自著を語る
『社会福祉のトポス――社会福祉の新たな解釈を求めて』
「社会福祉のトポス」って何だ?
日本女子大学名誉教授 岩田正美〔Iwata Masami〕
大学を定年退職するということ
今回有斐閣より公刊した『社会福祉のトポス』は、2015年3月に大学を定年退職した私の「卒論」だと言いふらしている。3つの大学を渡り歩き、教育や学校行政は嫌々やってきた私にとっても、定年退職という事態は、何らかの感慨を起こすものらしい。定年を控えたある時、急に「卒論を書かなければ!」と思ったのである。教員としての仕事の中でも、卒論、修論、更に博論の指導はやっかいなもので時間も取られる。しょっちゅう「論文、論文」とおしりを叩いてきた身として、私も定年退職にあたっての「卒論」を書かねばならないのではないか。むろん、研究者として多様な論文を書いてきたが、この場合の「卒論」とは、教員として教えてきた社会福祉についての、私なりの総括論文というような意味合いである。
大学で何を教えるかは、必ずしもその教員が「専門」と考えていることだけではない。かなりのところ「与えられた科目」があるし、専門自体その影響を受ける。私は、もともと社会福祉学科卒業であり、社会福祉を貧困というフィールドから研究してきた。だが最初の大学では生活経済講座に配属されたので、貧困論の傍ら家計調査を素材とした生活論を勉強した。この経過から、次の大学では、生活構造論をまず受け持ち、途中から社会福祉原論の授業を持つことになった。社会福祉学科卒とはいえ、否むしろそれゆえ社会福祉原論という科目は、正直荷が重かった。ある時、研究室を訪ねてこられた方が、私の書棚を見て、「先生、社会福祉もやるんですか?」と驚かれたことがあった。いや、本当はこれが本業、と小さな声で言った覚えがある。しかし、3番目の大学も含めて、結局のところ20年以上「社会福祉原論」ないしは「社会福祉原理論」を、その構成や内容に悩みながらやってきたことになる。この苦闘はいくつかの論文や共著に活かされてはいるものの、社会福祉についての単著は書いていない。かくして私の卒論は、この授業の総括であるべきであり、『社会福祉のトポス』への取り組みが始まった次第である。
社会福祉の社会福祉学
最終講義で、まだ途上にあったこの本の宣伝をしてしまった手前、完成後常より多く献本する手配をした。いただいた礼状の中で、「トポスって何?」(日本語を使え)というお叱りがあった。まっとうなご意見である。また私に近い年齢の現場の方たちからは「社会福祉は権利ではいけないのか?」と不安がられた。まあ、これも(全文読まないうちに頂いた礼状であることもあり)不思議ではない感想である。他方、私の授業で苦労した卒業生たち(普通の会社勤め)は結構分かってしまったとのこと。この本は教科書ではないし、表現も難しいが、授業でのトーンとそう変わらなかったのかもしれない。なかでも何度も授業を聞いてくれた大学院の留学生が、多分最も早く全文を読破し、理解してくれたようである。社会福祉学の常識への根本的疑問が基盤にあり、なんとかそれを打破してみたいという私の意図や諸概念の批判を繰り返し聞かされてきた人々には、本書は必ずしも難しくなかったのだろう。
この卒論は、敢えて言えば「社会福祉の社会福祉学」を試みようとしたものである。これは妙な言い方に聞こえるかもしれないが、社会福祉はその事業の広がりと共に、多様な学問が参入する学際領域となっているという事実がある。これに対して、社会福祉を固有の学たらしめようとした系譜があり、現在も若い研究者を含めてその挑戦がなされている。私はこれらの系譜とはかなり異なった角度から、社会福祉を全体として掴んでみたいと考えたのである。ここでは、社会学や経済学、法学などの手法はむろん参照しているが、特定手法でのアプローチではなく、混合的である。ただし基礎概念として、社会福祉の領域で育まれてきた固有の概念、たとえば社会福祉ニード、社会福祉資源、政策からサービス現場までの社会福祉の権力について、批判的に吟味することを前提とした。その上で試みたのは、戦後日本で実施されてきた広義の社会福祉諸事業から出発し、いわば帰納的にそれらの事業の社会における位置を確かめることであった。仮説として、社会福祉の諸事業は、1つの本質があるというより、異なった形式とカテゴリーで、社会にその位置を与えられていると考えた。この社会と社会福祉の接合形式の違いを意識するために用いたのがトポスという用語である。トポスはギリシャ語で「場所」を示す言葉であり、数学におけるトポロジー等が有名であるが、本書では社会が社会福祉に与える形式と位置の違いをイメージして使った。この場合、その位置は複数であるが、単数形のトポスの方が知られているので、トポスにしたわけである。
白書との格闘
固有性を追求しようという社会福祉理論は、とかく理念の強調に終始するか、福祉工学としての設計に傾きがちである。私は本来実証主義者なので、なんとかこの高尚な理念を世俗に引き下ろし、なおかつ福祉工学ではなく、社会科学として議論できないかと考えた。語弊を恐れずに言えば、権利や人間の尊厳等を高所から叫んで事業批判をする、よくあるパターンに愛想がつきたのである。また、社会福祉をいわゆる狭義の社会福祉や、具体的法律名で縛ることは、広い意味での社会福祉における社会分業の変化を無視してしまうことになるので、これは避けたかった。
そこで、社会福祉の範囲を、かつて総理府にあった社会保障制度審議会が行った広い定義にしたがって把握し、この具体的諸事業を、厚生白書(→厚生労働白書)、失業対策年鑑、教育白書(→文部科学白書)、犯罪白書の4つの行政報告から拾い上げてみることにした。この場合重視したのは、1つ1つの事業というより事業集合という考え方であり、またその事業集合が変容する点であった。ここでの方法は、数学の集合論であり、要素事業と、幾つかのそれらを包含する事業集合という見方を採った。もちろん、そうした集合は政策執行が要請していくもので、白書の記述形式や行政分業に示されている。また、ここでは個々の事業の名称、対象者の範囲とカテゴリー、さらに上位、下位といった事業集合の序列やその変化に特に気を配ることとした。
こうした発想は、比較的早くに思い浮かんだが、実際の作業は、想像以上に骨の折れるものであった。白書なぞホームページでいくらでも閲覧できるご時世であるから、ずいぶん簡単なことをやったものだ、と思われるかもしれないが、やってみるとそう簡単ではない。失業対策年鑑はホームページからのアクセスは出来ない。厚生(労働)白書は、私の作業期間にあてた夏休みに突如閉鎖したため、白書本体からエクセルへ移し替える作業となった。秋になって単なるコピーではない立派な形で再登場したが、そうなるとページが特定できないため、また紙へ戻るという羽目になった。また白書は、事実としての事業だけでなく、政治や行政が考える「あるべき将来像」をぶち上げる傾向が強くなっていくので、そうした「願望」と区別して、事業それ自体を把握することが、案外難しかった。レトリカルな言葉で彩られた本文ではなく、巻末の図表などを細かく見ていく必要が少なからずあったのである。
白書との格闘だけでなく、それを本書の中に「証拠」資料として入れ込むことが、もう1つの難事業であった。当初作った表を見て編集部はあきれ果てたに違いない。簡易版はよいとしても詳細版はどうにかならないか、横組みか縦組みか等に始まって、最後は文字を数えつつ、なるべく短く収まるよう奮闘した。校正者は白書まで辿って、誤りを指摘してくれた。卒論であるからして年を越えないようにと気を配っていただいた手前、こちらも必死に校正をした。送られてきた校正刷りを修正して送り、それに校正者が赤を入れて、またチェックという具合で、普段の校正の3倍位はやったのではないかと思う。最後は、完全な校正ノイローゼ。
発見と確認
むろん、この白書との格闘の過程では興味深い発見が沢山あった。通説と違う事実に出会ったときの興奮や納得が、白書からの表づくりや校正の苦労をはるかに上回っていたと思う。その詳細をここに書く余裕はないので、ぜひ本書第4〜6章をお読みいただきたい。これが本書のハイライトで、絶対オススメなのだが、表が多いのでスキップされそうな不安から各章に小括をつけた。いわゆる社会福祉の段階説の見方は完全に覆されると思うし、社会福祉が保健福祉となり、さらに近年では地域福祉となって、社会福祉という用語それ自体が、なぜか避けられていくプロセスが了解されよう。
また、失業対策年鑑における失業対策事業や特別失業対策事業の対象カテゴリーと選別手法の変遷、保健分野の優生保護事業や結核対策の果たした役割、精神衛生から精神障害福祉への長い道のり、「特殊教育」から特別支援教育への変化とその意味、刑務所の分類収容など、「特殊化」としての承認の具体的姿の確認もきわめて興味深かった。援護事業や被爆者補償の長期の展開を見ると、フクシマ問題や近年の安保論議も、長期補償の必然性という角度からその是非を問うことも必要ではないかと考えさせられた。
トポスと基本問題
第7章はこのハイライトを社会福祉のトポスとして考察したものである。トポスという用語の使用法の是非は、第4〜6章と7章を読まれた上でお聞かせいただきたいと思う。当初は、ここで本書を閉じる予定であったが、「社会福祉の基本問題」なぞというたいそうなタイトルの終章を付け足してしまった。社会福祉の理想はともあれ、結局のところ、セーフティネットの水準設定問題、および個別支援と見知らぬ他人同士の連帯という基本矛盾が、社会福祉の根底にあるのではないかといいたかったのである。