座談会
専修大学法学部教授 伊藤武〔Ito Takeshi〕
大阪大学大学院法学研究科准教授 砂原庸介〔Sunahara Yosuke〕
大阪市立大学大学院法学研究科准教授 稗田健志〔Hieda Takeshi〕
神戸大学大学院法学研究科教授 多湖淳〔Tago Atsushi〕
砂原 昨年10月に『政治学の第一歩』という政治学の初学者向けの入門教科書を出版しました。そこで、この教科書を題材として、これからの政治学教育について議論する座談会をすることにいたしました。ただ、著者のわれわれだけだと、「ここの部分は書くのが難しかった」、「ここは見解が一致しなくて大変だった」などと、内輪話に終始してしまいそうですので、伊藤さんにお話に加わっていただくことにしました。伊藤さんは、政治史を本領としつつも、現代政治分析の分野でも国内外で活躍されていますので、政治学全体の中での本書の位置付けを俯瞰しながら忌憚なきご意見を賜ればと思います。どうぞよろしくお願いします。
それでは、まずは伊藤さんから、読んでいただいた感想とかご批判をいただければと思います。
伊藤 著者のお三方の書かれたものなら出版前から予約しても良いと期待していましたが、実際は期待以上でした。非常に大胆な取捨選択がなされていること、それは理由がないわけではなくて、きちんと政治学の学問動向を押さえていること、10年後、20年後くらいまでを考えると、たぶん本書のような政治学がよりスタンダードになっているのではということまで見越して作られていると思います。例えば、いろいろと新しい知見を採用するというところも特徴的で、コンドルセのパラドックスと投票制度、比較政治制度論的な執政制度研究の話、戦争と外交、平和を連続的にとらえる話などです。このように、きちんと新しい研究成果を取り入れて書かれているというところが、まず1つ優れたところだと思います。
そして、新しい視点をふまえた上で、アプローチとしても一貫した説明をするというところが特徴ですね。方法論的個人主義と、特に私が面白かったのが、戦略的相互作用の話でした。方法論的個人主義の話を書かれている点は、従来『レヴァイアサン』系の先生方が書かれた教科書も同じです。しかし、方法論的個人主義とか合理的選択論だけではわからない問題、皆が真面目にやるのになぜ上手くいかないのかという、学生さんたちが一番興味をもつ問題に答えるには、やはりその話をしなくてはいけないと感じていました。その問題を理論的なところも含めて正面から扱ってくれた入門書というのがなかったので、それが本書の一番のメリットだと思います。
以上をふまえておうかがいしたいのは、まず、どういう基準で取捨選択をしたのかです。執筆理由とも関連しますが、例えば政治思想や政治哲学、政治史については明確に取り上げていらっしゃいません。分担執筆の教科書でしたら確かにそういう専門の方を入れて配慮することも可能でしょう。しかし、政治学の学問動向がそれらの分野から移りつつあるのだという認識だけでなく、学生さんと向き合っている過程で、そうした取捨選択をしなければ、よりよく理解してもらえないという意図があったのではないかと推察しています。
私の経験ですが、以前ヨーロッパのデモクラシーに関する教科書(1)を作ったときにも、似たような課題に直面しました。本来あの教科書を執筆した網谷龍介さん(津田塾大学教授)や、成廣孝さん(岡山大学教授)、そして私は、往年のコーネル大学出版のポリティカル・エコノミー(ポリエコ)・シリーズ(2)で育ったので、基本的にポリエコの話のほうが好きだったのです。しかし、講義でポリエコの話をしても学生の反応が悪い、経験上たぶんあまり興味を引かないテーマだということで、あえてその話を落として政党政治を軸に据える取捨選択をしました。
関連して。そもそも執筆をどのようになさったのかとか、類書との関係もうかがえればと思います。
次にお尋ねしたいのが、本書の使い方です。使い方というのは2通りあって、教員の使い方と学生の使い方。教員にとっては、こうしたアプローチに馴染みのある人にはあまり問題がないと思うのですが、少なからぬ政治学の教員には、本書はいきなりエスペラント語を勉強しているかのように感じる可能性もあるかもしれないわけです。馴染みのない政治学の教員に対してどう訴えかけるか、新たに本書のようなアプローチで教えたいと思った教員がどのように勉強すればよいのかというところも知りたいです。
他方、学生にとっての使い方としても、やはり1年生とか2年生とかの学生さんにゲーム理論の話をしたときに感じたように、基本的に政治経済を少し真面目に勉強した学生が囚人のジレンマを少し知っているという程度で、やはりほとんどの学生は政治学の授業中に計算すると思ってないんですよね。そういう学生さんが、例えばナッシュ均衡の話だとか、授業中に実際に頭を使って計算するというタイプの政治学にどう接近すればよいのかというのは、数学が苦手で文系にきたという方もいるかもしれないことを考えると、お聞きしたいです。
さらに質問させていただきたいのは、本書が入門書である以上、その次があるはずということです。たとえば、この後にどういう本を読んだり(もちろん巻末の読書案内に非常に詳細に書かれてもいるのですが)、どういう勉強につなげていったりすればよいのかも大切な点でしょう。例えばデータセットの話がふれられていましたが、それをきっかけに計量政治に関心をもった学生さんから、「どういうふうに勉強すればよいですか?」と言われたときなどです。計量政治に明るい教員がいない大学も多いので、学生さんや教員にアドバイスがあればぜひお聞きしたいと思います。
砂原 私が書くときに意識していたのは、体系性ですね。私は大阪大学に移ってからはじめて政治学を教えることになって、正確には覚えてないですけども、その真ん中くらいの授業の後で、2年ゼミを取っている学生が寄ってきてですね、「先生、政治学って体系がないですね」と言ったんです。僕は一応体系的に教えているつもりだったんですが、そういうのは全く伝わってないわけで、どうやったら体系的に話をできるんだろうと思いました。実際に教科書を書いたとき、そんなに強く意識したかっていうとそうでもないんですけど、結果的に、内容を調整する必要はほとんどないくらい我々のアプローチ自体は基本的に一貫していて、今教えているときって、僕なりには体系的に教えられている感じがしています。それは最終的に出てきた方法論的個人主義と戦略的相互作用を軸にして、というわけですけど。
これは後付けなんですけど、初めにゲームの話をもってきて語った結果として、何か完全完備情報の世界を話している感じがします。相手について情報を知っているプレイヤーがいて政治をやっている、そういう世界を議論しているような感じ。本書では、例えば政治史だけではなく、マスメディアというのも落ちています。ただ、メディアを落としてる理由はこれで結構説明できる気がしていて、要は不完備な情報の話はしてないよということなんですよ。それで、プレイヤーが動くときに考えなきゃいけない話として、結局ほとんどはあらかじめ設定された正統性と強制力の話で説明しているんですね。そもそも何をもって正しいものとみなすかとか、そのプロセスとしての歴史は書いていない。
ただ講義では第1章のところで、どう正統性と強制力を見つけるのかという話をして、始めのほうで例として挙げていたのが、「なぜ君たちは僕の授業で話を聞くのか?」ということを言うわけです。授業を静かに聞くことの正統性というのと、単位を出さないよという強制力というのが、どっちかだけじゃたぶん駄目なんだよねって話をしながら、皆さんは教員の話を静かに聞くことに正統性をなぜか感じている。だからこそ、こうやって聞いているのであって、おそらく単位を出さないよという脅しだけだったら僕の話を聞かないよね、っていう自虐的なことを言っています。
稗田 かなりの取捨選択をやっているわけですけれど、準備してる段階では、方法論的個人主義と戦略的相互作用という枠組みをそこまで意識しないで、取捨選択してるのですよね。それで、3人それぞれが書けそうなものをまず取り上げて、各章を書いていこうと。そこで政治思想というものを取り上げることも考えたんですけど、ちょっと書けるかどうか難しい。でも第1章で自由とかそういう問題についてはふれていこうと、最初、砂原さんが準備したんですよね。ただ、できあがった草稿を他の政治学者の方に読んでいただいて意見を頂く中で、やっぱり暗黙のうちに僕ら3人の執筆者が了解していたものを、はっきり打ち出して体系的な一貫性のあるものにしたほうがよいだろうという結論になって、そこで方法論的個人主義と戦略的相互作用が出てきたんです。実際、書いているものを見てみると、その枠組みで書けるというのがわかったんですね。それで、それをはっきり打ち出すというときに、言葉で権力とか自由とかを書いていた砂原さんの章はちょっと全体と合わない、というか理解が難しくなったので、政治思想の部分は結局、社会契約のところで少しホッブズ、ロック、ルソーにふれたくらいで落とすということになりました。
あとは、意識的か無意識的かと言われると、一部意識的なところで、方法論的個人主義と戦略的相互作用でいくという合意が何となくできていく中で、意図的にこの本に合わない話、例えば投票行動だったら合理的な有権者を想定するほうがマイノリティで、有権者は合理的ではないという理解からスタートするのが本当はスタンダードなんですけれども、それに対して、いや有権者の行動というのは合理性をある程度想定しても議論できますよという話をして、教科書では意図的に、枠組みに合わせて説明できるような、かつそれなりに影響力のある理論を入れるという形にしています。そのほかにもやっぱり、先ほど砂原さんがおっしゃったように、マスメディアの話はちょっとはまりにくいというのがあって、最後までどうしようかと思ったんですが入らなかったです。
あと、類書との関連で言うと、大阪市立大学の政治学概論を担当したときに、『はじめて出会う政治学』(3)という政治学入門のテキストの中では王道というか、最も売れてる教科書を採用してやってみたんです。この本、非常によく書かれていて、学生のアンケートにも「教科書が非常に読みやすい」とあったんです。ただ、つかみの部分ですでに面白い話が書いてあって、これを授業の中で繰り返すのもちょっとつまらない。僕が繰り返しても仕方がないので、じゃあもうちょっと理論的な部分をきっちり説明しようかなとすると、僕が授業をやる分には少し説明したい項目が足りないところがあって使いづらさを感じたんですよね。そこで、教科書を読み物として読むにはちょっと困難を伴うかもしれないけれども、基本的な概念とかモデルとかを提示して、それを教科書を1回読んだだけではわかりづらいところをいろんな例とかを出しながら教員が説明できるような教科書にしようかなという形で書いたのが、この教科書です。
多湖 砂原さんに共感するのは体系的な教科書を書きたいな、という意識です。いろいろな基本教科書で常に問題として存在することなんですが、国際政治の部分は「浮く」のですよね。最終的に、現在の章立てになったのですが、第10章・第11章はその前の部分との連続性もしっかりあり、問題ないと思います。というのは、平和と安全保障はゲーム理論や空間モデルで議論しますし、IPE(国際政治経済学)の部分もゲーム理論で説明していますし。
問題は第12章だったんですよね。この章は「国際社会と集団・個人」といったタイトルを付けてますけど、これを書いていくときに冒頭はいわゆる現実主義といった「イズム」の話だったんです。しかし、何度書き直したかわかりませんけど、共著者2人からイズムについては「拒否権」を出されて落としました。というのも、僕がイズムを書きたくて書いていたわけではないことを見透かされていた。いや、ちょっと言い過ぎかな。でも、事実、国際政治のところを読んで、「何でこれが載ってないの?」と思うのはイズムの話だと思うんです。が、それは、やっぱり体系性としての方法論的個人主義と戦略的相互作用を重視するからこそ、こういう作りになっていると理解していただきたい。結果として、現実主義の古典たるモーゲンソーにふれることもなく、この教科書で国際政治学を学び始める学生は、「イズム論争」や「モーゲンソー」をのちのち「再発見」することになるかもしれません。
ただ、指摘しておきたいのは、イズムへの言及はないものの、コンストラクティビズムみたいな要素は入っています。例えば欧州的な近代国家ありきの国際関係だけではなく、中華システムやイスラム・システムといった今とは異なる国際政治システムの可能性や、非国家主体の重要性、国際規範のインパクトの大きさといった話をしています。また、昨今の国際関係を考えるにあたってテロリズムをどう扱うのかは避けては通れない論点だと思うのですが、国家による暴力の独占とテロリズムの関係を、両者が相互規定する側面を重視して読者によく考えてほしい、と訴えて本書が閉じられています。
砂原 第12章が入って本当によかったと思うんですね。この本の1つの特徴は、検討会で曽我謙悟さん(京都大学教授)に言われたんですけど、「社会」という言葉が出てこないところなんですね。で、僕も最後に校正をしていて感じたのは、社会という言葉が削るまでもなくほとんど出てこないことです。たぶん僕が見た感じでは市民社会というのが1回出てきていて、あと国際社会というのが何カ所か出てきていると。最後は国際社会という、第12章では社会の話になるわけですよ。これってある意味面白くて、実は国内でも社会の問題はあるんですけど、その問題を正統性と強制力の問題として論じている。国際社会のほうは外縁がはっきりしていて、アクターだけを見ても何かこうまとまりがないし、国際「社会」くらいしか言いようがないじゃないですか。でも実は第12章の「何を(誰を)国際社会のアクターとして認めるか」っていう話は国内の問題でもあるわけですよね、明らかに。しかも、第11章とかで移民やガストアルバイターの話だとかを出した上で、第12章に行くというのは、全然意識してませんでしたけど、構成としてはよかったかなというふうには思いますね。
多湖 そうね。意識してなかったけどね(笑)。
伊藤 まあ、でもこういうチームになろうとした時点で、たぶんそれは共有されていたんじゃないですか?これで大丈夫だと。
稗田 社会というのを外すというのが気に食わないって人はいると思うんです。というのも、もしかしたらこの教科書は、「政治」にかなりの役割を期待しているというのがあるかもしれなくて。この教科書が想定しているのは、いろんな選好をもつ有象無象がいて、そこを束ねて秩序を作っているのは「政治」なんですよ。だけど社会を考える人っていうのは、そういった人たちが何か秩序というのを政治なしに作っていると考える。そのうえで国家というのがあって、そこに相互作用があるはずなのに、その自立的に秩序立ってできあがっている社会というものがちゃんと概念化されて出てこないから何でだろうなという話に。むしろ、いや社会的なものを作っているのは「政治」だけどと考えていて……。
伊藤 でもたぶんその政治というのが、いわゆる例えば家庭内の政治でありうることも、冒頭に書かれていますね。何か変えるためには知ることが必要で、いろんなゲーム理論的なジレンマが生じて、それをどう解消したらよいかって、それはもちろん投票とか普通に皆が政治って考える分野にもあるけど、それこそ就職活動とか「社会」と見られるようなものにも適用しうるということでしょう。確かに本書は政治に期待してますけど、いわゆる大文字の「政治」だけじゃない話をされていて、そこはすごく印象に残ります。
砂原 身近なところから政治だって言っているので、反対に政府っていうものを特に想定する必要がないっていうか。だから要は正統性の問題をある集団として解決するべき問題としてとらえて、政府というのはあくまで便宜的なものとして扱われている感じですね。
多湖 国際政治はそれに救われてるんですよね。ほかの本の作りであれば、中央政府がないのに何で国際政治って呼ぶんだ?という疑問がありうるわけですが、本書はその心配はない。なぜかというと、政治はマンション管理組合にも起きるような問題だから。なので、世界政府がない国際関係にも存在する。
この点に関連して、国際政治って言葉が嫌いな人も日本だといるんですよね。国際関係論(IR)って言葉にすべきで、大事なのは政治ではなく、リレイションズなんだっていう人もいるんで。つまり、ポリティカル・サイエンス(ポリサイ)の一部なのかどうかという問題さえあります。
砂原 編集のときもずっとその話が出ていたんですけど、知らないのでイメージがなかなかわかないんですよね。ポリティカル・サイエンスじゃないIRというのは、どんなもんなんだろうというのが。
伊藤 地域研究の人だったらそういう人はいますし、別に国際的なことをやっていても科学的に説明をしようという明示的な意識がない人もいるとは思いますよ。
砂原 政治を扱っているという意識は強いのですよね?そうでもないんですか?
多湖 いやいや。アメリカでは国際関係論は政治学だけども、ヨーロッパでは社会学でも国際関係論がありうる。そこで、やはり考えたいのがこの教科書とアメリカの学界との関係です。アメリカのポリサイ、アメリカのIRの影響を受け、ある意味でのその産物かなと。ただ、完全輸入品かというと、そうではない。僕ら3人、やっぱりアメリカでPh.D.をとってないし。だけど、アメリカでやられたことを自分の研究とかで発表していくときに、習ったものはふんだんに生かされているし、国際政治学でカリフォルニア大学サンディエゴ校のデーヴィッド・レイクらが書いた教科書(4)があるんですけど、彼らは戦略的相互作用と方法論的個人主義って宣言して始めるんです。そこからすると、かなり影響を受けているってのは認めなきゃいけないんだと思う。
伊藤 でも、以前の「政治学」に関する座談会の記事(5)を読ませていただいたときに、大嶽秀夫先生(京都大学名誉教授)が政治史から始めた人も現代の、中でも1970年代とかを書いているじゃないかと、例えば、終戦後の政治学でファシズム時代のことをやっているのは、別にあれは歴史じゃなくて近過去だろうと指摘していました。私も、故篠原一先生(元東京大学教授)のように当時の政治的な焦点を、歴史学と違うやり方で研究するのも別に普通なので、全然おかしいと思いません。それに政治学が学問的に自立したのは基本的にせいぜい1950年くらいでしょう。だから、70年代くらいの政治学の姿をモデルにして、それが今変わらないと考える必要はなくて、たぶんそれがどんどん変わっていくと思うんですよね。それがアメリカになるのかどうなのかっていうのは、わからないですけども。
多湖 繰り返しておかなきゃいけないのは、僕らはアメリカ育ちじゃない、むしろ『政治学』(6)を書かれた久米郁男先生(早稲田大学教授)や古城佳子先生(東京大学教授)といった方々がアメリカ育ちで、でもその先生たちに教わった僕らが今回書いている。
稗田 これは1つのアプローチであるということで、それなりにこれからも通用していくものであるとは思うんですけど、他のアプローチも当然あって然るべきで。自分たちなりの一貫性をもった政治の解釈というか政治の見方・視角というのを提示すると、こうなったと。自分たちの研究も確かにこういう面があるので、他のやり方ができるというわけではないので。
伊藤 こういう手法に関しては標準化されたトレーニングが可能になったからこそ、アメリカにいなくてもある程度は学べると思うんですよね。でも、問題は他のアプローチ、政治史も、政治思想などに関する状況との比較です。最近、政治思想や政治哲学に関して、方法論的側面を従来より意識した本が相次いで登場しました。他方、政治史について、私の知る限りだと、内政の政治史については例えば体系的な資料批判の方法とかの教育はほぼなされていないですし、「見て学べ」に等しい世界ですね。そうした標準的なトレーニングが行えないのはかなり深刻な問題で、教育に差し支えがあるわけじゃないですか。
だからこそ、そうした「政治科学」の外部の政治史から出発した自分としては、政治学の中のサブフィールドとして、何かこの教科書とは違うものが存続するとしても、何か独自のトレーニングの仕方とか、学生だけでなく教員の側のトレーニングも含めて確立していかないとたぶん駄目なんだろうなと感じています。それがあればその分野の研究の再生産ができるので、将来的に伸びていく。それがない分野はやせ細っていくんだと話を聞いていて非常に思います。
砂原 それは非常によくわかる話です。結局こういう教科書を書いて思ったのは、読んだ人が研究者の言うべきことをだいたい言えるようになっちゃうほうがよいということです。我々の立場としては、より高いものが求められるので苦しくなる可能性もありますけど。例えば僕、新聞のコメントとかよくさせていただいてますけど、教科書をちゃんと理解してくれた人にとっては、僕のコメントなんていらないということになるわけですよ。それはそれで、すごくよいことだと思うんですね。
伊藤さんが今おっしゃったのが本当にその通りだと思うんですけど、じゃあ他の政治学に対するアプローチといったときに出てくるのは、資料批判とか方法論の話に近いと思うんですよね。方法論じゃなくて、サブスタンシャルなところで方法論的個人主義や戦略的相互作用とは違うようなことを、体系的に議論することはどのくらいできるんだろうというようには思ったりするんですよね。
伊藤 私はどちらにも片足を突っ込んでいるような現状なのですが、方法論的個人主義についても、例えば、暗黙の前提として政治史でも行われているものだと思います。合理的なアクターを仮定して、どう行動するのを考えないで、論理的説明はできません。実際にそれと合うか合わないかというのを資料と突き合わせたり、資料で生じた状況について合理的だったらどう考えられるのかをまさに思考実験したりする。そのための政治を見るアプローチとしては、合理的選択って特別なことを言っていないのではないかと思います。非合理的に行動するならば、それなりの理由があるわけで、「一次接近の方法」としては有効でしょう。
私も、この前学生さんたちに授業で話すときに、アプローチは外交史でも国際関係史でも政治史でもいいけれども、こういうことを明示的に意識できたり、論文では書かなくても慣れておいたりしたほうが資料を読むときの読み方が違ってくることを話しました。だらだらと記述するのではなく何か発見のあるものが書きたいと思ったときに、このようなトレーニングをしなくてはいけないんじゃないかと。だからゲーム理論の初歩的な本とかも読んでおいたらいいよと言ったんですね。本書は大胆に取捨選択された本ではあるので、もちろん違和感のある人もいるだろうし、自分はこういう立場じゃないと思う人もいると思うのですけど、少なくとも避けては通れないアプローチだってことはわかってくれるかなと期待して読んでました。
多湖 結局、戦略的相互作用を表現するのに適したゲームの状態を想定し、そこに登場人物が必ず複数いて、誰かが独善的には決定できず、各行為者が望ましさを想起して「ペイオフ(利得)」というものを置け、そこで各行為者が相手のとりうる手に対して自らの利益最大化をはかる。議論の出発点としてこのような合理的な分析のレンズ、基本的な着眼点を教えるのが、この教科書です。こういったレンズをきちんともたないと社会科学として論理的に分析できませんよねという簡単なことを言ってるんですけど、意外とそれを大学1年生で教えていない。この教科書の第1章を1年生の最初で読んで進んでくれれば本当に御の字だなとは思うんですけども。
砂原さんと稗田さん、お2人はそれを教えてるわけでしょ?僕は残念ながらこの教科書を使う授業をもってないんですどね。
そういえば、新潟県立大学の浅羽祐樹先生は、この教科書で「政治学」という講義を早速2015年秋からしてくださっている。彼のツイッターには復習問題なんかもあがるのですね。
(2015年11月28日収録)
(1)網谷龍介・伊藤武・成廣孝編『ヨーロッパのデモクラシー〔改訂第2版〕』(ナカニシヤ出版、2014年)
(2)Cornel Studies in Political Economy. A series edited by Peter J. Katzenstein.
(3)北山俊哉・久米郁男・真渕勝『はじめて出会う政治学〔第3版〕』(有斐閣、2009年)。
(4)Jeffry A. Frieden, David A. Lake, and Kenneth A. Schultz,World Politics: Interests, Interactions, Institutions, 2nd edition(W.W.Norton & Co. Inc., 2012).
(5)村松岐夫・大嶽秀夫・真渕勝「政治学の教科書を読む――『はじめて出会う政治学』を中心として」(上・下)(『書斎の窓』1997年10月・11月)。
(6)久米郁男・川出良枝・古城佳子・田中愛治・真渕勝『政治学〔補訂版〕』(NLAS)(有斐閣、2011年)。