書評
『生活保障のガバナンス
――ジェンダーとお金の流れで読み解く』
横浜国立大学大学院国際社会科学研究院准教授 相馬直子〔Soma Naoko〕
本書を読み終わると、(1)日本の「生活保障システム」が、いかに「治まっていない」状態で、いきづまっているか、(2)「治める」主体であるはずの政府(主に自民党政権)が、国民の「ニーズ」を誤認・無視し、逆効果な「治める」活動を、いかに積み重ねてきたか、(3)他の「治める」主体である、非営利セクターの役割や「労働組合」「社会運動」の役割が、日本ではいかに小さいか、国際比較をもとに、その事実が目の前につきつけられる。
1 生活保障の「いきづまり」/「バッド・ガバナンス」
日本の年金や社会保障の「いきづまり(impasse)」。少子化・高齢化が進行し、国の借金が膨らむ中で、社会保障制度のいきづまり、さらには、日本経済のいきづまり感や格差拡大の感覚は、いまの日本社会に浸透している。
いったい、いつから、なぜ、どのようにして、日本の「生活保障」をめぐる社会のシステムが、いきづまってきたのか? そして、どのようにしたら、この「いきづまり」を解決することができるのか? 本書が格闘しているのも、まさにこうした疑問である。
では、著者は、これらの疑問に、どうアプローチして、どう答えようとしているか。
第1に、この「いきづまり」を、年金や社会保障という制度にとどまらず、より大きな「生活保障システム」という、システムの「いきづまり」として著者は描いている。特に、所得格差や、所得の偏り、つまり、お金の回りの悪さ、ないし偏ったお金の流れの問題として、地域格差も含めて、著者は「いきづまり」を描いている。
第2に、この「いきづまり」を、定点ではなく、「ガバナンス」というプロセスの中で考え、「悪いガバナンス(バッド・ガバナンス)」を描いている。
第3に、この「悪いガバナンス」「いきづまり」の背景には、ジェンダー、すなわち性別の分業や役割期待が強く関連していることを、「国際比較ジェンダー分析」を通じて、著者は指摘する。
2 プロセスとしての「ガバナンス」
本書で理論的に新しいのは、ベビア(Bevir)の概念定義を援用しながら、独自の「ガバナンス」概念を導入している点である。本書では、「生活保障」には、官民の多様なアクターが、ミクロ、ローカル、ナショナル、超国家などの多重のレベルで相互作用しながら関与すると捉えており、このプロセスを「ガバナンス」と呼んでいる。明確な目標をもたない種々の相互作用とあわせて、それらの効果の総体を「ガバナンス」と捉えているのである。一方、社会保障制度をはじめとして、貧困削減や格差の緩和といった目標が設定されて運営されている諸政策といった、目標合理的な営為を「ガバニング」と定義する。この「ガバニング」の主体としては、中央・地方政府だけではなく、企業や労組、非営利組織といった民間のアクターや、超国家機関も念頭に置かれている。
本書図2‐1「生活保障のガバナンス」の体系図(71頁)は、1996年の著作をもとに改定されているが、これは著者が「開発とジェンダー」「政策評価」の研究を通じて、「社会政策過程の総モデル化」として発表したモデルを下敷きに、20年来の枠組みを発展させたものであることがわかる。
この図は、プロセスであるため、循環図としても読める。また、図右上の「多様なニーズ(認知・表出に第三者が関与)」「横断するジェンダー課題(実際的・戦略的)」のところが、「スタートライン」のようであるとも読める。この点は、2001年当初の著者の説明を重ねて読むと、「開発とジェンダー」研究も重なった、著者の実践的問題意識と理論枠組みを、より深く理解できる。すなわち、ここの概念規定は、キャロライン・モーザの「実際的、戦略的ジェンダー・ニーズ」の区別を援用して、「実際的ジェンダー課題」「戦略的ジェンダー課題」を指す。前者は、社会における性別役割や責任を果たすために必要な「ニーズ」を意味する。それに対し、後者は、ジェンダー不平等な関係性を変革するための「ニーズ」であり、平等な権利、賃金や政治面のジェンダー平等の是正を意味する。ジェンダー不平等の変革のためには、「戦略的ニーズ」の設定が、とても大切であることがわかる。
また、図右下の「ガバナンス」のボックスは、見た目には小さいものの、そこで考慮に入れられている「効果」は、このプロセス全体に関わると想定される。すなわち、決定や資源コントロール、インプットなどの各段階で、当事者や、第三者や、それ以外の外部におよぶ正負の効果も含む。当事者の視点からは、ニーズの認知段階で当事者の自己承認とエンパワーメントが起こるといった効果もある(73頁)。
3 「生活」を「保障」する
著者は、「生活保障システム」を展開するにあたり、そもそも、「生活が成り立つとはどういうことか」という点から議論をはじめる。生活が成り立つとは、暮らしのニーズが持続的に充足されることであり、生きていくためには、少なくとも、食料・衣料・住居をはじめとする財や、幼児期や病気や介護の時にはケアされるといったサービスを必要とする(=ニーズがある)。著者は、生活に必要な財やサービスが作り出される側面からニーズをまず捉えており、いわば、ニーズを、財やサービスといった対応手段から把握している。
この財やサービスが作り出される活動が、「労働」であり、これを利用するにはお金の流れが伴う。現代社会は、市場経済が一般化しており、まず、生活が成り立つためには、お金を得ることが必要である。また、子育てや介護といったケアや、地域のボランタリな活動は、無償であっても、財やサービスを作り出している点では、有償労働と同じである。
では、人びとが利用する財やサービスは、どう生産されるか。著者は、もっとも本源的な生産要素である労働力を商品として購入するかどうか(雇用労働かどうか)、そして生産のアウトプットである財・サービスを商品化しているか否かで、財・サービスの生産関係を4つに区分する(52頁の表2‐1)。以下表2‐1は、本書の表2‐1を下敷きに、著者が論じる「生産関係内・生産関係外のお金の流れ」を入れ込んだものである。すなわち、①商品労働力による商品の生産(営利企業等)、②商品労働力による非商品の生産(公務員やNGO等)、③非商品の労働力による、商品の生産(自営業、ワーカーズコレクティブ等)、④非商品の労働力による、非商品の生産(家事労働、ボランティア活動)である。
この表2‐1をもとに、次の4点の分析がなされる。
第1に、各生産関係内の労働条件や産出される財・サービスの質的特徴である。①のなかで、民間企業の雇用処遇が、男性中心の年功制(日本)か、職務や業績に対応するのか(欧米)。②のなかで、政府の歳入が、累進的か、逆進的か。社会保障給付はどのニーズに対応し、貧困や不平等を削減しているか。育児や介護のサービスは、家族の無償労働(④)と公的制度(②)の有償労働とのあいだでいかに分担されているのか。
第2に、複数の生産関係のあいだの量的な関連である。この点は、主流の経済学が「生産」を①を基軸に議論してきたことへの批判となっている。
第3に、複数の生産関係のあいだの質的関連である。①の男性中心の年功制は、④の世帯内の無償労働の性別役割分担と表裏の関係である。また、②のうち政府の財政支出面で公共事業の比重が大きく、農業・自営商工業を保護規制するなら、②や③のあり方に影響している。
第4に、4つの生産関係すべてにまたがる非営利協同の量的・質的なあり方である。生活の協同部分、サードセクターの叙述が本書ではやや少ないのかもしれないが、この点については、子育て・介護・障がいといった各論や地域の取り組みも含めて、著者の2007年の編著『生活の協同――排除を超えてともに生きる社会へ』(日本評論社)を重ねて読むと、このマトリクスの③について、事例も含めて理解できる。
またこの表を、分配・再分配で捉えなおしてみると、①と③が企業や自営による雇用・労働分配であり、②は政府による分配(再分配)となる。④は家庭内や地域における再分配といえる。著者が「分配の劣化と、再分配の逆機能が、OECD諸国の中で日本は最悪」(社会政策学会書評分科会)と説明することをふまえると、①と③の雇用劣化による分配の劣化、②の政府による再分配の逆機能、④の家庭や地域の再分配機能の縮小が起こり、「生活保障システム」の「いきづまり」が徐々に進行してきたことが、第4章以降の実証的部分で丁寧に記述される。
この生産関係、いいかえれば、「経済社会」(55頁)は、一国で閉じているものではなく、グローバル化の中でつながっている。国家間の貿易により、ある国の貿易赤字と、別の国の貿易黒字がつながっている。また、現代は、為替や金利のわずかな差や動きをめがけて多額のお金が地球規模で動いている。2012年の円安転換、その金融緩和策は、「生活保障システム」へ、どのように影響するのかとも思いをはせた。
なお、ここで著者が特徴的なのは、「生産と、労働力再生産(家事や育児等)」の二分法を使わない点である。生産された労働力が商品化されれば(賃金労働)、育児や家事の労働が「商品(である労働力)」を生産するという見方もできるが、世帯内の家事や育児で、そのサービスを受けた人が労働市場に登場するかしないかで、サービスが著しく異なるわけではないからである。家事や育児の労働は、商品労働力を生産しているというより、財やサービスを生産していると考える点が、特徴的である。
こうした著者のとらえ方を見ると、例えば、「生産レジーム/再生産レジーム」論(武川正吾〈2007〉『連帯と承認――グローバル化と個人化のなかの福祉国家』東京大学出版会)といった二分法にも懐疑的なスタンスが読み取れる。
著者の「ニーズ」のとらえ方であるが、いわば、ニーズの「オモテとウラ」(岩田正美)の両面に目配りがきいている。アマルティア・センの議論を下敷きに、人として生活が成り立ち社会に参加できるという「潜在能力」を考え、その潜在能力の欠損を「ニーズ(必要)」と定義する。そして、ニーズが充足されない状況を「社会的排除」と定義する。ただし、このニーズは社会的に構築され、本人によってニーズが認知され表出されるとは限らない。また、個人によって多様に経験され、別のニーズを呼び起こす面もある。ニーズの認知と充足は、具体的でローカルなレベルの社会的過程であり、当人の社会参加と第三者の関与という「協同」の契機を本質的に含んでいる。
4 本書の位置
本書は、各方面で高く評価され、「著者の仕事の集大成」(ふぇみん)、「現代日本の生活保障システムのガバナンスの実体を実証的かつ構造的に把握」(第6回「昭和女子大学女性文化研究賞」選考報告)といった評価をされている。第129回日本社会政策学会書評分科会でも本書が取り上げられたが、その際、「集大成」との書評コメントに対して、著者は、「スタートラインである」とリプライされていた。
いかなる意味で、「スタートライン」なのだろうか。著者の初期の研究をたどってみると、社会保険の「平等主義型」「業績主義型」等の類型化との関連で、ベヴァリッジ・プランの特徴を分析した研究(1983年)や、イギリス救貧法史や労働党の社会政策論史とベヴァリッジ・プランとの継承・断絶関係を探る研究(1985年、1986年)も挙げられよう。
さらにさかのぼり、1979年に著者が発表した論文は、「自由主義的」社会福祉の理念に関する基礎研究であった。具体的には、イギリスにおける1834年の救貧法改正を直接導いた「1834年報告」における、救貧法制度そのものの擁護の「論理」、および諸勧告に基づく「良く管理された救貧法制度」が「国にとって多大の利益を生むであろう」との主張の「論理」を検討している。さらに、同報告の「理念」が、実際に1834年法の中に、どのように、またどの程度に具体化されたかが検討されている。本論文が収められたのは、岡田与好編『十九世紀の諸改革』(木鐸社)であるが、ここで、2014年に亡くなられた、編者の岡田与好が序論で次のように言っている。
「(略)何よりも事実の解明に、しかもそのさい、実現した結果よりも、実現しようとしたもの、それとの関係で、何が実現され何が実現されなかったか、それは何故かを、できるだけ事実に忠実に追跡することに、大きな努力が払われている。たとえば、立法の文言を、そのまま客観的事実と誤認したり、あるいは、イデオロギーと現実の政策とを混同するような仕方は厳しく慎まれている。特定の価値判断を事実のなかに無自覚的に持ちこみ、その事実によってそれを正当化するような、いわば歴史学派経済学=社会政策学派的方法から自由であることが、本書の重要な特徴である」(岡田 1979: 11‐12。下線は筆者)。
それから35年。救貧制度や公的扶助という貧困問題への着眼、事実にもとづいて圧倒的なデータで議論しようとする姿勢、政策論理へのこだわりは、研究者としての「スタートライン」からのものだと改めて気づかされる。また、1990年代の一連の仕事、すなわち、日本をジェンダーの視点から問い直す「企業中心社会」論(1993年)、福祉国家比較のジェンダー化、比較ジェンダー分析でも、この姿勢や着眼が貫かれて、本書に結実しているのではないだろうか。
5 おわりに
著者は、2014年1月に本書を出版した後、本書のデータをもとに、「包摂的社会政策」の必要性について、社会的な発信を続けている。
例えば、2014年9月8日「提言 いまこそ『包摂する社会』の基盤づくりを」(日本学術会議 社会学委員会・経済学委員会合同 包摂的社会政策に関する多角的検討分科会)の策定に関わり、そこにおいては、(1)社会的包摂を社会政策の基礎理念として位置づけること、(2)貧困や社会的排除に関する公的統計の整備、(3)政府の再分配機能の改善、(4)包摂的な政策のグランドデザインをする常設機関の設置、(5)労働法におけるコンプライアンスの徹底、といった点を政府に提言している。
また、2014年9月12日、日本記者クラブの会見においては、多くのデータを用い、いかに日本では自民党政権下で格差が拡大し、貧困問題が無視されてきたか、政府の再分配政策が逆機能し、格差や貧困を拡大し、「やらず、ぼったくり」になっていると痛烈に批判している。
他の勉強会においても、2014年骨太の方針では社会保障の機能強化の方向性はあまり見られず、子どもの貧困対策大綱にも期待できず、アベノミクスによる「成果」は、低所得層・ひとり親などへの「虐待」に等しいと、現政権を痛烈に批判している。
労働運動や女性運動に関する記述がほとんど本書に出てこないことに対する質問に対して、筆者は、民主党政権交代時の女性運動・市民運動・労働組合の影響力に言及しつつ、「日本では韓国のように女性運動が力を持っていないため」(社会政策学会書評分科会)とリプライされていた 。しかし、本書をもとに著者は、様々な団体、学会、研究会、記者クラブ等で公共的な熟議を重ね、市民運動の担い手をはじめとする、様々な「当事者」を、エンパワメントし続け、多様なニーズの認知・表出やその政策化に貢献し続けている。