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書斎の窓

自著を語る


『幸福(しあわせ)の構造

――持続する幸福感と幸せな社会づくり

日本赤十字豊田看護大学・同大学院教授 島井哲志〔Shimai Satoshi〕

島井哲志/著
四六判,276頁,
本体2,300円+税

 本書は、2010年度に1年間にわたって『書斎の窓』に掲載していただいていた同じタイトルの連載を引き継いだものである。引き継いだという表現になった経緯は、あとがきにも少し触れさせていただいたが、掲載時に出版企画を検討していただき、終了後すぐにまとめる手筈になっていたのだが、2011年3月に発生した東日本大震災のために、作業が大幅に遅れることになってしまったという事情による。

 この間、編集を担当していただいた中村さやか氏に大変ご迷惑をおかけしてしまい申し訳なく感じている。しかし、結果的には、その後の研究で明らかになってきた、さまざまな知見も織り込んで、連載中の内容を一新したものとなった。この意味では、以前に連載を読んでいた方々にも、さらに興味深い内容と期待していただけると確信している。

 心理学における幸福しあわせの研究が盛んになった理由としては、ポジティブ心理学の運動が広がったことが大きい。これはペンシルヴァニア大学のマーティン・セリグマン教授が中心となって提唱したものである。その具体的な提案の内容は別の書物(『ポジティブ心理学』2006年、ナカニシヤ出版)で紹介したので、ここでは省くが、私がこのテーマに関わることになったのは2002年から2003年にセリグマン研究室で勉強させていただいたことから始まっている。

 そこで、まず、ペンシルヴァニア大学で初期のポジティブ心理学がどのように育まれていたのかというバックヤードの話をご紹介したい。ペンシルヴァニア大学は、東海岸のフィラデルフィア市の市街地にある大学である。その創始者は、私がアメリカ独立の偉人であると知らず、雷が電気だと凧を使って証明した人と覚えていたベンジャミン・フランクリンである。

 S・スタローンのボクシング映画の銅像があるフィラデルフィア美術館がある中心街から西に行きスクルキル川を渡ると、都市を結ぶ鉄道のアムトラックの線路を越えて大学街に至る。さらに西に行くと治安が良くない地域が広がり、商店のショーウインドーに防犯用の鉄格子が欠かせない。ペンシルヴァニア大学はこの治安の悪い地域と隣接している。

 もちろん、フィラデルフィアの郊外には、おしゃれな商店が連なり、安全で瀟洒な住宅地があるが、そこに住む人たちは、治安の悪い地域を迂回する道路を通って中心街のオフィスにやってくる。フィラデルフィアには地下鉄なども整備されており、私はしょっちゅう利用していたが、女性がはじめて1人で利用するのにはいささか勇気がいる雰囲気だった。

 さて、私が所属していた当時のセリグマン先生の研究室はウォールナット通りに面した木造の古い建物であった。民家を再利用した研究室であり、数段の階段を上って玄関に入ると、すぐ左手に秘書のリンダがいる応接室があり、その奥がセリグマン先生の研究室であった。玄関の右手の階段を上ると、2階以上には、研究員や院生の研究室や、授業も行うカンファレンスルームなどがあった。

 私は、ポジティブ心理学を実質的に支えていたクリストファー・ピーターソン先生(ミシガン大学教授)の2階の研究室を借りることになったが。窓からは近隣の建物の屋根しか見えず、その上に誰かが放置したゴミ袋がいつも見えていて、大学の近隣でよく見かけるビニールのごみ袋が風に舞い上がっている風景とあわせて、私のアメリカ滞在の印象を形成している。

 クリスに初めて研究室を案内してもらった時、研究室の物置にLearned Helplessness(邦訳『学習性無力感』二瓶社)という歴史的名著が何冊も山積みにあったので、気さくなクリスにお願いして1冊いただき、そこにサインをしてもらった。すばらしい研究成果が、窓からごみ袋が見える研究室から生み出されたことは、私にとっては奇妙にも感じられ、しかし、人間のポジティブな側面を信頼したいという切実さを考えると、腑に落ちる経験であった。

 セリグマン先生は、Authentic Happiness(邦訳『世界でひとつだけの幸せ』アスペクト)というポジティブ心理学のはじめての著書を発表したところであり、朝のテレビ番組に出演したり、各地の読書会グループに出かけて講演やサインをしたりと、出版の広報のために忙しく活動していた。

 私が参加していたセリグマン先生のポジティブ心理学の授業は、カンファレンスルームで、学部生だけではなく教員や大学院生も参加して行われた。学生には、事前に読むべき数冊の書籍リストが渡されており、毎週かなりの量の事前課題が指定され、その内容について自分の考えを提出することになっていた。

 また、授業の中でもさまざまな応用実践をしており、後に新しい著書Flourish(邦訳『ポジティブ心理学の挑戦』ディスカバー・トゥエンティワン)に紹介されている「感謝の訪問」などの実践課題が、レポート課題とは別に与えられており、メーリングリストで提出していた。私は、ポジティブ心理学の初心者だったので、学生とまったく同じ課題を提出していたが、週末にたまにニューヨークに遊びに行くアムトラックでも文献を読まないと心配なくらい毎週の課題に追われる日々であった。

 思い出話の定番として自慢話を付け加えると、この授業の最終課題を発表する機会があり、私は、それまでの学生さんによる幸福実現の実践活動と、そこで実現しようとしていた幸福との組み合わせを分類して、人生の目標をめざすような幸福を実現する実践活動と、日常生活の充実としての幸福を実現する実践活動とは種類が違いそうだということをデータから示した。

 この発表は、セリグマン先生にかなり気に入ってもらったようで、これはAプラスだねと何度も言っていただいた。随分もったいぶって言っていたので、おそらく最高の褒め言葉だったのだろう。私自身は英語は拙いものの心理学の専門家なので、学部の授業で高く評価してもらっても特にありがたいと感じず、喜んでみせなかったので何度も強調したのだろう。この印象もあり、その後、国際ポジティブ心理学会設立のミーティングなどにも呼んでいただいた。

 話が横道に逸れたが、ポジティブ心理学を立ち上げるという、この時期のセリグマン研究室にはきわめて活気に満ちていた。特に、クリスを中心に人間の強みの研究をまとめようとしているところであった。これは人徳でもある人間のもつ強みを分類・整理して、それを評価し、それを育成し活用することをめざすものである。240項目に及ぶ評価指標が検討されており、私はその日本語版を作成していたが、その作業を原開発者のクリスと討論しながら文化を超えた強みの理解を深めたことも楽しい思い出である。

 クリスは、私と同じ年齢で、心理学についても、単純な原理を重視する行動主義から認知革命という流行を経て、合理的ではない人間行動と感情の理解に注目が集まるという学問の変遷を経験してきた。クリスも、私と同じく古典的なボードゲームといえるスクラブル好きだったが、唯一の違いは彼が喫煙者だったことで、研究室の外の階段で喫煙しているのを見かけて「喫煙はうつになりやすいよ」といったことがあった。彼は顔をあげて「I know.」と一言だった。

 強みの研究は、DSMの考え方を逆転するという意味でUnDSMというコードネームで呼ばれていたが、その画期的な点は、人間理解の視点を180度変えることにある。例えば、職場に夜遅くまで仕事をしている人が居た時に私たちはどう考えるだろう。締切に遅れたら自分の立場がないと焦っていると思うかもしれない。出世競争で勝ち残りたいとか、お金儲けをしたいのだろうと思うかもしれない。

 このような場合、私たちは、人間をその欲望や欲求から理解している。自分の安全を守る欲求はその中でも基本的なものだ。一方、出世欲や金銭欲はやや文化的といえる。そして、かつてフロイトが性欲を根源的な欲望であると考えたように、心理学の伝統的な人間観もこのような考えに基づいてきた。犯罪報道などから推測すると、司法でも動機を重視しているようなので心理学だけではないかもしれない。

 これに対して、人間の強みに注目する立場では、人間のこころのポジティブな働きから人間の行動を理解する。そこで取り上げられている働きは、別に目新しいものではなく、勇気や誠実さ、感謝、希望、好奇心、熱意、愛情などだ。しかし、これらは、心理学では、人間を理解する時に重視されてこなかったのである。遅くまで仕事をしているのは誠実さや熱意があるからと考えてもよい。

 そこに至るまでに、先に触れたクリスとセリグマンの「無力感」の研究では、希望・楽観性の研究へと展開し、学校でそれを育成する実践に発展していった。この他にも、ポジティブな気分のもとでは創造的に問題解決できるという知見など、さまざまなポジティブなこころの働きの研究が、ポジティブ心理学の土台を形成していったと考えると分かりやすいだろう。

 このポジティブ心理学からは、人間の行動は単に欲望に駆り立てられたものではない。そして、社会が目指すことは欲望を抑えこみ自制させることだけではない。それぞれが自分の強みを発見し、社会もそれを生かしていくことがめざされるのである。その最終目標は幸福しあわせの実現であり、人間にとって基本的な幸福追求権を具体的に行使することにつながるのである。

 ポジティブ心理学はかなり幅の広いものであり、ほとんどすべての心理学領域におけるポジティブな働きの再評価をめざす運動ということができる。この本で取り上げている幸福しあわせは、そのうちの一部であるが、その主要なテーマのひとつである。

 『幸福しあわせの構造』では、幸福しあわせな人はどのような特徴をもっているのかにはじまり、人間の強みを生かすことで、どのように幸福を実現し持続していくことができるのかについて、実証的なデータを整理して示した。これらの研究は現在も積極的に進められており、近い将来、さらに明確な結論が示されてくることだろう。

 ひとつ残念なことは、クリス(・ピーターソン先生)が、2012年に突然の心筋梗塞のために亡くなったことで、もしも、この領域への貢献が今も続いていれば、研究がどれほど進展しただろうと思う。何か言ったからといって、彼が喫煙をやめたとは思わないが、heart attackのリスクも何倍もあるという、私の知識が何の役にも立たなかったのも悔やまれる。

 本書の表紙は、彼への哀悼の気持ちを込めて、その最後の著書Pursuing the Good Life (Oxford Univ. Press)のイメージを継承するものとさせていただいている。その最後の節に、クリスはスクラブル・ゲームにたとえて、良い人生を語っている。気楽な語り口で大切なことを伝えることは、それを書いている本人の人生の充実の証明ともなっていて、なつかしい。本書では私も同じように伝えたいと願って書いたが、うまくいっているかどうかは読者のご判断に委ねるしかない。

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