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書評


『子ども法』
子ども観の揺らぎと現代社会

筑波大学人文社会系教授 土井隆義〔Doi Takayoshi〕

大村敦志・横田光平・久保野恵美子/著
A5判,284頁
本体2,500円+税

 かつて、フランスの社会学者、エミール・デュルケムは、私たち個々人の意識には還元されえない独自の意識が社会には存在すると考え、それを集合意識と名づけた。彼に言わせれば、集合意識とは単なる操作概念ではなく、紛れもない実体である。しかし、私たちはそれを直に目にすることはできない。したがって、何らかの指標を通じて間接的に認識するしかない。彼にとって、その指標の1つが法だった。

 それぞれの社会に実在する集合意識は、法の形式やその内容を通じて間接的に認識されうる。デュルケムの博士論文である『社会分業論』は、そのような観点から各社会の法体系を比較分析した著作だった。本書『子ども法』を読み終えたとき、真っ先に私の脳裏をよぎったのは、そのモノグラフとして本書を位置づけることも可能なのではないかということだった。

 本書は、現代の子どもが生きるさまざまな社会的局面で、わが国の法が彼らをどのように規定しているかを網羅的かつ体系的に整理してみせたものである。子どもはこの社会にどのように誕生し、どのように家族の一員となり、どのような権利を保障され、どのような問題に直面し、どのように大人へと移行していくのか。それら個々のプロセスのなかで、彼らが出会う諸法の詳細が丹念に説明されている。

 その意味で、本書の形式的な外見は、現代日本において子どもに関わる諸法の解説書だともいえる。しかし、そのような用途を超えて、いわば私たちの子ども観の内実を知るための手引きとして本書を位置づけることもできるだろう。わが国の法が子どもをどのように規定しているかを通じて、子どもという存在を私たちがどのように認識しているのか、そしてその認識にはどのような歴史的経緯があり、また現在どのような問題をはらんでいるのかを推しはかることもできるからである。

 もちろん、子どもと一口にいっても、本書のプロローグでも指摘されているように、その定義は人によってさまざまである。また、個々の社会的局面においてその取り扱われ方もさまざまである。しかし、それにもかかわらず、そこに私たちがほぼ等しく共有する子ども観が存在していることは間違いない。本書の巧みな整理に従えば、それはおよそ次のようなものといえる。

 1、子どもは発達途上にある可塑的な存在である。2、子どもは自分の意思を十分に表明できない未熟な存在である。3、子どもは人間関係のなかで自己を形成していく存在である。4、子どもは個々の法領域ごとの把握では捉えきれない全体的な存在である。5、子どもは社会の未来を担っていくべき希望の存在である。子どもとはどのような存在かと尋ねられたとき、私たちの答えは、たしかにほぼこのいずれかに回収されることになるだろう。

 これらを一見して分かるように、互いの認識が必ずしも整合しあっているとはかぎらない。また、現実の子どもの実態とは齟齬をきたしていると感じられる部分もある。しかしそれは、本来あるべき子どもの理想像と現実の子どもの実態とが違ってきているということであって、私たちの子ども観それ自体がまったく変容したというわけではないだろう。だからこそ、両者のギャップから認識論上のさまざまな問題が生じているのだと考えられる。

 近年の日本において、子どもの認識をめぐる最大のトピックは、おそらく選挙権の18歳への引き下げと、それにまつわる他の法改正の是非についてだろう。その具体例の1つとして、少年刑法犯に関わる刑事法制の見直しが挙げられる。選挙権の引き下げに合わせて、少年法の適用年齢も20歳から18歳に下げるべきだという意見が目立つようになってきたのである。

 読売新聞が実施した世論調査によれば、回答者の88%が、少年法の適用年齢を引き下げ、18歳および19歳の者にも成年として刑罰を科すことに賛成している。しかし、だからといって少年犯罪が近年とくに増えているわけではない。むしろ傾向は逆であり、少年刑法犯の最新の摘発件数は少年人口比で約0.6%である。第2次大戦後で最も多かったのは1980年代初頭で、少年人口の約1.7%だった。当時と比較すれば激減している。

 そうしてみると、少年法の適用年齢の引き下げに賛成する人びとは、少年刑法犯に対する危機意識からそのように回答しているわけではなさそうである。むしろ、彼らが子どもとみなす年齢の上限が、従来よりも下がりつつあることを物語っているように見える。端的にいうなら、18歳や19歳になれば、もう大人の仲間入りと考えるようになってきたということである。

 では近年の日本で、子どもとみなされる年齢の上限が下がってきた背景にはどのような感性の広まりがあるのだろうか。現実を見渡せば、この社会で一人前の存在として生きていくための要件が減少したとは到底いえない。むしろ逆に、そのためのハードルは上がっているようにすら見える。昭和の時代を振り返ってみれば、10代の後半ともなればすでに職を持ち、なかには家庭や子どもも持っている者が少なからず見受けられたものである。当時と比較すれば、今日の18歳や19歳のほうがはるかに幼く感じられる。

 現在、高校卒業後に大学へ進学し、18歳や19歳を学生の身分で過ごす者は、同年齢の人口の半数を超えている。また大学を卒業した後も、経済的あるいは精神的にすぐに自立できるような社会状況ではなくなっている。事実、内閣府が実施している諸々の施策でも、現在では30歳未満の年齢層を若者と位置づけるようになっている。私たちの一般的な感覚からすれば、現代の日本は、子どもから大人への移行がなかなか難しい社会だといえる。

 一方では、ハイティーンを大人とみなす感性が広がっている。しかし他方では、彼らが一人前の存在として自立することの難しい社会状況であることもよく知られている。現在の私たちは、このような認識のギャップを抱えながら、この年代の人たちと向き合っている。それが実情だろう。その背景にあるのはどのような事態だろうか。

 昨今の日本のように価値観の多様化した社会では、人生にとって必要不可欠とされる知識や能力について、人びとのあいだでの共通了解が存在しえなくなっている。ある人生の選択においては必須とされる知識や能力も、別の人生を選択した途端に無意味なものとなってしまうことも、今日ではしばしば起こりえる事態となっている。

 このように、知識や能力が普遍的なものではなく、自らの選択に応じた相対的なものにすぎないとしたら、自らの選択そのものが何より重要であると感じられるようになるだろう。また、その選択を大きく左右するのも知識や能力などではなく、自らの感性や感覚だと認識されるようになるだろう。

 このような社会では、新たな知識や能力を獲得しつつ成長していくことに対して、積極的な意義を見出すことが難しくなってくる。それに代わって、生まれもった資質や感性を絶対的なものとみなし、人生のあらゆる局面でそれを重視するようになっていく。しかし、あらかじめ生まれ備わったものによって人生が規定されるのなら、老いも若きも、その本質において違いはないことになる。少なくともハイティーンに達した人たちと大人の間に、本質的な差異はないと感じられるようになってきた背景には、このような事態の進行があるのではないだろうか。

 そもそも、人間とは絶えず成長し発達していく存在だという人生観は、近代という成長しつづける社会のなかで誕生し、醸成されてきたものだった。絶えざる進展を示すようになった近代化の営みは、伝統的なものの見方や考え方を次々と打破していったが、私たちの人間観もまたその例外ではない。人間とは成長しつづける存在だという認識も、近代に入って社会がダイナミックに動きだし、生存の境界が日々拡張されていくなかで誕生したのである。近代以前の人びとは、私たちとはまったく異なった人生観を抱いていた。冒頭で触れたデュルケム流の言い方をすれば、進歩主義的な志向性を備えた諸個人が、近代という社会を創り上げてきたのではなく、近代という社会のあり方が、進歩主義的な志向性を備えた諸個人を創り出してきたのである。

 以上のことをもう少し敷衍するなら、次のように述べることも可能だろう。たとえ子どもであっても人格の尊厳を認められるべき一人前の存在であるという考えが昨今の日本に広まってきた背景には、その変化を促すような時代精神があった。しかしその裏では、まさしくその時代精神の浸透によって、子どもといえども人格の体現者なのだから、自分の行動に対する責任は自分で負ってもらわねばならないという考え方も同時に広まってきた。子どもをめぐる諸法は、元来がさまざまな矛盾をはらみつつ制定されてきた。しかし今日の趨勢において、その矛盾がさらに拡大しつつあるように見えるのは、このような時代精神の伏流が存在しているからではないだろうか。

 本書を通読すれば、従来から私たちが抱いてきた伝統的な子ども観と、現実の社会を生きている子どもたちの姿との間で、いかに大きなコンフリクトが生まれつつあるのかがよく分かる。その結果、私たちの子ども観そのものも揺らぎはじめているようである。本書が語るように、たしかに子どもとは個々の法領域には還元されえない全体的な存在である。しかし、その全体的な存在として子どもを把握することが、今日の社会においては、かつて以上に困難になってきている。それもまた本書の読了後に実感することである。その意味で、本書は、法学を専門とする者やそれを志す者だけでなく、若い人たちと同じ社会を生きる私たちのすべてに有意義な1冊といえるだろう。

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