書評
『刑法の道しるべ』
(法学教室ライブラリィ)
東京大学大学院法学政治学研究科教授 佐伯仁志〔Saeki Hitoshi〕
本書は、京都大学で刑法の研究・教育に携わっておられる塩見淳教授が、『法学教室』に、2012年4月号から2013年6月号まで連載された諸論文に、新たに書き下ろされた論文を加えて1冊にまとめられたものである。
全体は大きく総論と各論に分かれており、総論部分は、第1章「法的因果関係」、第2章「作為義務の成立根拠」、第3章「侵害に先行する事情と正当防衛」、第4章「錯誤に基づく被害者の同意」、第5章「故意における事実の認識」、第6章「間接正犯・不作為犯の着手時期」、第7章「過失犯の共同正犯」、第8章「共犯関係からの離脱」、各論部分は、第9章「住居侵入罪の保護法益・『侵入』の意義」、第10章「奪取罪における不法領得の意思」、第11章「不法原因給付と詐欺罪・横領罪」、第12章「公共危険犯としての放火罪」、第13章「偽造の概念」、第14章「賄賂罪における職務行為」となっている。第6章、第9章、第13章が新たに追加された章である。
以上のテーマは、著者が、学部や法科大学院の授業の経験や答案から、多くの人が迷っているのではと感じたものを選ばれたものだそうであり、筆者の経験からも同感できる選択である。以下で、本書の内容を章ごとに簡単に紹介するが、学説・判例の分かりやすい紹介・分析が行われていて、読者の理解にとって大変有益であることは、どの章にも共通することなので、結論部分だけを紹介することにしたい(さらに、本書の編集担当者である田中朋子さんによる的確な紹介https://www.yuhikaku.co.jp/static_files/BookInfo201509-13907.pdfも参照していただきたい)。
第1章では、法的因果関係の判断について、従来の相当因果関係説が批判され、新たな判断枠組みが示されている。著者によれば、法的因果関係の判断は、事実的因果関係の確定に際して考慮された、当該の行為及び介在した事情を資料として、各事情の寄与度や相互の結びつきを考えて結果を帰属させるべきかどうか(基礎づけ段階)と、刑法に内在する他の規範的考慮から、結果帰属がなお否定されるべきかどうか(阻却ないし限定の段階)の2段階で判断される。2段階目の判断については、①第三者の行為の介在、②被害者の素因・行為の介在、③行為者自身の行為の介在が検討され、例えば、②について、被害者が自律的に法益を処分した場合は、その結果は他者に帰属されないのが原則であり、自己の行為の危険性を認識していたにとどまる場合にも行為者の行為への結果帰属は否定される、③について、「行為後に行為者自身の複数の行為が介在する場合、重い態様の行為の1つにしか結果は帰属されない」など、注目すべき主張がなされている。
法的因果関係は、学説が大きく変わった分野であり、その理解に悩んでいる人は多いであろう。自分では理解したつもりになっていても、実際にはよく理解できていない人も少なくないと思われる。第1章はそのような人にぴったりの内容であり、本書の一部を試しに読んでみたいと思う人は、まず第1章を読んでみるのがよいであろう。
第2章では、不作為犯における作為義務の根拠について、もともと行為者と法益・危険源の間に保護・監視関係が存在するケース(「予定された作為義務」)と行為者がそれまで無関係だった被害者の危険切迫状態を惹起・遭遇したことを契機とするケース(「偶然の作為義務」)とが分けられ、後者のケースでは、「不作為者が自己の意思に基づいて排他的支配を有し、または設定した場合」にのみ刑法上の作為義務が成立するとしている。
第3章では、侵害に先行する事情が正当防衛に与える影響について、まず、侵害の惹起の観点から、自招侵害として正当防衛が制約を受ける要件が示され、次に、侵害の予期の観点から、攻撃を受けるだろうとの十分な予期のあることが防衛行為の相当性の判断に影響を与えることが示されている。
第4章では、錯誤に基づく同意の有効性は、誤認された事実を被害者自身が重要と考えるか否かにより判断されるが、被害者が抱いた目的が著しく違法であるか、とるにたらない些細なものである場合、その錯誤を考慮する必要はなく、同意はなお有効と評価されるとする。また、錯誤に基づく同意が無効であれば、原則として犯罪は成立するが、被害者の錯誤を行為者に帰属すべきでない例外的な事情があれば、不成立となる。このような例外的処理は、詐欺罪において告知義務の否定という形で行われており、住居侵入罪(第9章参照)や監禁罪においても同様の構成を採りうるとしている。
第5章では、事実的故意における認識の対象は、あくまで「構成要件において個別化された事実」という形式的なものと考えるべきこと、構成要件該当事実は、意味のレベルで認識されればよく、そこでの「意味」とは、法規制の基礎とされた意味・属性として理解されるべきことが指摘されている。
第6章では、不作為犯の着手時期について、危険結果の発生に着手の基準を求める近時有力な見解を批判して、作為義務を履行すべき最後の時間に切迫した時点、ないしは、作為義務の内容とされる作為の遂行を実質的に困難にする作為に出た時点のいずれかに実行の着手を認めるのが妥当とする。間接正犯の着手時期については、利用行為の完了をもって実行の着手とする解釈が適切であるが、被害者に属する領域が存在する場合には、「被害者領域への介入」を、密接・直前行為と並ぶ未遂犯成立のための重畳的要件とすべきであるとしている。
第7章では、過失犯の共同正犯について、実行行為の共同という限定を外して過失共同正犯の成立範囲を拡げる構成を批判し、共同義務の共同違反が認められる範囲で共同正犯を認める通説の立場を支持している。
第8章では、共犯関係からの離脱の判断について、近時の判例・通説と同様、従前の関与により生じた作用・影響(寄与)を失わせたかどうかで判断されるとしながら、より精確には、結果への作用・影響を事実的に失わせたことではなく、失わせると評価すべき、離脱としての適格性のある措置がとられたことが重要と考えられ、現実には遮断できなかった場合でも離脱を肯定する余地が残るとしている。
第9章では、住居侵入罪の保護法益について、新住居権説を支持し、このような住居権・管理権は、事実的支配に基づいて成立するものなので、立入に対する不適正な不同意も効力を否定されず、このことは公共建造物でも異ならないとする。また、立入の目的について住居権者の側に錯誤がある場合には、原則として「侵入」にあたるが、住居権者が、他者と広く社会的に接触するために、望ましくない目的で立ち入る者を選別し排除することを断念していると評価できる場合は、住居侵入罪は成立しないとする。
第10章では、奪取罪における不法領得の意思を、利用・処分意思、すなわち、奪取した物から直接かつ実質的に、その効用又は価値を取得する意思と捉え、これまで権利者排除意思のもとで捉えられてきた、物の返還による被害者側の利用可能性に対する侵害の軽微性は、毀棄罪において考慮することを提案している。
第11章では、不法原因給付と詐欺罪・横領罪の問題について、民法708条を法的根拠なく給付したものの返還の実現に裁判所が例外的に手を貸さないことを規定するものだと理解して、詐欺罪及び横領罪の成立を肯定している。
第12章では、公共危険罪としての放火罪について、放火罪一般で問われる公共危険の観点に、現住建造物等放火罪における、建造物等の内部に現在する(かもしれない)人の生命・身体に対する危険の観点も交えながら、焼損、現住性、建造物の各概念に検討を加えている。
第13章では、「偽造」の概念について、文書の作成権限を判断する際に考慮することが許される事情を検討し、文書の発給資格、業務遂行に必要な資格、後の手続が予定されている文書においてその手続で特定に使われる名称などの考慮が許され、また、その性質上、自署を要すると解される文書では、当該文書を書いた者が作成者である、などの結論を示している。
第14章では、賄賂罪の保護法益について、職務行為の公正とこれに対する社会の信頼の他に、公務員が職務として関わる制度の公正さも含まれるとし、また、職務行為の範囲を画する概念について、判例・通説が用いる職務密接関連性の概念は不要として、職務行為と認められる場合を具体的に検討している。
本書の特色を幾つか挙げると、まず第1に、繰り返しになるが、判例・学説の紹介が丁寧で、なぜそのような見解が主張され、問題があるとするとどこにあるのかが丁寧に説明されていることである。見解が複雑に対立していることに惑わされて迷路に迷い込んでいる学習者にとって、本書は刑法を理解するための良き「道しるべ」となるであろう。
第2に、議論の進め方と結論として示される解釈に安定感、安心感があることをあげることができる。まさに「道しるべ」に相応しい特色である。「道しるべ」に示された道を進んでいったら崖から落ちたというのではシャレにならない。
著者は、第1章において、法的因果関係の判断における寄与度や介在事情の結びつきの判断が「健全な法感覚」に基づく判断であり、法概念の解釈に当たって「健全な法感覚」を援用することが不当とは思われない、と述べておられるが、法解釈における「健全な法感覚」の重視が、本書の安定感、安心感につながっているように思われる。著者の「健全な法感覚」の働きは、基本的には判例・通説を支持されながら、過度の処罰に至らないための歯止めを随所に示されていることに良く表れている。例えば、①不作為犯において「偶然の作為義務」を区別すること、②錯誤に基づく同意を原則として無効としながら例外を認めること、③間接正犯の実行の着手時期について被害者に属する領域への介入を重畳的要件として要求すること、④立入目的について錯誤がある場合は原則として住居侵入罪が成立するとしながらその例外を認めること、などである。
このような、まず、刑事責任を基礎づける原則を考え、次に、その制約原理を考えることで、妥当な結論を導こうとする解釈手法が、本書の第3の特色といえる。このような思考方法は、法的因果関係の判断を2段階に分けて理解する点にも表れている。もともと、犯罪論の体系が、原則的処罰類型としての構成要件と例外的事由としての違法性阻却事由・責任阻却事由という2段階構造になっているのであるが、著者は、個別の解釈にもこのような2段階構造を取り入れているように思われる。このような解釈手法は、問題点と解決のための思考過程を明確化するうえでも有益であり、読者に解釈の「道しるべ」を明確に示すことに寄与しているように思われる。
以上のような本書の解釈手法は、快刀乱麻を断つといったものとは少し異なるので、その点に物足りなさを感じる読者もいるかもしれない。しかし、本書をずっと読んでいくと、だんだんと刑法の解釈の面白さが分かってきて、その理解が深まり、力がついてくること請け合いである。筆者も本書から学ぶ点が多かった。
本書のそれぞれの章は独立しているので、個別に読んでも十分勉強になるが、全体を通して読むことで、その学修効果が2倍にも3倍にもなると思われる。本書は、例えていえば、じわじわと効いて体質を改善していく優れた漢方薬のような書物である。本書を、刑法の迷路に迷って助けを求めている人にも、刑法が得意でさらなる高みを目指そうとしている人にも、お薦めしたい。