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書斎の窓

書評に接して


民法業界における世代
――『民法学を語る』補遺

一橋大学法学研究科教授 小粥太郎〔Kogayu Taro〕

大村敦志,小粥太郎/著
四六判,254頁,
本体2,400円+税

1 大村敦志教授は、大村・小粥著『民法学を語る』(有斐閣、2015年)の冒頭から、戦前生まれの研究者――星野英一、北川善太郎、川井健、山田卓生、平井宜雄、原島重義、そして広中俊雄――の訃報が相次ぎ、「この世代の退場とともに民法学そのものが絶えてしまうのではないか」(同書3頁)という形で、民法学における「世代」への関心を示していた。加毛明准教授の近稿「民法のための弁明――民法学者の仕事(『民法学を語る』)」(本誌644号26頁)は、このあたりのテクストをも梃子に、『民法学を語る』という本を、ある「世代」――1960年前後生まれ――に属する民法学者たちによる民法学論として読んだ気配が濃厚の書評である(加毛准教授は1980年前後の生まれと推察される)。


2 ところで、加毛書評が公表された直後、東京都国立市のレストランでは、齊藤誠・野田博編『非常時対応の社会科学――法学と経済学の共同の試み』(有斐閣、2016年)の出版を祝して、共同研究に関与した経済学者、法学者たちが集う機会があった。多くのメンバーは、同じく一橋大学に所属していながら3年ほど前まで互いに見ず知らずの関係だったが、ようやくこのごろ、いくらか学者っぽい話題を小出しにしつつ、あれこれのおしゃべりをするようになってきたところである。

 その席で、ある経済学者がいうには、法学の世界にはハイエラルキーアメリカ風の発音で――学歴、職歴、業績そして年齢などの組み合わせによる階層――を感じる。経済学の世界はフラットだ。大ベテランの研究に対しても、若手が遠慮なしに批判をするのであり、もう少し年長者を敬ってもいいのではないかと思うことがあるくらいである、と。


3 法学の世界は広く、どこにどんな階層があるのか/ないのか、私にはよくわからない。しかし、少なくとも日本の民法業界には、なんとなく、そうした階層のようなもの――少なくとも「世代」の違いに由来する区別――が存在しそうである。

 先の経済学者がいうような、老若を問わずに同じ土俵で論争することの前提には、ベテランも若手も、同じ性質の仕事をしている、という事情があるのだろう。これに対して、民法業界においては、老いも若きも同じ土俵で仕事をすることはある――判例評釈など――が、世代によって、仕事の性質が違うこともままあるように思う。

 論文の題名を素材に考えてみよう。たとえば、民法学者による学界デビュー作のテーマとして、①「民法と民法典を考える――『思想としての民法』のために――」が想定するものは、大風呂敷すぎる感じがする。それよりは、手堅いサーベイを土台にしつつ将来展開の可能性も漂う、②「契約成立時における『給付の均衡』」のテーマがよさそうである(いずれも大村教授の論文の題名であり、②はデビュー作の題名)。あるいは、最初から①「現代社会におけるリベラリズムと私的自治」とするよりは、②「補充的契約解釈」が良さそうである(いずれも山本敬三教授の論文の題名であり、②はデビュー作の題名)。これらの例は、民法学者が大風呂敷なテーマに正面から取り組むまでにはいくらかの年月を要していることを示すものである。何の工夫もなしに大風呂敷を広げたら収拾がつかなくなる可能性が大きいことは容易に想像がつく。地道な研究を重ね、視野を広げ、体力が付いたところで大きなテーマに取り組むのが王道なのだろう(このあたりの事情については、大村敦志ほか著『民法研究ハンドブック』(有斐閣、2000年)を参照されたい)。

 もちろん、だれもが年を重ねると大風呂敷を広げはじめるというわけではない。そして、才能に恵まれた者は、こうした業界慣行とは本来無縁のはずである。


4 民法学とはどのようなものか、というテーマは、もちろん、大風呂敷なテーマである。大村・小粥著『民法学を語る』は、往復書簡という形でこのテーマへの接近を試みたものであった。同書への反応としては、たとえば、それぞれの主張をとりあげ、賛成/反対、共感/敬遠などの態度を示すようなもの、楽しそうに手紙をやりとりしているようにみえる2人が、実は同床異夢であることを暴く、といったものを予想しないでもなかった。ところが若き加毛准教授は、同書について、一つの作品としての読み方を示した。すなわち、2人の著者の個々の主張ではなく、2人の著者が属する「世代」の主張を見いだしたのである。加毛准教授が、「世代」を意識したがために、先行世代――1960年前後生まれ――の民法学観が主題化されることになったように思われる。その内容は、以下のように整理された。

 先行世代は、民法学の現状について、「民法学に求められる内容の変化」――解釈論の重要性低下と立法論の重要性増大。民法学の立法論への対応不足――と、「民法学の内部における研究のあり方の変化」――論理偏重志向?――に着目する。つぎに、その対処策として、「民法学を諦める」のではなく、「民法学に望みをかける」という方向を示す。具体的には、「社会とのかかわりにおいて民法が持つ意味を明らかにすることに、民法学の今後の展望を見出す」。「立法に関する民法学者の貢献は、『別様のあり方』の提示に求め」る……。なるほど、そうだったのか。


5 加毛准教授による書評は、映画評論になぞらえるなら、映画を映画館のスクリーンで最初から最後まで通しで見ることによって行われたものというよりは、電子データ化されたものをモニター上で前後に行き来することを繰り返しつつ徹底的に観察した結果として浮かび上がったものを思わせる。『民法学を語る』のテクストが、いったん、すべてバラバラに解きほぐされ、あらためて、評者によって、ある「世代」の民法学観を――他の立場もあるはずだが――説得力豊かに語らされているかのようである。

 こうした読み方を可能にするのは、読み手自身が持っているはずのテーマ――民法学とはどのようなものか――についての一定の見通しであろう。加毛准教授がこのテーマに強い関心を抱いていることには疑いの余地がない(Akira Kamo, CRYSTALLIZATION, UNIFICATION, OR DIFFERENTIA-TION? THE JAPANESE CIVIL CODE (LAW OF OBLIGATIONS) REFORM COMMISSION AND BASIC REFORM POLICY (DRAFT PROPOSALS), Fall, 2010, Columbia Journal of Asian Law,24 Colum. J. Asian L. 171は、民法学ないし民法解釈方法論の視角から、民法(債権法)改正検討委員会の作業などを観察している)。


6 にもかかわらず、今回の書評における加毛准教授は、経済学者とは異なり、少なくとも表面的には、先行世代を「遠慮なしに批判をする」ところからは距離を置き、『民法学を語る』の内容を整理することに専心したようにみえる。しかし、私には、そうした受け止め方は適当でないように思われた。

 第1に、書評には、密かに先行世代を葬り去ろうとする危険な香りが漂う。『民法学を語る』は、「世代」以外の視点からの読み方も可能だったはずである(加毛准教授からみれば大村教授と小粥は同世代かもしれないが、私は異を唱えたい!)。しかし、加毛准教授は、「世代」という視点からの読みを示した。その書評は、「様々な可能性を秘めた希望の種を、本書は次代に託している。」(傍点は引用者)と結ばれている。『民法学を語る』は、加毛准教授の力で、次の世代に向けて、民法学観を提示した。次代を担うのは加毛准教授である。バトンタッチは完了したので、役目を終えた走者は、競技場の外に出るべきだと語っているようでおそろしい。

 第2に、書評は、加毛准教授の民法学観の縮図になっている可能性がある。書評では、『民法学を語る』のテクストは、いうまでもなく原著者の手を離れ、評者の強力な演出によって踊らされている。それゆえ、そこで整理された『民法学を語る』の内容は、評者自らの民法学観の投影ではないかと考えたくなる。とりわけ、クリアカットな整理に収まらなかった論点であるにもかかわらず、外国法研究に関して、普遍性を希求する方向(大村)と差異を生み出す前提に視線を向ける方向(小粥)との対抗図式を見いだしたところには、比較法方法論への並々ならぬ関心をみてとることができる。『民法学を語る』の著者たちが言及する法教育や批評などではなく、比較法を重視した民法学の構想さえ窺うことができるだろう(加毛准教授と同世代の中原太郎准教授の研究計画(「フランス不法行為法の現代的諸相―伝統と革新のはざまで―」東北法学会会報33号http://www.law.tohoku.ac.jp/research/thg/thg-vol33)もあわせて参照するなら、比較法研究の高度化がこの世代を特徴づけるとの予感にも襲われる)。


7 『民法学を語る』は、たとえ、今回の書評によって葬り去られるとしても、次の世代に「希望の種」を託すことはできたようである。あるいは、書評が評者の民法学観の縮図だとしても、『民法学を語る』は、その原作であることを主張することもできそうである。もちろん、加毛准教授の書評は、『民法学を語る』を、「遠慮なしに批判をする」ものとは違う。しかし、書評は、『民法学を語る』のテクストと対話しつつ次の世代の民法学の構想を示唆するものとなった。これは、『民法学を語る』の著者たちにとっても、たいへん幸福なことだろう。

 加毛准教授には、『民法学を語る』を実に丁寧に読んでいただき、著者の1人として深く感謝したい。応答の機会を与えられながら、書評の密度の濃さにおののき、戯言を連ねるばかりとなった。あの経済学者は、こうしたやりとりの中に、民法業界のどんなハイエラルキーをみるだろうか。

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