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連載

社会学はどこからきて、どこへ行くのか?

第6回(最終回) 他者の合理性の理解社会学

東京大学大学院情報学環教授 北田暁大〔Kitada Akihiro〕

龍谷大学社会学部教授 岸政彦〔Kishi Masahiko〕

北田 『同化と他者化』ってすごくオーソドックスな本なんですよ。ちゃんと背景をがっちり調べて、そしてインタビューで調査して、そこから導かれる理論的な知見を出して、ものすごい愚直な本。愚直というか、近年まれに見る王道的なものなんですよね。そこでなされている作業っていうのが、僕にとってすごく面白かったですね。たとえば、まず一人ひとりの動機っていうのを書いちゃう。その動機が発生してくる背景も外在的だとか何とかと言われても、ちゃんと説明してやる、っていう気概のすごく直球なスタイル。そのなかでフィールドの実態を浮かび上がらせて、最後に理論的な知見を出す。すごく標準的なものに見えるんだけど、最近そういうのってなかったんですよね。少なくとも、僕はそう思っています。ここで採られていることっていうのをもう少し深く考えていく必要があると思っていて、さっきのデイヴィッドソンの話じゃないけれど、「理解してしまえるっていうことが暴力なのだ」っていうのは、じつはデイヴィッドソン的にいえば「概念枠の相対主義」だという話になる。

 そうそうそう。

北田 けど、デイヴィッドソン的には、概念枠という考え方自体が、なんというか間違っている。理解というのは「できる/できない」という問題じゃなくて「できちゃう」というところからスタートしなくてはいけない。こういう話だと僕は思っていて、概念枠の神話に乗りかかっているような人が、やはりポジショナリティの話に乗っかっちゃっている。共約不可能性の話とかね。

 そうそうそうそう。

北田 で、岸さんはそこを壊したいと思ってるんだよね。だからといって、すぐわかるとか、彼らに寄り添うとかいうわけではなくて、なるべく彼らを合理的に理解しようというふうな前提に立って理解しようとするんだけれども、理解をどういうふうに進めていくのか、いくつかの水準があって。それを、丁寧に考えていこうとされているんだと思います。これを「社会的な変数と語りを結びつける」それから「語りに内在する記憶とライフヒストリー」とか、いろいろなやり方があると思うんだけど、岸さんが採ったのはすごくオーソドックスな方法だった。この理解の示し方っていうことが、けっきょく戦後沖縄の社会を考えていくときに、絶対に必要だっていうことだと思うんです。

 『街の人生』のほうは、これは……もしいつか岸全集を作るとしたら、解説が必要ですよね。つまり「あの、なんなの、この本」っていう。たぶん読者の半分はすごく楽しんで読んでくれていて、もう半分くらいは学者とか、「けっきょくこれはなんなの?」っていう人もいるんじゃないかと。あそこでは、岸さんがやられている人びとの「理解」をそのまま示している。あんまり無理せずに、というか、変なかたちで操作をしないというか、こういう理解の仕方がありうるんじゃないの、という可能性を示している。全部同じ方法論で聞いているわけじゃないから、そういうのを含めて、示しているんだと思うんですね。こういったかたちで、たぶん理解社会学の可能性を試しているんだろうな、と。その根源にあるのは、理解っていうのはせざるをえないんですね。せざるをえないというときに、その「理解」の水準をどういうふうにちゃんと設定しておくのか、ということに対して、どれだけ自覚的であるか。で、最終的に何が聞きたいのか。

 そうそうそう。

北田 沖縄の人と自分との信頼関係や友情関係、あるいは自分の誠実性を書きたいわけでは、

 ないですね。

北田 だから、そこが結論になってはいけない、というのがまず最初にあるはずなんですよ。解決されるべき問題がそこにある、と。

 そう、そのとおり。

北田 その境地に立つというのは、とても勇気がいるけど重要で、岸さんくらい自信がないとできない。つまり、フィールドを本当によく知る研究者じゃないと、そうそう言えない。

 うん。

北田 一方で、すべてのことがある程度は「理解」できてしまう、ということにも問題はある。どんな非合理なことをやっている奴がフィールドにいたとしても、よく考えると――たとえば時間軸を延ばすと――非合理じゃなく理解できてしまう。機能主義的に社会に順応しているじゃん、ということを記述することになってしまう。こういう場合には、要するに当事者にとって広い意味で利益がある、という前提で見ているんだと。だとすると、これはとても酷いことをやっているのかもしれない。つまり、行為の意味を理解するっていうのは格好いいことのように言えるんだけど、行為者にとって最適な生き方みたいなものを羅列して提示しているわけで、実は拡張された機能主義――全体性を設定しない機能主義――になってしまうのではないか、というような不安感があるんだけど……。

 『ヤバい経済学』なんかを読むと、ミクロ経済学がひたすら合理性の概念を拡張することによって限りなく社会学に近づいてきたときに、もうそこにはゲーム理論を使うか使わないかくらいの差しかないように見える。たとえば見田宗介の永山則夫の話なんかでもそうなんですけれど、連続殺人犯の気持ちさえわれわれは理解できるわけですよ。

 理解社会学ってけっきょく何をやっているかっていうと「あ、この文脈ならしょうがないわ」って思わせることをしているんですね。納得させているというか。一見すると非合理的なんだけど、ウィリスの『ハマータウン』だって、こういう状況であればこれはしょうがない、と促すことをやっている。すると、あらゆる理解できないことも、理解できてしまうことになるわけですよ。状況に対して相対的というか、状況に還元すればよいわけですから。人間の行為って、状況の範囲の取り方が違うというだけで、基本的にはその「利益」を最大化をしているはずなんですね。だからさっきの話法の話に戻ると、「近代化」話法みたいなのがそろそろアレなんじゃない? というのと同じ意味で、理解社会学がやっていることは、けっきょくすっごいベタな機能主義になって、それはそれでどうなの? っていう危機感も実はちょっとだけ持ってて。

北田 むっちゃ難しい問いですよ……。そこまでダメになったら、もう社会学はなにもやらないほうがいい、っていう話になっちゃう。これはフィールドだけの問題ではないですし。要するに適応主義って、時間とか環境の設定のスパンを操作すれば、なんでも説明できちゃう。ただ問題は、それはいったい何をやったことになるのか、という問題が起こってきて。さっきの岸さんの言葉でいえば「状況」や「環境」をどう設定するかによっていくらでも合理的なものとして説明できちゃうんだけど、それは本当に何かを説明したことになるのか。

 うん。

北田 そういう意味でいうと、まあ社会学は機能主義なんじゃないかな。ただ、機能というからには、何かに対する機能である、と。だからその「何か」をちゃんと明示して、そこにおいての機能であるというのを示していく。そのうえで、他のやり方もありうることを示す。等価機能主義みたいな考え方でいけば、その機能を充たすには他にもやり方があるはず、とか。そういった意味では、社会学ってのは機能主義であらざるをえない面があるのではないか、と私は思います。ただ、これは先の「時代診断」「時代類型論」をやめたほうがいい、という話とは別に、もう少し深めて考えるべき話だと思う。

 うん、まあ「時代診断」ほどは使われていないので、こっちの話法は。まだまだ広げる余地があると思っています。最後に、すごくロマンチックなことを言っていいですか。

北田 ロマンチック?

 「他者の合理性の理解社会学」をキーワードに有斐閣で教科書を作っているし、ほかにも本を書こうと思ってますけど、「他者を理解すること」は機能主義だとして、「機能主義的に他者を理解することの社会的機能」があるんですよね。僕はこれを「隣人効果」って言ったらいいと思っていて。たとえば生活保護を受けてるおっちゃんがパチンコやってるとする。すると「パチンコばっかりやって」といって叩かれるわけですよね。でも、ホームレスのおっちゃんとか生活保護のおっちゃんに会って話を聞いてみると、なかなか辛いものがあって、そりゃ支給日にパチンコでダーッと使っちゃっても、しょうがないわな、みたいなふうに思うんですね。これが「理解する」ってことじゃないですか。そうするとその時点で「パチンコやってたアイツ」「怠け者だと思ってたおっちゃん」が「隣人」になるんですよ。で、なんだか理解できる相手になるんです。これはちょっとローティ的な感じがちょっとあるというか、別にそれで連帯しようって言ってるんじゃないですけども。ただ、なにかその動機というか、ある人のやっていることの文脈を理解するというか。事情ですね。人の事情をわかるというのはどういう効果を持っているかというと、人を隣に置くんですね。

 一番究極的に「なんで社会学やってるんだろう?」っていうときに、北田さんにもやっぱりそういうのがあるんじゃないのか、『責任と正義』のときにすごく思ったんだけど、社会に対してなにか思っていることがあるわけじゃないですか。それをディシプリンの中でちゃんとやっていこう、というときにいろいろな紆余曲折があって『責任と正義』になっているわけですよね。それが僕にとっては「隣人効果」なんです。個人的には、この「隣人効果」というのをすごく重要に思っていて、それはズカズカ踏み込んで「わかってやったぞ」というんじゃもちろんなくてですね。ただ「黙って静かに隣に立つ」くらいの感じで、書けたらいいなと思ってるんですよね。

北田 うん。書けているじゃん。連帯の話というか。

 連帯はあまり言いたくないけどね(笑)

北田 言いたくないかもしれないけど(笑)、それこそローティ的に言えば連帯の話だと思うんです。まあ、連帯っていう言葉は日本では色がついちゃったからね。そうだなぁ……でもまあ、見えない他者との結びつきっていう含意を込めた連帯というよりも、「隣人効果」って言ったほうがいいのかもしれない。少なくとも、そういったことをいろいろな場面で想定できるような人材を育てられたら「すげえいいなあ!」って思うんですよ。

 十年くらい前になりますけど、旧東海道の休憩施設みたいなところにいたら、ホームレスのおっちゃんがいて、すっと話しかけてお茶とか出してくれるんですよ。1時間くらい話して「もう帰りてえ」とか思いながら聞かされて。それで「じゃあどうもありがとうございました、楽しかったです」なんて帰ろうとしたらとつぜん怒りだして、けっきょく「百円よこせ」なんて話だったんですけど。

 (笑)

北田 そのときは「じゃあ先に言えよ!」とか一瞬思ったんだけど(笑)、なんというのかな、あんま怒れなくて「まあ、そうだよね。いま、一生懸命もてなしてくれたのは、そういうことだったんだな」と。それはそれで理解がとてもできるし、腹も立たないというのは、当たり前じゃないですか。それと同じようなことが、もっと広い意味で、起こってこれる文脈とかがあるわけでしょ。たとえばマートンとかが書いているような、「ボス」の集団の話があるじゃないですか。実際に文献とかみてると、生活保護を受けることに対して、つまり政府とかお役所から貰うということに対して、ものすごくプライドを持って拒絶している人――今の日本でもそれが深刻になっているんですが――、とくに当時のアメリカでは「自立」みたいなイデオロギーがものすごく強くて、そういうときに「ボス」や「組織」が与えてくれる労働の対価としてのお金っていうものが、逆機能としても作用していた、という話をマートンはサラッと書いている。

 うんうん。

北田 僕らとしては、生活保護を受け取るっていうことは恥ずかしいことでもなんでもないし、責められるべきことではない、という規範ができていって、受け取ることに関しても素直でいられるような社会であってほしいと、思うわけです。だから、そういうことを考えつつも、拒絶する人たちとか、なんど辞めてもホームレスに戻る人たち。そういう人たちに対して「なんだコイツだらしない奴だ」とか考える多くの人たちの中から「そうじゃない考え方だってありうる」っていう人を増やしていければ、大したものじゃないですか。社会学って。これはたぶん「男女の雇用形態に差があるのは経済的合理性がある」とか「ある程度の貧困層があるというのは社会全体の利益にとってはよいのだ」とか、そんなことを言うタイプの議論を他の人たちがやってくるのに対して、いま言ったようなことができるのは社会学だけなんじゃないか、っていうふうに思う。

 そういうふうになればいいなあ、ということですね。そろそろ時間でしょうか。

北田 マジョリティがアイデンティティの問題を問われずに済む、というのが『同化と他者化』の……

 ぜんぜん終わる気ないやん!(笑)

北田 逆にいうと、「マジョリティ(であるということ)が存在する」というのは、いったいどういうときかというと、自分たちが「加害者である」と人に言われたときだ、という話がある。じゃあそれってどういう話なのか、とか、そういうのをまた話していきましょう。

 

※本連載は新収録の内容を加えて単行本化されました。ぜひご覧ください!  

『社会学はどこから来てどこへ行くのか』

 

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