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書斎の窓

自著を語る

『公共マネジメント――組織論で読み解く地方公務員』

地方公務員の思想と行動

――NPM批判の立場から

愛知学院大学経営学部教授・京都大学名誉教授 田尾雅夫〔Tao Masao〕

田尾雅夫/著
A5判,280頁,
本体2,300円+税

 朝型なので早く起きる。起きれば必ずパソコンの前に座る。ほぼ30年前からの習慣で、夏場であれば7時少し前か、寒くなれば7時半を過ぎるころ。思いつきを書き出すが、ハイな気分になることもあれば悶々とすることもある。朝飯で机を離れるまでのホンの短い間の作業である。しかし、塵も積もれば山のたとえかもしれないが、日にちが経てばかなりの字数にはなる。けれども、後日読み返すと、ほとんどはつまらない文章である。そのなかで、微弱ではあるが何とかなるのではないかという気分にさせる部分があると、そこだけを集め、カットアンドペーストで順序を見直し、書き足して体裁を整えるようになる。見通しがつくようになると、それに合わせて目次をつくり、序文に当たるところを書きはじめる(出版社にお願いするのは、このころである)。裏付けのために文献を探すのは、その後である。週末に京都大学の法経図書館に通うことも多くなる(古い奴だと言われようと、文献探しに慣れているところなので。JRで名古屋―京都は片道36分、自宅のドアから北館のドアまで急がなくても2時間以内。宿も何とかなる。仕事を終えた帰りの缶ビールの味は何とも言えない)。骨組みに納得できれば、それに合うように、以前に書いた原稿からのコピーアンドペーストも増えてくる。

 問題はその後である。順序や体裁を整え、文献を入れ込む作業を繰り返し、推敲を重ねて文章の入れ替えをすればするほど、自分の文章に対して、頭の隅に何か違和感のようなものが小さな泡のようにこびりつくようになる。けれども、そのころはそれに気遣う余裕などない。とにかく書き続けなければならない(このころになると、朝ではなく昼間の作業になる)。そして書きあがる。出版社に送って、いくどか校正があり、やがて印刷されて真新しい本が送られてくる。当初は嬉しくて何度か読み返すことになる。その高揚の気分は数カ月続くだろうか、それを過ぎるころに読み返すと、メモ風に書き溜めていたときのあの生々しい、ゴツゴツした文章ではなくなって、何の取り柄もない一冊の平凡な本ができただけという、深夜の酔い醒めにも似た気分を味わうことになる。

 自分が書いたことではあるけれども、何か腑に落ちない。何が言いたいことかも、推敲を重ねているので、とりあえず表現できているとは思うが、丸みを帯びた分、何かが隠されてしまい、また意図せざる、平凡な部分が残ってしまったようで、気持ちが落ち着かない。著者の思いが伝わらないことをやむを得ないとし、読者にその思いまで伝えようとしなければ、値段の分、もしかしてそれ以上の詐欺を働いたことになる。名著や社会を動かす力のある著作に評釈本がいくつもできるのは当然である。著者が書かなかったこと書けなかったことを読みとるのは、読者の仕事である。けれども、私たち凡百の読者には手に余る。評釈がいる。意義のある著作にはいくつあってもよい。

 筆者の場合、評釈していただけるなど大それたことは考えていないけれども、読み手の立場に立って読み返して、詐欺と感じられるようなところは少なくしたい。以下は自注のようなものである。半年も経てば、いくらか冷静になれる。


 本書の始まりはいつになるのか分からないが、地方公務員の人たちと会って、その見聞をメモのように書き留めたことに始まると思う。パソコンを使いはじめるよりも以前に遡ることになる。マメにメモ書きする癖があったので、それ専用ではないが、下手な字の走り書きの変色したノートが何冊か残っている。そのころは社会福祉学科にいたので、医療・福祉の関係者にはかなり多く会っている。ストリート・レベルの官僚制の翻訳をしたころにも重なるので、地方自治体という組織の仕組みの上のほうよりも、現場にいる人たちへの関心が強かった。その下地があったので、その後のNPMの登場には、非常な違和感を覚えた。いくらか過激な言い方にはなるが、提唱者たちは、ほとんど現場に無知な人たちである、地方自治体という組織の仕組みが理解できていないのではないかとも思った。そのことを冷静に論証しなければならないと、そのころ考えた。

 本書のあとがきに書いたように、本書と『公共経営論』、『市民参加の行政学』とは関心の方向が、互いに絡み合いながら1つである。その方向についていえば、経済合理性で地方自治体を議論するのは、的外れであるし、それを実現できるなどとは考えるべきではない。公私の組織は、第三セクターを挟みながらもまったく相違する組織である。このことは『行政サービスの組織と管理』という本に書いた。1990年に出版された。NPMの必読文献であるフッドの論文が91年の刊行であるから、論点の多少の行き違いはあるかもしれないが、先駆的に批判していたことになるのではないか。

 なぜ相違するか。その組織の外延には地域社会という大きな広がりがある。広がりはあるけれども、互いの顔と顔を見知った世界である。企業のように生産者と消費者が見えないようなところではない。顔が見えるだけに、ウイン-ウインの関係が素直に成り立たない。市民一般と地方公務員は、深い底のところでは軸が同調しない、あるいは噛み合わない両輪といってもよい。しかし、どちらかが一方的に利を得ても、屋台のところがぐらついてしまう。それでは地域を支えるデモクラシーは後退してしまう。両立させなければならないが、両立できるかどうかは不明である。それでも両立させなければならない。両立が難しいものを両立させなければならないことの含意は、地方自治体は、経済的というよりも政治的であるということである。組織として合理性があるかどうか(真正のビュロクラシーであるか)も分からない。しかし、合理性があるように装うべきである。とはいいながら、装うことができるかどうか分からない。分からないが、できなければならない。その担い手は地方公務員である。

 その地域が政治的に合理的であるためには(という表現自体は奇妙であるが)、NPOを含めた市民の自己主張と、それに対する自治体職員の現実的な対応が必要である。私は個人的な立場としては、NPOをそれほど評価はしていない。組織論的にいえば、かなりいい加減な組織である(組織論を離れていえば、そのいい加減さがよいところである)。しかし、そのいい加減な組織が乱立して、互いに強烈な自己主張をはじめること自体が、ということは、合意など結果はどうでもよい、とりあえず市民が衆をなして自己主張することが重要であると考える。

 それに対して、地方公務員は、その主張を代弁しながら、聞き流しながら、押さえ込みながら、さらに組み替えながら、施策を立案し実行、成果を評価するのである(いわゆるマネジメント・サイクルの稼働)。しかし、誤解を招きかねないが、評価などどうでもよい、とはいえないが、いくらでも言い訳ができる。可視的な成果は得にくいことが多い、のであれば、言い訳の達人になればよい。さらに誤解されそうであるが、首長などヒエラルキーの意向など、面従腹背、あるいは馬耳東風でもよい。どうせといえば、よろしくない言い方ではあろうが、いつかは辞めていく人たちである。本心から従うのかどうかは、場合による。その場合による判断が、ストリートに近づくほどむしろ重要である。

 あるところまでは(その時期については、戦後と考えてもよいし、もしかすると公害に向けて住民運動の高揚したころ、制度的に分権化が図られたころ、2つの震災をきっかけに市民参加がこの社会に定着しようとしている今を、画期と考えてもよい。考え方はいくらでもある)、デモクラシーも地方自治も中途半端であったし、特異な人たちのNPO的な活動はあったかもしれないが、それもあるところまでであった。今では大手を振ってだれもが勝手な主張ができる。勝手であれば、勝手に淘汰もされる。その淘汰に地方公務員は積極的に関与できる。問題があると考えれば、手抜きで対応すればよいのである。当然それに対する市民のクレームはある。市民の勝手と職員の、もしかするとそれが角を突き合わせる、その繰り返しである。その繰り返しに耐えるところに地方自治の下地があり、デモクラシーの強靭なところもそこにある。とはいいながら、ポピュリストの餌食になりやすいし、権威主義に安住しやすいところがある。けれども、それが長続きしないところに、デモクラシーの強さがあると考えたい。それに真っ向からストリート・レベルの職員は関わることができるのではないか。向き合って地域社会のデモクラシーを支えるのは地方公務員である。彼らが手抜きをすれば、小事に歪みは生じるかもしれないが、その枠組みを支えるという大事のために、彼らが果たす役割は非常に大きい。大事に備えての多少の手抜きなどは構わないと、私は考える。


 昔、ある編集者から、教科書しか書けないのではないかと皮肉を言われて、怒り心頭に発した(というよりも、内心かなり動揺した)ことがある。いくらか経って冷静に考えれば、文献をできるだけ多く読んで(関係者にできるだけ多く会うことも含めて)、その共通項を探しながら無難なところに鉾を収めているので、教科書的になるのは仕方がない。本書も教科書であって、オリジナリティはない。あるとすれば、地方公務員には3つの貌があるという指摘であるが、これも金井利之氏の三種混合型住民の向こうを張っただけのことで、オリジナリティとはいえない。地方公務員は、このような人たちであるとの一般的なモデルを提示しただけである。そのことを逆手にとれば、オリジナリティを伴う理論とは、教科書的な論説に異を唱えることから始まる。とすれば、本書がその機会になればよいのではないか……。

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