連載
社会学はどこからきて、どこへ行くのか?
第5回 社会学における「理解」
東京大学大学院情報学環教授 北田暁大〔Kitada Akihiro〕
龍谷大学社会学部准教授 岸政彦〔Kishi Masahiko〕
岸 先にウェーバーから始まったと言った「第二の話法」はどうですかね。たとえば行為者の話に限定すると、ぼくらが何をやっているかというと、調査対象であるところの行為者あるいは行為者集団の合理性を記述しているわけなんですよね。
北田 そうですね。
岸 社会学のやってきた仕事って、そもそもこういうことだと思っているんです。ウェーバーが行為者の「理解」をするんだと。じゃあ「理解する」ってどういうことかというと、ウェーバーは「行為者っていうのは合理的だ」と。まあ合理性にもいろいろとあるんだけど、「社会学者は行為者の動機を記述しなさい。行為者の行為の動機を記述することが理解なんだ」と。こういうふうに言ってる。要するに「わかるはずだ」。行為者には「理性」があって、ただこれにはいろいろな「理性」のパターンがある。だからカネ勘定とか利己的な意味では全然なくても、なにか価値合理性みたいなものを含めて、合理的だと。だから、われわれにも了解できるはず、記述もできるはず、と。それで『プロ倫』とかでそういうことを見事に書いていたりする。けっきょく、トマスたちのポーランド農民にしても、近代化の中で前に持っていた規範とずれていくけれども、なかにはシカゴに適応して、前に住んでた村の人たちから離脱して、別れてくるやつらがいる。それは進化なのかなんなのかわからないけれども、それは非常に合理的なことである。それはその合理性を理解しているわけですよね。
北田 うん。
岸 こういうふうに考えると、これもものすごく繰り返されてきてる「話法」なわけです。ただ僕は自分の仕事の中心がここなので、これをどうにか変えたいと思っているわけではなくて、逆にもっとやられるべきだと思っているんですが。
北田 1つめの話法は「時代診断」で、もう1つは「合理性を媒介にして理解する」こと。
岸 それで、もし「社会学らしさ」というものがあるとしたら、
北田 2つめのほうなんだよ、と。
岸 そう!(笑)
北田 前者に関しては、ほかのやり方がいくらでもある。だけど、後者の側面を完全に手放したら、社会学じゃなくなってしまうだろう。
岸 そうそう‼
北田 (笑)いや、これはね、じつは岸さんと僕が最初に会ったとき、デイヴィッドソンの名前が出てきて、どんな話をしたかは一切憶えてないけれど。
岸 泥酔してたからね。
北田 うん。でも、お互いに意外な感じがしたのは憶えている。芸風があまりに違うから。でもたぶん、本当はそんなに意外に感じることでもなくて、考えてみればデイヴィッドソンって、行為の記述の話をしてるわけでしょう。アコーディオン効果、いろんな形で記述される1つの行為や出来事をどうやって画定・記述できるのか、みたいな。
岸 うん。
北田 ウェーバーの『社会学の基礎概念』に出てくる「木こり」の話も同じような話でさ。「木こりさんは一体なにやってるんだ?」「斧を振ってるんだ、いや、○○○○やってんだ」とか、そういう話とスタート地点はまったく同じ。人びとの行為を記述する、理解する、そこをスタート地点に置いて話を進めて、他者を適切に理解するとはどういうことか、という話に通じていく。厳密なデイヴィッドソニアンに言わせると違うかもしれないけど、問題意識はすごく似ている。エスノグラフィーだけでなく歴史に関しても――まさしくウェーバーがそうだけど――「理解」というのが決定的に重要。
岸 うんうん。
北田 計量的な研究をするさいにも、「この質問で要するになにが聞けたんだろう」ということを「理解」しなくてはならない。それこそラザースフェルドには「なぜ(why)の尋ね方」という名論文がある。ある質問で何が答えられたことになるか、を精査する手続きを記したものです。質問票を作るときはもちろんのこと、自分たちが立てた設問と出てきた回答を付き合わせながら「これでいったい何が聞けたことになるのか」ということの精査をみなさん膨大な時間をかけてやってらっしゃるわけですよね。社会学者は、やはりこの「理解」の過程・手続きに徹底的にこだわるべきだと私は思う。
岸 北田さんが「態度」概念にずっと拘っているのはそういうことですよね。
北田 「態度」を測定すること自体、どうやって測定すべき態度を措定するかということ自体が、そういう「理解」と不可避的に関連している。
岸 そこで測定されているものはなんだろうか、と。
北田 実在する何かが測定されたのか、それとも測定によってその何かが存在するということになったのか。ハッキングやダンジガーが取り組んでいる問題ですね。まさにそこが調査史をやっていて面白いところです。ところで、エスノグラフィーとかインタビュー調査に関して、しばしば、この領域の人たちだけが「理解」の専門家でいることが義務づけられているかのように言われることがあります。僕は社会学者ならほとんど全員考えないといけないと思うんだけど。
岸 一時期、「人間性」って使うと叱られたじゃないですか。
北田 ヒューマニズム批判?
岸 「本質主義だ!」とか言われて。
北田 ああ。
岸 北田さんとルートが違うんですよ。デイヴィッドソンだったら、まず「寛容の原則」にすごく感動したりとか、ルートが少し違ってて。いま言っている「他者の合理性の理解」っていうのは、じつはマイノリティ研究の文脈でいうとものすごいルール違反なんですよ。これね、マイノリティ研究のなかでもこれからどうやって出していこうか、と思ってて。それは少し先になるかもしれないけど、ちくま新書で書こうと思っていて。
まず、そもそもマイノリティ研究では「理解する」って暴力なんですよね。なにかその理解されるものがあって、(1)人間性とか主体みたいなものがあって、なおかつ(2)それが合理的なものであって、(3)第三者あるいはマジョリティである調査者がそれを記述できるっていう。この3つすべてが暴力なんですよ。それがいまの質的調査の主流の1つになっています。対話的構築主義とか、僕もそこから勉強を出発したんですけども、そこではタブーなんですね。マイノリティ研究で他者を理解すること自体が。っていうか、研究者が他者を理解できたかのように振る舞うこと自体が暴力とされる。
北田 うーん。
岸 結論は「これからも考え続けていかなければならない」みたいな感じになってしまう。
北田 反省性みたいなこと?
岸 そう。「みずからの権力性を問い直していかなければならない」みたいな。当事者性に関する論文や本の多くはこの構造になっていて、問いの立て方の最初に「当事者とはなにか」っていうところで「当事者っていうのは、こっちからは想像もつかへんようなものである」っていう定義をしてから、当事者性についての議論をしていくと、最後にどういう結論になるかっていうと「当事者性というのはけっきょくわからなかった」という。これが何回も何回も繰り返されていく。
北田 それが、誠実性だと思われているのかな。
岸 そう。でも、それで何がおろそかになるかっていうと、けっきょく実態調査なんですよ。とくに部落の領域ではそれが一時期すごく強かったものだから、部落の実態調査がものすごく空いている時期がある。行政とつながっていた大阪市大が、ブルジョワだ、体制側だ、と言われながらやってきた調査があるけど、そういう例外的なものを除いて、ベタなレベルで「この村の平均収入はなんぼ?」っていう調査がまったくされてない。じゃあ実態調査を今からするにはどうしたらいいかっていうのを僕なりに考えた結果として、「他者は理解できるはずだ」っていう理論を立てなおさないとこれは無理だ、と。
北田 やっぱり、社会調査の文脈は、本当にもっと知られた方がいいですよね。たとえば、昔の調査の本とかを読んだりすると、本当に暴力的で、ネズミの行動を観察するかのようにして避難行動の分析とか平気でしてるし、あたかも警官が調べるみたいにして、家を訪問して調査したりもしている。そういった暴力のまずさが問われてきた。しかもそれが現代のポストコロニアルな時代においても、ふと気づかないところでマジョリティの調査者がやってしまうのだ、というのが1970年代以降くらいのラディカル・ソシオロジーとか、カルチュラル・スタディーズとかでは前提のポジションとされていた。
岸 そうそう。本当そう。
北田 「おまえ何様?」みたいな調査をしている人とか、あと通年で昔から継続してる調査をみたりすると「この質問文、大丈夫かな?」とか。
岸 あるある。
北田 問題はあるんだけど経年比較のために続けざるをえないってのは、しかたない。そういう意味でもね、「それはダメですよね」っていうのが倫理以前に問われるのは、調査ってそもそも他者を「調べさせていただく」わけで、当然のことだと思う。
ただ、岸さんの話で同じくらいの世代のリアリティとしてすごくわかるのは、誰もがポジショナリティの話ばっかりしていた時期があった。相手の議論や論文を批評するときすらね。
岸 本当にそう。
北田 それはそれで大切なんだけど、そこで見失われているものもある。けっきょく被調査者の生活や周辺の地域がどうなっているんだろうかとか、そういう問題が素通りされてしまう。
かつての社会調査や人類学的調査はフーコー的な「統治」の道具になっていて、そういったものに対して批判的な距離をとるべきという意識がカルスタ周辺で拡散した。そこでポジショナリティの話が覆い隠してしまった社会的排除の現場に対して、今度は「じつは社会学は社会的排除の実態を見据えて、社会的包摂を考えようとして立ち上がった学問なんだ。だからこそ排除について実態を調べる」っていう議論が出てきている。そんな構図がある。ポジショナリティのところで止まってしまう議論は、社会的排除の「実態」を調べられない、あるいは調べる勇気をもたない、と。
岸 そう。
北田 善意にもとづく態度であるとしても、下手をすると社会的な排除に加担することにもなりかねないんじゃないの、と。その場合、やはり「理解」が安易にできると思うなよ、っていう面も当然あるわけでしょう?
岸 まったくそのとおり。
北田 大学1年生くらいに調査設計させると、めちゃくちゃな「おまえ何様だ」というのを平気で書いてきたりするよね。全然「理解」を目指してないような。他方で、「でも、他者って理解できちゃうんだよ」っていう部分もある。この「できちゃう」ってどういうことかというと、偏見にもとづいて「この人がわかる」とかいう意味じゃなくて、岸さんみたいにフィールドに入っていくといろんな角度から物事が見えてくる。そうすると「この人がこれをやっているのは、本人は『こうじゃない』って言うかもしれないけど、『こうなんじゃないか』」みたいな感じで、行為の記述がある程度確定できてしまえたりする。「これは『正当化』の弁明だろう」とか「これは自己行為の再定式化だろう」とか、そういうのが「理解」してしまえる。これをちゃんと精緻にしていく、そうやって受け止めていくべきだ、というのが岸さんの主張といっていいですかね。
岸 たとえば「沖縄の人が本土就職して、なんでUターンしたのか」というのは、沖縄の本土就職者の人たちの内面の問題じゃないですか。この問いを因果的に描こうとすると、その人の内面を描くことになるんですよ。そうすると、沖縄の人の心の中をナイチャーのマジョリティの僕が代わって語ることになるので、これはものすごく典型的な「語りの搾取」みたいな図式になっちゃうんですよね。なので『同化と他者化』って書くのにすごく時間がかかったんです。1回、なんにも書けなくなって。でもやっぱり書こうと思って書いたのは、データをものすごくいっぱい集めてたんですよ。本土就職に関しては、僕は世界で一番くわしいと思うんですね(笑)。だから、ここまでネタを集めた以上、書く義務があるというか。これを「そこで僕はUターンの語りを聞いたけど、マジョリティとしてその場の中に立ち現れたんだ」みたいな感じで、ポジションのことに還元して書くのはすごく簡単だと思ったんです。だけど、そうしたくなかったんですよね。だから内面を、成り代わって書いちゃうのは、「語りの搾取」かもしれない。でも、その代わりじゃないけれども、僕はこれだけのデータを集めましたよ、と。それで集めたデータに関しては僕はこれはもう蓄積というか世の中に出す義務があると思って、そうさしていただきます、と。だから、語りのデータを「そのまま」本にした『街の人生』をその次に出版したのは、ああいう形ではどうですか? と。つまり「理解の仕方っていろいろあるんじゃない?」っていうこともあって。まあ、出してみたんです。なんとかして私たちは「他者を理解できる」と言いたかったというか。そうやって「書く」方向へ方法や理論を持っていかないと、社会学って自滅するしかないと思うんですよね。
※本連載は新収録の内容を加えて単行本化されました。ぜひご覧ください!