自著を語る
『法を学ぶ人のための文章作法』
――文章の種類を巡る議論から
早稲田大学国際学術院教授 佐渡島紗織〔Sadoshima Saori〕
刑法の専門家、民法の専門家に加えて文章指導の専門家が共著で出している本は、過去の日本には1冊もないそうである。つまり、法律の分野において文章の作り方を問題にした例はなく、文章指導の分野において法律を学ぶ人に読者を限定した例もない。本書の刊行は、その意味で画期的な出来事である。「おわりに」にも書いたように、一つには法律もしくは法律を語る文章がより〈平易な言葉で〉書かれることが求められるようになったという時代の要請がある。すなわち、汎用性が求められるようになった。もう一つは、法律の適用がより細分化され複雑になり〈緻密に考えて〉書くことが求められるようになったという分野の発展がある。法律分野の固有性である。本書は、「法を学ぶ人」が、法を語る際に、この固有性と汎用性の双方を身につけようという新しい提案ともいえる。
筆者が運営する早稲田大学ライティング・センターでは、学内のあらゆる分野の授業レポートや論文に対応している。ライティング・センターとは、学部生・院生・教員が文章を持って訪れ支援者と共に対話をしながら文章をよくする支援機関である。ライティング・センターの運営者として悩ましいのは、あらゆる専門分野の院生を文章支援者として揃えたうえで、彼らに文章支援技能を身につけてもらうのがよいのか、それとも、任意の支援者たちに文章支援技能を身につけてもらったうえで、さまざまな分野特有の書き方を勉強させるのがよいのかという点である。実際には、全研究科から支援者を募集し、さらに毎週の支援者研修で分野特有の論文の書き方を全員で勉強している。文章というものは、分野特有の問題があり、同時に分野間で共通する問題があるものである。
以前、ライティング・センターに、博士課程でシェイクスピア文学を専攻している支援者がいた。ある日、シェイクスピアに関するレポートを持参した学生がライティング・センターを訪れ、たまたまこの支援者に当った。専門領域がここまで一致することは珍しいので、2人は喜び合い、45分間のセッションはシェイクスピアの話で大いに盛り上がったそうである。しかし、セッション後にこの支援者が言った言葉が印象的だった。「ところが先生、気がついたら、文章はちっともよくなっていなかったんですよね。」というのだ。文章として共通する一般的な問題は、内容がよく分からない人の目を通すとかえって浮き彫りになるということだろう。
さて、人間社会にはさまざまな種類の文章が存在するが、文章の種類(ジャンル)というものをどのように捉えたらよいかを追究した一群の理論がある。初期の理論は非常に単純で、文章は文章が書かれた目的によって分類でき、しかもその目的によって形態が特定されると説いた。例えば、報告を目的とする文章は過去形で書かれ、中継を目的とする文章は現在形で書かれるなどである。中期の理論群では、いや文章はそのように単純に分類できるものではないだろう、むしろ文章は百の状況があれば百種類生まれるものであり、だから類型化はそもそも不可能であるとの主張が出てきた。そして類型化できるか否かで多くの国の理論家を巻き込む論争が数年に亘り繰り広げられた。後期の理論群では、文章は様々な社会状況を反映させて作られるもので、その状況は限りなく複雑で多様な要因から成り立っているという考え方が主流となった。文章に反映される社会状況の要因とは、例えば、書き手の立場、読み手との情報共有量、地理的広がり(インターネット上の集団は地理的には緩く広範囲)、集団の目的、構成員の結束の固さ、しきたりなどなどである。
本書においては、執筆前に、「多様な要因」を次のように想定した。読者層は、法学部で学ぶ学生はもちろんのこと、法科大学院で初めて法を学ぶようになった人も念頭に置こうと。大学や大学院ばかりでなく、独学で法を学んでいる人もいるだろうと。さらに、そうした「法を学ぶ人」たちが、やがて読者として意識することになる「専門家とともに裁判体を構成して判決を下す」市民も広義では視野に入れられた。本書が使われる場面として想定されたのは、主として自学、その他の可能性として学部や大学院での授業、学生による自主ゼミなどである。「答案を書く」という、特殊な場面の準備として読まれることも意識された。
筆者が担当したPartⅡは、こうした「多様な要因」が想定はされたものの、自身が「法を学んだ」経験がないという立場での執筆であった。「法を学ぶ人」が、まずは誰が読んでも分かり易い、そして書いた本人にとっても考えが整理される文章となるような観点を提示するようにした。文章をよくするためには、文章を診る観点を持つことが第一歩であるからである。筆者は、レポートや論文の書き方について書くことはあったが答案という特殊な場面を取り上げたのは初めてであったため、試験場面の想定は新鮮であった。
執筆過程で恐れたのは、「分かり易い文章」と「法を学ぶ人が書くべき文章」とが抵触する部分があるのではないかという点である。例えば、法律文書では、どこまでを一文とするかは一定の共有された了解があると聞いていたので、分かり易さを求めて簡潔な文を作ることを指南するのがよいかのかどうか分からなかった。あるいは、「おわりに」で触れたように、法または法を語る文章で使う用語が日常とは異なるものであるが故に解釈の幅を与えないものであるなら、誰にでも伝わる分かり易い表現を説くことは果たして得策なのかという疑問があった。
私が恐れていた点は、しかし、山野目先生執筆によるPartⅡ Columnによって、みごとに解決をみた。「では、私がコラムを挿入しましょう。」と山野目先生が提案されたときには、天から
続く、山野目先生執筆のPartⅢは、法を語る文章に関する原則を個々の文章に即して具体的に示している。PartⅠとPartⅡで提示された原則が、固有の事例でどう反映されるべきなのかが、数々の赤入れ事例からよく分かる。添削例がこれだけ豊富な文章の指南書は珍しい。答案文章を個別に指導してもらう機会がなかなか持てない読者には必見のPartである。
本書における、文章の種類に関する話題としてもう一つ挙げられるものは、言葉をどう捉えるかである。文章作成の指南書は、こう書きなさい、ああ書きなさい、こうしてはダメ、ああしてはダメと、どうしても形の話、目に見える事柄の話が多くなる。私自身は、文章は一つの形と見なしたとしても、その形を整えていくことで中身も整ってくるため、形を整えさせる指導は有効だと考えている。しかし、では本当に書き手が伝えたい事柄を表現できたのか、言葉で表現されている以上のことを読み手に読ませることは必要なのか、あるいはできるのかという問題がある。「法を語る文章」では、言葉のもつ可能性と限界をどのように認識していたらよいのだろうか。
よく学部生が「大学で書く文章は、客観的でなくてはならず感情を入れてはいけない。」と言う。これは間違いである。論証はしなければならないが、感情を排除して書くことは不可能である。私が大学院生のときに教授から聞いた話で印象に残っているものがある。水と生命の誕生との関係を研究している学者が書いたある論文は、読む者で涙しない者がないというのである(残念ながら私はその論文を読む機会を得なかった)。生命に対する敬虔さ、この感情が高度な学術的知見を導き、読み手の感情を揺さぶるのであろう。法を語る文章も同様の側面があると思われる。例えば判決文は、どこまでも論理的であることが求められるが、書き手は感情をもつ一個の人間であり、読み手もまた同じ社会で生きる人間である。
この、論理性が求められる文章の外側の世界、すなわち、書き表された言葉を超える世界を、井田先生がPartⅠの「はじめに」で示している。言葉は、そもそも「曖昧で不正確で多義的でもあ」り、私達はこうした言葉を用いて「他者と意思疎通を行」っているのだという前提である。草稿を拝読したとき、この章が、文章の指南書が陥りやすい穴をすべて埋めていると思った。
紹介する順序が逆になってしまったが、井田先生執筆のPartⅠは、「はじめに」をふまえたうえで、法律文章また法を語る文章が、「正確に・平易に・論理的に」書き手の伝えたいことを伝える文章でなくてはならないことを説いている。また、法的判断の合理性や正当性を文章として示すために、何をどう取り上げなければならないかが挙げられている。法と言葉の関係におけるルールは何か、事実をどう記述するか、法の解釈の基準は何かなど、社会において法がどのように機能しているかという基本的な仕組みが文章という切り口から勉強できる貴重なPartである。
文章の種類を巡る議論から自著を語った。本書は、「法を学ぶ人」が、法を語る文章を書く際に、その汎用性と固有性の双方を身につけようという提案である。ちょうどそれら2つのベクトルが交じり合った交差点のような位置に立つ本なのである。初めてこの交差点に立ち新しい学びを得たのは、言うまでもなくこの私自身であった。読者の皆さんも、この交差点に立って、是非、新しい世界を見てほしい。