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書斎の窓

書評に接して


表題の連鎖または歴史家たちとの対話
――『民法学を語る』の余白に

東京大学法学部教授 大村敦志〔Omura Atsushi〕

大村敦志,小粥太郎/著
四六判,254頁,
本体2,400円+税

1 加毛明准教授は、大村敦志=小粥太郎『民法学を語る』を評する一文の表題を「民法のための弁明――民法学者の仕事」とした。上記書籍に添えた仏文タイトル(Apologie pour le droit civil ou métier de civiliste)を訳したものであるが、もちろんこの仏文はM・ブロックの『歴史のための弁明(Apologie pour l'histoire ou métier d'historien)』を踏まえたものである。日本語で表記されるといささか気恥ずかしくもなるが、同時にまた、無造作に借用した表現に光が当てられたのを機会に、この表題について一歩立ち入って考えてみようという気持ちにもなる。

 小粥教授が愛用する「批評の連鎖」という表現を借りるならば、この小文は「表題の連鎖」について語るものとなる。とはいえ表題は借用したものの、私にはブロックの歴史観を適切に提示する能力などあるはずもない。そこで以下においては、一方で、もう1人の優れた歴史家・二宮宏之の説くところを参照しながら(同氏の『マルク・ブロックを読む』などを収録した『二宮宏之著作集5歴史家のメチエ』〔岩波書店、2011年〕による)、他方、あくまでも民法・民法学(droit civil)の観点を念頭に置きつつ、ブロックの著書の表題に触発された雑感を述べるにとどまることを予めお断りしておきたい。

 それにしても表題について語るとすれば、apologieには「弁明」よりは積極的なニュアンスがある(「弁駁」がふさわしい?)とか、métierには「身についた仕事」を反省的に意識化するニュアンスがある(「メチエ」というカタカナにするほかない?)といった語釈からまずは始めるべきなのかもしれない。以上の2点は私見ではなく、すでに言われていることであるが、ほかにもhistorienが「歴史家」ならばcivilisteは「民法家」(明治期には用例がある)かなどという問いも立てうる。しかし、紙幅の関係もあるので省略し、さっそく本題に入る。

 

2 『歴史のための弁明』の「序文」は、「パパ、歴史はいったい何の役にたつの、さあ、僕に説明してちょうだい」というよく知られる一文から始まる。この問いにつき、二宮宏之は次のように述べている。(戦争に続きレジスタンスに参加して)「明日の運命も定かでない状況を生きていたブロックは、専門の研究者たち、大学の教師たち、知識人たちのあり方について深刻な反省をせざるを得ず、それがアカデミズムの伝統的歴史学への批判をいっそう強めていたと思われることです。幼いひとりの少年の直截的な問いが、専門家により無視され敬遠されるのに反比例して、ブロックには学問に従事するものにとっての試金石のように映っていたのではないか」。「付け加えておきますと、少年の問いかけを受けとめるにあたり、歴史学の社会的役割の問題がブロックの念頭にあったことは、彼の専門家批判からも当然のことです。この序文ではそこまで言及されていないのですが、残されていた本書の構成プランのひとつ(中間プラン)によりますと、最後に『結論に代えて――社会と教育における歴史の役割』が予定されていたことが判ります」。

 ちなみにブロックは、「序文」冒頭のパラグラフに付された注において、自分の恩師たちが「歴史は何の役に立つか」という質問を「無用な質問」としていたことを指摘している。その上で「我々の研究の進歩そのものは、研究者の世代の間の必然的な矛盾によって作られるということも、さらに彼らは隠さずに言った。それ故私は有益であると思われる箇所では、彼らを自由に批判することによって、彼らの教訓に忠実であるだろう」と述べている。二宮も説くように、伝統的歴史学に対するアナール派の挑戦は、専門家批判という観点からも理解できそうである。

 このようなスタンスは、ブロックの市民(シトワイヨン)としての生き方ともかかわっている。再び二宮からの引用である。「フランスが歴史のなかで創出し担ってきたさまざまな価値、とりわけ革命とその後の共和制が生み出した価値と一体化したいという信念のもとにブロックは生きてきたということです」。「ブロックにとって共同体や社会や国家は個々の人間に先立って存在し個々人を外から拘束するものではなく、1人ひとりが自らの決断により相互に結び合うことによってかたちづくられるものだということになります。国家について、古典古代のポリスやキヴィタスにならい『政治的共同体』la Citéと呼んでいることからも、その意図は明らかです」。もっとも、二宮は次のように付言することも忘れない。「ブロックに陥穽があるとすれば、ひとつには、理念としての共和主義を想うばかりに、それを、ネーション・ステートによる統合の一形態である現実のフランス共和国と同一視しかねないことであり、他面ではまた、共和主義の原理を徹底的に純化していけば、現実の生に由来する文化の多元性を否認することになりかねない、ということであります」。

 

3 M・ブロックについて語る著書の中で、二宮宏之は次のような指摘もしている。「分析のためにはいきなり混沌とした全体を相手にするのではなく、人間活動の領域ごとに便宜上分割して検討するのがふさわしいことはもちろんであるとブロックは認めます。しかし、とかれはただちに付け加えていうのですが、宗教人、経済人、政治人といった形容詞つきの人間のリストはいくらでも長くすることができるけれども、『肉と骨をもつ唯一の存在は、これらすべてを包括した形容詞なしの人間』なのだ、と」。二宮が自らの最初の著書に『全体を見る眼と歴史家たち』(現在では、その主要部分は『二宮宏之著作集1全体を見る眼と歴史家』〔岩波書店、2011年〕に所収)という表題を付したのは、こうした見方に共感したからであったろう。

 しかしながら話はそう簡単ではない。アナール派以後の歴史家たちもまた一枚岩ではないからである。今では二宮の著作集第1巻の『全体を見る眼と歴史家』に収められた「系(セリー)の歴史学と読解の歴史学」という論文が興味深い。二宮は同論文を、アメリカのフランス史家R・ダーントンが『猫の大虐殺』において「系の歴史学」を厳しく批判したことから説き起こしている。二宮によれば「ここで『系(セリー)の歴史学』と呼ばれているのは、歴史分析に当って、個別事例の恣意的な寄せ集めを排し、大量の、同質的なデータ(系をなすデータ)の統計的分析を通じて、地域類型や社会階層間の差異や時間による変化を辿ろうとする方法的立場」であるという。二宮は続ける。「ダーントンは、フランスの歴史家たちが数の勘定に熱中するあまり、文化現象は勿論、社会関係のなかにも働いている象徴的要因を過小評価し、歴史における本質的なものを見失っている、と断罪する。象徴的世界を捉えるためには、その不透明さと他者性とを認めた上で、それにふさわしい読解の方法を生み出さなければならないにもかかわらず、『系の歴史学』には、この自覚そのものが欠けているということになろう」と。また、(イタリアの歴史家でミクロストリアを提唱する)「ギンズブルグは………極限的事例のうちにこそ、民衆文化の本来的な特性は、もっとも露わに顕現しているのだ、と主張する。当時の民衆文化にはさまざまな形で規範化の力が及んでおり、統計上の平均として表れるものは、ステレオタイプ化した民衆文化の表層にすぎない、と考えるからだ。こうして、彼は、『系の歴史学』に対し『読解の歴史学』を対置することになるだろう」と。

 以上の批判に対して二宮は、さしあたりは「『系の歴史学』と『読解の歴史学』を頭から二者択一的に論ずること自体、生産的な議論とは言えないだろう」としている。しかしながら、別の個所(「読解の歴史学、その後」)では、「歴史とは、まるごと『文化』なのであり、『文化史』とは、社会史や政治史と並ぶ、歴史の一分野なのではなく、歴史をまるごと文化として読み解こうする歴史学ということになろう。これは、かつて『社会史』が、歴史をまるごと社会としてとらえようとしたのと同様の発想と言ってよい」と述べている。その上で二宮は結論づける。「文化の歴史学の視点からは、これらすべての現象は、それを生きる人間により『自らのうちに思い描かれること』(表象されること)によって、初めて歴史現象となるのだ。文化の歴史学は、それゆえ、客体的な事実を発見しようとする歴史学ではない。それは、表象されることによって意味を付与されていることがらの、その意味を解こうとする歴史学、つまりは読解の歴史学なのである」と。

 

4 小粥教授は「加毛准教授の書評は、『民法学を語る』を、『遠慮なしに批判をする』ものとは違う」としつつ、そこに「先行世代を葬り去ろうとする危険な香りが漂う」と述べる。また、「書評は、加毛准教授の民法学観の縮図になっている可能性がある」ことを指摘して、これに間接的な反論を行っている。言わずもがなであるが、本稿は、2人の論者が設定した「婉曲話法による応酬」というゲームのルールに則って(さらにこれを推し進めて)書かれている。また、小粥教授が示唆する他業種との比較という観点を承継しつつも、同教授とは異なる方向への展開を試みている。

 もともと筆者は、本稿において「2人組であること」(共同でゼミを開き、共同で執筆すること)の意義について書くつもりであった。本稿に登場する歴史家について言えば、M・ブロックとL・フェーブル、二宮宏之教授と遅塚忠躬教授が、民法に引き付けて言うならば、F・ジェニーとR・サレイユ、末弘厳太郎と穂積重遠などが、それぞれ相互作用によって生み出したものについて語る。そうした方向に向かうことを考えていた。しかし、与えられた紙幅はもう尽きつつある。最後に、「2人組」ではなく「3人組」の可能性につき一言して結びに代える。たとえば、二宮・遅塚に(年長の)柴田三千雄を、末弘・穂積に(年少の)我妻栄を加えてみる。こうした観点に立つと、像はどのように変化し、何がみえるのだろうか。

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