閣)は、奇しくも同名の編集者、柴田守氏のお勧めに従って書名を決めたものの、歴史研究とは考えていない。自治官僚が書き起こしたものを基に、制度運営の文脈を、敗戦後から現在まで、通史風に整理したものである。あとがきで「「自治官僚による地方財政制度における内在的論理」、言い換えれば、地方財政における統治の論理を書き起こした」と書いたところ、岡本全勝氏(自治官僚、復興庁元事務次官)に、ご自身のホームページでその箇所を取り上げられ、「これは、なかなか書けるものではありません。…中略…本来なら、地方財政制度を設計してきた関係者(自治官僚)が、書くべき本かもしれません」と論評していただいた。

 まさしくである。自治官僚の内在的論理を、なぜ書く必要があるのか、なぜ自治官僚でない研究者が書くのか。

 なぜ書く必要があるかの答えは簡単である。誰も書いてこなかったからである。筆者は、学生時代に手に取った米原淳七郎『地方財政学』(有斐閣、1977年)を改めて読み返すことで、地方財政に関して、学会における制度研究と、柴田や石原の述べる地方財政制度論との間に、構造的に深い溝があることを見出した。どこにどのような距離があるのかについては、学会でも報告し、著書の一部に収録したこともある。それを通じて、研究者は学会で蓄積された知識をもとに、現実の問題に働きかけることが可能なのか、という強い疑問を抱くに至った。

 今学期、学部の2年生の演習科目で、佐伯啓思『現代文明論(下) 20世紀とは何だったのか――「西欧近代」の帰結』(PHP新書)を講読している。学部生向けの講義録を基にした本書のなかで、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を素材に、大衆民主主義について解説した章がある。そこでは、大衆民主主義における大衆について「政治とは、ごく平凡で平均的な者の、平凡な感覚や思いつきで動けばよいと思っている。だから、自分はごく平凡な人間だが、まさにその凡庸な考えこそが政治の場に反映されるべきだと考えている」(157頁)と述べられている。

 その箇所は、現代政治の特色を学ぶ上で、学生にも是非知ってほしい部分であるが、その章の最後の節「エリートこそが大衆であるというパラドックス」で、佐伯教授は、「〔オルテガが考える〕今日における大衆の典型は、…中略…社会のエリートである知的な専門家」であり、「西欧近代の進歩主義や技術主義や民主主義、つまり近代主義という者を心から信じている者、それこそが典型的な大衆なのです。その典型といえば、科学的な精神をもった専門家や技術者、ある種の知識人ということになります」(162頁)と喝破している。そしてその専門家が、自分が持つ狭い世界の知識に頼って、積極的に政治にかかわり、自分の世界観や社会観が政治的に実現されるべきだと考えることを痛烈に批判している。この箇所は、オルテガの口を借りて、佐伯教授が現代日本のエコノミストに対してもの申したものと響く。

 地方財政に関する学会関係者は、奥野、柴田、石原と続く地方財政に関する統治の知恵を掘り起こす作業をしてこなかった。それがなぜなのかを示唆するのが、佐伯教授のオルテガ解釈である。応用ミクロ経済学などの手法を用いて財政制度を分析するなどは、科学主義そのものである。一方、反権力を志向する経済学派は、そもそも権力側であるというだけで批判の対象である。そこに学の問題がある。

 ではなぜ自治官僚自身が内在的論理を明らかにしないのか。それが不可能といえるほど、大衆民主主義が強まっているからである。平成に入ってから、多くの制度改正があり、地方財政制度をめぐるさまざまなドラマがあった。しかし、担当した官僚が、その内在的論理を、実名で明らかにすることなど、とても許されないのが、今日の基調としての官僚批判である。かつての柴田の時代のように、勇気を持って自由に見識を披露できる場はない。

 統治の論理が重要であるにもかかわらず、そのことがリスペクトされないのが今日の悲劇的構図である。本書『日本地方財政史』は、いわば従軍記者として、地方財政をめぐる戦記を過去から直近まで遡って綴ったものである。研究者は従軍記者の役割が務まれば名誉なことだ。予断を持たずに現場に真摯に学び、底流にある論理をシナリオとして明らかにすることは、間違いなく、研究者の使命だからだ。研究対象が、国民生活を支える基本を担っていればなおさらである。

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