書評
『質的社会調査の方法
――他者の合理性の理解社会学』
(有斐閣ストゥディア)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授 西澤晃彦〔Nishizawa Akihiko〕
事実を明らかにする過程において採用されるアプローチは、アドホックに適切なものが選ばれ組み合わされるべきなのであって、統計データをふんだんに用いたエスノグラフィーや、生活史の解読によって解釈を導き出した統計的分析が少なすぎることの方が問題だ。本書の束ね役である岸政彦も、序章において次のように述べている。「ほんとうは私は、社会学の調査が、量的調査と質的調査にそれほど単純にはっきりと分かれるとは思っていません。それは実際には正しくない分け方だと思います」(9頁)。しかしながら、量的調査と区分された質的調査というカテゴリーがあって、それに限定された教科書が書かれなければならないという、制度的な事情がある。だからこの本も書かれたのだけれども、この岸の言明は、本書が、質的調査法の教科書としての拘束をこえて、調査という行為、できごと、現象そのものに含まれている可能性について触れるものであることを予告している。これさえやっておけばうまくいくだろう、後から文句は言われないだろうという保証を与えてくれるようなマニュアル本を期待する人がこの本を読めば、火傷をすることになるだろう。
本書は、序章と3つの章からなる。総論である序章に続き、第1章がフィールドワーク、第2章が参与観察、第3章が生活史という構成である。この構成からして、近年の大学生向けの教科書には見られなくなってしまった志がうかがわれる。シラバスに対応させて「使いやすい」(誰に?)ものにすることで、内容が薄い文章の羅列になってしまった教科書たちの中に置くと、この本は異彩を放つ。全体をまとめなければならない序章には苦労の跡がうかがえるけれども、まとまった紙幅を使ってそれぞれのフィールドでの悪戦苦闘を背景として書かれた残り3つの章は、著者たちが身を乗り出すようにして書いた迫力があり、読ませる。
ちなみに、第1章を執筆した丸山里美は女性ホームレスを、第2章の石岡丈昇はフィリピンのボクシングジムを、第3章の岸は本土からUターンした沖縄の人々を、それぞれ研究者としてのキャリアを歩み始めたその時期から調査対象としていて、そこでの経験が、「失敗」「後悔」「挫折感」とともに詳しく述べられている。このあたりについては読んでいただけるものと期待して、紹介はあえて控えることにしたい。いまだに、ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサイエティ』の「はじめに」がフィールドワーカーの内面を描いた必読文献ということになっているが、評者なら、今の初学者には本書を薦めることになるだろう。
調査という体験は、個有の人生が交わり合うところに生じるものであるから、一般化されマニュアル化された教科書など本当は成り立たない。読書を通じての調査法の伝授があり得るとすれば、いっそのこと「経験則にこだわっ」て(石岡、96頁)教科書を書き、読み物化してしまった方がうまくいくのかもしれない(読み物化とは、読者に「合わせる」ことではない。大学生向けの教科書に時折みられる読者への媚態が、読み物としては失敗を帰結することは言うまでもない。それらは総じて退屈である)。読者に、調査の現場を想像させつつ、しかし、結局は自分なりに試してみるよりないという現実を感覚させるという点で、こちらの方が優れているとも言える。
とはいえ、この本には、きわめて懇切丁寧にマニュアル的情報が並べられてもいる。列挙すると、アポイントメントの取り方と手順、調査依頼書の書き方と見本、手土産と謝礼について、待ち合わせと聞き取りの場所について、録音機材の使い方、生活史において人数はどれくらいに聞くべきなのか、何について聞くべきなのか、インタビューの進め方、フィールドノートやメモの取り方、フィールドノートが苦手な場合はどうしておくべきか、文字起こしとデータ整理の過程、図表の作成について、写真について、文献リストの作り方、先行研究の読み方、理論とのつきあい方、論文の書き方、プライバシーへの配慮などの調査倫理、何を書き控えるべきなのか等々について細かく書かれていて、社会調査の教科書としてはかなり利用者の目線を意識したものと言えるのではないか。もちろん、そのような情報についても、著者たちがそれを選び取るに至った試行錯誤とそうすることにした(そうせざるを得なかった)理由や事情が明かされていて、読者は、結局のところ約束されたマニュアルなどないことをやはり思い知らされることになる。
さて、岸は、質的調査の特徴をあえて言えば、「問いの立て方」(20-21頁)――答えを出してみては問いを立て直し、またとりあえず答えを導いては問いを立て直すという「捉え直し」の過程――を何よりも重視することにあると述べている。仮説―検証型の研究が検証をもって完了するのとは違い、「捉え直し」が繰り返されることによっていつのまにか知識が積み重なっていくようなイメージだろうか。こういう議論はこれまでにもあったように思うが、本書ではそれが調査現場での方法的構えとしてかなり具体的に述べられている。
例えば調査の始まりの段階について、丸山は次のように述べている。「そのはじめの段階は、自分とは違う誰かのことがなんとなく気になる、それで十分です」(丸山、39頁)。これは、初学者に優しい言葉では決してない。「むしろ最初の段階では、問いを決めすぎず、暫定的なものにとどめておくことの方が重要かもしれません。あらかじめ用意していた問いに固執していては、自分が想像すらしていなかったことがフィールドで起こっていても、キャッチできなくなってしまうからです」(40-41頁)。どうせ私たちの「問い」など私たちのもつ常識に縛られているものなのだから、そんなものに執着してはいけない、捨てよ、と毒のあることが述べられているのである。また、丸山は、「フィールドでは、……できるだけ「ぶらぶら」過ごすのがいいと思います」(51頁)とも言う。もちろん、ここには、「知りたいことだけを見て、聞きたいことだけを質問する」効率主義への批判が含まれている。この点について、石岡は、「「待ち」の調査手法」という言葉を与え、「参与観察は、一見して無意味な時間と思えるものにも耐えながら、じっとフィールドに身を置く営みなのです」(110頁)と述べる。そのような時間を通じて、「問題関心やテーマはフィールドのなかからできあがる。これがポイントです。決して、フィールドワークに先立って確定しているのではありません」(101頁)。石岡は、「「問い」はあらゆる作業を経た最後になって、ようやく立てられるものなのです」(146頁)とも言うが、この最後に立てられた問いが、再びフィールドへと調査者を赴かせるのだろう。
また、本書においては、「おもしろい」というそのことに格別の価値が与えられていて、著者たちはこの言葉を禁欲しない。それは、例えば、次のように用いられる。「最初に抱いていた興味関心に必ずしもこだわる必要はありません。フィールドでは自分が想像もしなかったことが起こっているはずですから、それも含めて、よりおもしろいと感じる部分に着目するのがいいでしょう」(丸山、76頁)。では、「おもしろい」とはどういうことであるのか。石岡は、「ゴシップ的な面白さ」と「社会学的な面白さ」を対比しつつ、後者が「調査者自身の「ものの捉え方」がバージョンアップされる」ものであるとしている(104頁)。もちろん、「社会学的な面白さ」こそが、本書での「おもしろい」である。より広いひろがり――それこそが社会としかいいようがないものだ――へと自らが解放される(=「「ものの捉え方」がバージョンアップされる」)感覚が「おもしろい」のは当然である。この「おもしろい」への誘惑は、「おもしろい」から疎外され、また、「おもしろい」ものを自ら疎外する硬直した身体と精神を引きずっている現代人にとっては、挑発であるだろう。だからこそ、本書は、教科書でありながら読みごたえがあり「おもしろい」。
岸は、「質的調査にもとづく社会学の、もっとも重要な目的は、私たちとは縁のない人びとの、「一見すると」不合理な行為の背後にある「他者の合理性」を、誰にもわかるかたちで記述し、説明し、解釈することにあります」(29頁)と無骨に述べる。そして、そのことは、調査者(そして読者を)を含むであろう現代人の「「自己責任論理」を解体することに役立つかもしれない」(33頁)と大胆に言う。
評者は「フィールドワーク概論」などという講義をこの秋から担当することになっているのだが、今日の大学生を想定しての今の評者の気構えは、岸が言うことに重なり合う。それでも岸が無骨で大胆であると言えるのは、本書における人間の合理性への強い信頼に評者がたじろぐからだし、質的調査――あるいは調査――の可能性を、今日的な政治的文脈の中に置いて取り出すことに性急さを見る人も多いだろうからだ。
果たして、社会調査のテキストでなされたこの言明に、不気味なまでに政治性を押し隠しているように見える多くの社会学者たちはどう反応するのだろうか。そして、本書では充分には展開されなかった調査のもつ力をめぐる岸の言明は、ゼミや講義の場において、そして、研究者コミュニティにおいて、引き受けるべき論題ではないだろうか。そこでの議論において青臭さを恥じることは、現状への敗北を意味するだろう。評者は、読了後、新自由主義よりもずっと前から営々と行われてきた調査の蓄積を想いつつ、反・反知性主義――知性主義ではなく――という控えめだが重要な知性の可能性についてあれこれ考えてみたりもした。