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書斎の窓

自著を語る

『企業会計入門 ―― 考えて学ぶ』
の刊行に寄せて

東京大学名誉教授・明治学院大学名誉教授 斎藤静樹〔Saito Shizuki〕

斎藤静樹/著
四六判,278頁,
本体1,800円+税

 教職を離れた頃に、はじめての入門書を書くことになった。だいぶ前に講義用の教科書として刊行した2冊の単著(『企業会計――利益の測定と開示』および『企業会計とディスクロージャー』、いずれも東京大学出版会)は、初学者には難しいというお叱りもいただいていた。その後、職場が変わって教科書を書いた頃とは講義のスタイルを変えねばならなくなったが、教えるべきことに基本的な違いがあるはずもなく、会計情報の理解に必要な最小限の範囲で会計基準がどうなっているかという事実と、なぜそうなっているかという理屈とを、少しはわかりやすく伝える試みを繰り返してきた。2度目の定年を機に、それをまとめようと思い立った次第である。

 会計の入門書というと、簿記のテキストや国際会計基準(IFRS)の解説書ばかりが並ぶ本屋の書棚を連想して、またかと思う人が多いのだろうか。たしかにその光景は、日本の会計教育の一面を凝縮していよう。加えて最近は欧米でも高度な実務教育が強調され、海外の友人たちからは、educa-tionが本務のはずの大学にtrainingの役目が押しつけられて会計の教員に対する需要が増える反面、会計研究を志す院生は来なくなってそれに応えることもできないというメールが来る。研究と教育の安直な分化を懸念する人たち(私もその1人だが)からは、そうした流れに乗ったものとみられて、本来の大学教育はどこへという疑念に結びつきやすいのだろう。

 しかし簿記は、企業の取引や事象を勘定科目と測定値がセットになったデータに変換し、それらを決められた情報(たとえば資本や利益)に統合する計算の手続きにすぎず、仕訳の作業で割り当てられる勘定も測定値も、すべてその外側から与えられるものでしかない。大学の授業でも、多くは資産・負債の認識や評価と利益の測定など、会計の理屈を簿記の形式にあてはめて教えているのではないのか。事実上はそれが会計入門の役割を果たしており、続いて「書かれた」会計基準を取り上げるのも、その理屈をより具体的に学ばせる基礎教育の一環とみるべきだろう。それが日本基準でも国際基準でも、そこで実務教育をやっているようには思えない。

 よく知られているように、ゲーテは『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のなかで、複式簿記を「人類の精神が産んだ最高の発明のひとつ」としながらも、それはあくまでも計算の形式であって、肝心かなめな人生の総計額を大局的にとらえるものではないという台詞を主人公に語らせていた。形式も要点(実質)も結局はひとつだという反論も続くのだが、問題は形式が実質を変えるのかどうかだろう。その点でいえば簿記には、貨幣額のような加法性のある共通の尺度で取引を数値化し、貸借(正負)を均衡させる複式記入と加減算とで必要な情報に統合するという制約しかない。企業取引の実質はもとより、会計上の認識についても、範囲はともかく内容を形式が変えるわけではない。

 要するに複式簿記は、実質的には無内容に近いからこそ高い汎用性を誇れるのだ。それを組み立てている言語の仕組みは見た目に反して意外に奥深いのかもしれないが、計算機言語の理論などわからなくてもパソコンを使えるように、複式簿記が生み出す情報を利用するのに知らねばならないことはそれほど多くない。上述の貸借バランスのほか、その仕組みに従ったデータの処理がもたらす勘定間の有機的な関係ぐらいだろうか。企業資金の調達と運用およびその成果を統一的な観点からとらえるものだが、それだけで1年を費やす講義を想像するのは難しい。実際、アメリカのビジネス・スクールで簿記だけを教えるクラスというのを私はあまりみたことがない。

 まだ新米の助教授だった大昔、尊敬する経済学の大先生から、お昼の後の談話室でこう話しかけられたことがある。ビジネス・スクールに留学して帰ってきたゼミの卒業生たちが会計はおもしろかったというのに、日本では(東大経済学部では)あまりおもしろいとみられていない。どうしてだと思いますか……と。詳しいやり取りは忘れたが、最後は知的にも社会的にもある程度のmaturityが必要な分野だから、学部生に興味をもたせるのは難しいのでしょうね、という先生の言葉で解放されたのを覚えている。はじめて会計を学ぶMBAの学生がケースを教材に討論する授業を真似るのは無理でも、そのレベルにまで橋渡しできる入門書をいつか書きたいと思うきっかけでもあった。

 こう書くと、maturityの不要な簿記は知らなくてよいのかと、毎度うんざりするようなことをいわれるかもしれないが、会計情報にとって複式簿記が共通言語になっている事実は誰にも否定できない。その仕組みの根幹は理解し、それが生み出され、株式会社の出現や証券市場の形成といった大きな節目でもほぼそのまま承継された歴史を勉強することは、現代の企業会計制度――それは、投資家への情報開示という新たな目的に合わせて、白地に絵を描くように創られたものではない――の理解にとって不可欠である。そもそも実学とは、知的生産の実用的な意義(レリバンス)が問われる(そのウェイトが高い)ということであって、実務を解説するのが任務だということではない。

 ただ、そうはいっても、パズルのように勘定間で帳尻を合わせる仕訳の反復が、会計の概念や手法を現実の事例に適用したり、批判的に検討したりする能力をどこまで養えるかは疑問である。辻褄を合わせるのに夢中になっていると、そこで仕訳けられるさまざまな企業取引の性質や企業成果に及ぼす影響を確かめ、それに照らして会計処理を選択し結果を検討する姿勢は育ちにくい。取引のeconomics(経済的実質)が同じならaccountingも同じでなければというのは会計人の決まり文句だが、肝心の実質を理解して会計のルールを評価するには、経済学やファイナンスなど周辺分野の助けも借りた、もっと視野の広い基礎教育が必要である。会計研究への関心もそこから生まれてくる。

 そうした基礎教育がなければ、日本基準でも国際基準でも、現実の会計基準はただ単に暗記するだけのテキストにしかならないだろう。資格試験の受験生でもなければ、関心を寄せるわけがない。むしろそれが育むのは、所与の会計ルールでとらえた結果しか事実は存在しないと思い込み、ルールそのものを深く考えずに簿記で止まってしまう傾向である。ひところ、「潰さないでもいい会社を会計基準が潰した」といわれたことがあるが、会計が事実を映す鏡だと思っていられれば、それ以上は考える必要もないのだろう。会計基準がただ1つの事実を測る物差しなら、それもまた世界にただ1つでなければという会計人に多い論調も、突きつめれば根は同じかもしれない。

 誤解のないように付言しておくが、投資家の資金がクロス・ボーダーで自由に移動する国際化の時代、各国の会計基準は当然に近づけていかなければならない。しかし、たとえ会計基準を統一しても、それを適用する実務は、国ごとの周辺制度から与えられる誘因に影響されて同じになる保証はない。これらの制度が会計基準の都合に合わせて変わらない限り、物差しの統一で情報が等質化されるなどと軽々しくはいえないのだ。一国の基準は多くが自然に一元化されても、国際統合には国際的なモデル基準と各国基準との持続的な相互のフィードバックが求められる。単一基準に収束するかどうかはその結果次第であり、収束してもそれに基づく情報が事実を表す唯一のものとは決まらない。

 たしかに会計は企業の事実を映し出すが、いわれるような単なる鏡とか物差しではなく、それ自体が企業の事実を作り出す人々の経済行為である。その情報は一定の目的に沿って事実の一面をとらえたものであり、ある意味では虚構(虚偽ということでない)の産物とみたほうがよい。その虚構としての意味を正しく理解し、事実の経済的な実質に照らして会計ルールの合理性(ときには不合理性)を確かめ、そこから会計の概念や理屈を学ぶことが重要である。経済や経営、あるいは法律などを学ぶ学生や、ビジネスに関わる社会人にとっても、それが有価証券報告書で開示される企業の財務情報を読みこなし、自己の利用目的に役立てる能力の最大の源泉になるはずである。

 この十数年、会計基準の国際化をめぐる試行錯誤は、よい面も悪い面も含めて、会計のテキストに全面的な書き換えを強いるほどの大きな変化をもたらしている。実務書ならば国際基準の解説や啓蒙で間に合っても、これから基本を学ぶには、国際基準に限らずどの基準も同じ平面で批判的に検討し直すことが必要である。そのためのより普遍的な概念の体系を組み立てて、わかりやすく伝えるのが大学人の役割だろう。もちろん、この体系は基準設定の指針として文書化された概念書の話ではない。それよりもさらに普遍的な枠組みに基づいて各国の概念書や基準書を理解する姿勢が、基礎教育のテキストにはなければならないと思うのである。

 入門書を語るのにこんな無粋な話をしていると、小難しい本ではないかと疑われそうだが、文字どおり初級の書物である。それでも「なぜ」の説明にウェイトをおいて、次のステップへの橋渡しを心がけた。複式簿記の解説はごく簡単に済ませる一方で、会計基準については日本基準や国際基準、あるいは米国基準のいずれかに絞らず、できるだけ一般化して説明し、問題点にも最小限の検討を加えた。関心の高い国際基準にはやや詳しくふれたが、網羅的には取り上げていない。ローカル(L)型の大学は職業訓練だけやればよいという意見もあるが、そのレベルの大学が多いにしても、それだけで本当にいいのかなと思いながら、これで分からなければそれも仕方ないか……という程度までやさしく書いたつもりである。

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