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書斎の窓

自著を語る

『生物多様性保全の経済学』

コウノトリ博士が運んでくれたもの

慶應義塾大学経済学部教授 大沼あゆみ〔Onuma Ayumi〕

大沼あゆみ/著
四六判,390頁,
本体2,500円+税

 昨年12月に『生物多様性保全の経済学』を出版した。その内容には、人との偶然の出会いがきっかけになったものも多い。本稿は、その中の、第8章に収めた兵庫県豊岡市のコウノトリの野生復帰をめぐるものである。

 

「コウノトリも経済が必要でね」

 2007年の初夏、初めて会った池田啓さんはこう私に話しかけた。

 池田さんと初めて会ったのは、その頃長野大学にいた佐藤哲さん(現総合地球環境学研究所)が中心になり、分野を超えてコミュニティによる自然保全に関心のある研究者と作っていた研究会であった。

 この研究会は、参加者が手弁当で集まる研究会であったが、毎回、参加者が持ち回りで行う刺激的な報告に惹かれて、若手からシニアまでの研究者が参集していた。

 池田さんは、九州大学で生態学の博士号を取得したあと(博士論文はタヌキの研究だったという)、長らく文化庁に勤めていたが、1999年に、請われて兵庫県立大学の教授に転じた。兵庫県豊岡市にある県立コウノトリの郷公園の研究所で、コウノトリ放鳥戦略を牽引していた。

 かつては日本に多く生息していたコウノトリは、1971年に日本では絶滅した。しかし、豊岡市は、コウノトリの人工飼育に取り組んでいた。長い苦闘の末に、1989年には当時のソ連から譲り受けたつがいをもとに、繁殖に成功し、そして2005年には、飼育しているコウノトリの野生復帰を果たしていた。この野生復帰の原動力となったのが、池田さんであった。

 とはいえ、上述の研究会でお会いしたときには、豊岡市でコウノトリ放鳥が成功したことをどこかで聞いたことがあっただけで、こうした背景も状況もわからなかった。

池田啓博士(提供 菊地直樹氏)

 研究会のあとの懇親会で、池田さんは、ビールを飲みながら、コウノトリの野生復帰が順調に拡大しているが、税金を投入しているので、そろそろ、経済にもどんな効果を持っているのかを知りたいと思っている、と説明してくれたのだ。

 そのときの私には、コウノトリと経済という組み合わせの唐突感が大きく、あまり気の利いた言葉を返せなかったのではないかと思う。池田さんからは、「1度、豊岡にいらっしゃい」というお誘いをいただいた。

 記憶では、池田さんが、この研究会に参加したのは、このとき1回限りである。

 

 その後、「コウノトリと経済」はすっかり忘れていたが、半年ほど過ぎて豊岡市のコウノトリ野生復帰の成功についての記事を、たまたま目にした。野生復帰の成功には、農家が、コウノトリ育む農法と名付けられた農法を採用する必要がある。これは、水田を、コウノトリの餌となる生物が生息する昔ながらのものにする農法であるが、除草剤を使わないなど著しく手間がかかる。ところが豊岡市では、この農法を採用している農家が増えていて、それが野生に生息するコウノトリを支えるものになっていた。

 関心を持って、コウノトリの野生復帰についてインターネットで調べて読んでみた。

 すると、だんだんと不思議な気持ちがしてきた。そうした記事が描き出している世界が、農家や人々がコウノトリとの共生を作り上げようとして、人と人が自然を囲んで手を取り合っている、ほのぼのと温かいもののように感じられたからである。

 本当にそんな世界があるのだろうか、と腑に落ちなかった。農家がコウノトリ育む農法をとった背景には、もっと何か経済的な動機付けがあるのではないだろうか、という疑問がわいた。実際、コウノトリ育む農法をとった田んぼで生産されたコメに高い価格がついているということも知った。

 コウノトリの野生復帰を支える農家の変化の要因はほんとうは何なのだろうか? そう思うとぜひ自分の目で見てみたいと思うようになり、池田さんに連絡をとってみた。そして、2008年の2月に、初めて豊岡を訪問することになった。

 

 その日の豊岡市は、薄墨色の冬空から雪が舞っていた。池田さんは、滞在した2日間にわたって、効果的に多くのポイントを案内したり人を紹介してくれた。最初に、研究所と、そこに隣接するコウノトリ飼育場に始まって、野生のコウノトリの人工巣塔がある田んぼなどに連れて行ってもらった。

 巣塔のある場所には、池田さんの研究所で雇用している観察者や新聞記者などがすでに来ていて、視線を巣に注いでいた。コウノトリの一挙一動への注目の高さに驚くばかりである。最初は、神妙にこうした様子を眺めていた私も、冬空に羽を広げるコウノトリに、次第に魅了され始めた。

巣塔のコウノトリのつがい(筆者撮影)

 初日の夜、コウノトリ育む農法のパイオニアであるTさんを、お酒を囲んで紹介してもらった。Tさんは、大手の機械メーカーに勤めていたが、豊岡市にUターンして農業を継いでいた。

「コウノトリ育む農法を採用した動機は何だったのですか?」

Tさんに、関心のあった質問をしてみた。

「豊岡に帰ってきて農業を始めてみると、以前と全く変わらないコメ作りをしていていいのかという疑問が湧いてきた」

その理由には、Tさんが経験してきたビジネス感覚があった。

「コメの価格は長期的に低落していて、回復が期待できなかった。何かないかと探していたときに、現れたのがコウノトリ育む農法だった」

しかし、当初は暗中模索だったという。

「コウノトリをやっても、将来どうなるかまったくわからなかった。しかし、これしかないと思って、まあ、賭けてみた」

 こうやって採用したコウノトリ育む農法だったが、幸い、十分な報酬が生まれるようになってくれた、と喜んでいた。コウノトリの野生復帰を何とかして実現させたい、ということではなかったのだ。Tさんの話は、具体的で、根拠に基づいていて説得力があり、企業の営業の人と話をするようだった。

 池田さんはといえば、お酒を飲みながら、隣でニコニコと話を聞いていた。翌日がバレンタインデーだったので、東京にいるお嬢さんからもらうチョコレートを楽しみにしていた。

 会った人も町ゆく人も、皆、自身のことに忙しそうであり、当然のことではあるが、日本中のどこにでもある町の人たちだった。来る前に私が豊岡の人たちに抱いたイメージとは、はっきりと違っていた。

田んぼを歩くコウノトリ(提供 豊岡市役所)

 豊岡市役所には、コウノトリの野生復帰を市でサポートする、コウノトリ共生課という部署が生まれていた。池田さんに紹介してもらったWさんは、当時この課に所属していて、大活躍をしていた。コウノトリが野生で生息するようになって、こんな効果、あんな効果も生まれたと、いろいろ話をしてくれた。とても興味深いものばかりである。しかし、どの程度の経済効果が生まれているのか見当がつかないという。この点を是非把握して施策に活かしたいので、算出する計画であれば協力したいと言ってくれた。コウノトリの魅力を感じ始めていたこともあり、私にもその意義と熱意が伝わってきた。

 東京に帰ると、大学院生の山本雅資君(現富山大学)に手伝ってもらい、経済効果を算出するための準備を始めた。ところが、経済効果の算出に必要な産業連関表が兵庫県のものしかなく、豊岡市のものが作られていないことがわかった。産業連関表を備えている自治体は、市レベルでは少ないのだ。

 しかし、後日、Wさんが東京出張の折に研究室に来て、豊岡市で産業連関表を作成中であることを教えてくれた。とても幸運なことだった。

 

 夏に豊岡市を再度訪れることになった。この訪問では、ゼミの学生たちを連れて行った。Wさんが、詳細な日程を作ってくれて、コウノトリの郷公園はもちろん、農協、地元の信金や環境企業なども訪問することが出来た。その合間に、コウノトリの経済効果を算出するための打ち合わせを何度か行い、経済効果を計るためにコウノトリの郷公園で観光客にアンケートをとることになった。

 ゼミ生は、城崎温泉の旅館にも泊まって、皆大喜びである。ささやかながらコウノトリの経済効果に貢献したことだろう。

 しかし、この滞在中、池田さんに会うことはできなかった。池田さんは、学生たちが訪問するというと喜んでくれて、講義もしてもらえる予定だった。だが、直前に、体調を崩し加療のため入院するのでキャンセルさせてほしい、という連絡を受けていたのだ。そして、池田さんに会うことは、もうなかった。

 

 観光客へのアンケートの実施には、Wさんや信金の職員の方など地元の若い人たちが、休日を返上し、ボランティアで協力してくれた。皆、何とかして地域を活性化したいという情熱を持っていた。2回にわたって集めたその総数は、1300を超えた(幻想だと思っていた、人と人が手を取り合う世界がやはり存在したと思った)。

 一方、当初から関心を持っていた、コウノトリ育む農法をとる農家の経済的背景についても、ゼミ生にプレゼンをしてくれた農家のNさん(彼も脱サラ組である)が、この農法の費用などの計算を、豊岡農業改良普及センターで行っていることを教えてくれた。それを使わせてもらえば分析が可能だ。 そして、やがて豊岡市の産業連関表も完成したとの報が入った。

 あとはこちらの番である。山本君と、集中して論文を完成させた。公刊したのは2009年の秋であった。

 論文は、2つの部分に分けられた。1つは、農法についてである。減農薬農法と無農薬農法があるコウノトリ育む農法と、従来の慣行農法の3つを比較すると、減農薬農法が、最も経済的に有利なものであることがわかった。そして、実際にコウノトリ育む農法をとる農地面積をみてみると、8割以上を占めていたのが、この減農薬農法だったのである。

 もちろん、コウノトリ育む農法が広がった背景には、行政側の地道で大きな努力もあったが、経済的合理性と関連づけることができたときは、思わず拳を握りしめた。

 そして、論文のもう1つの部分が、経済効果である。コウノトリ目的の観光客の支出金額をもとに、少なく見積もって、年間10億円の経済効果が生まれていることがわかった。(その頃、野生で生息するコウノトリは三十羽ほどだったので、1羽あたり三千万円を超える経済効果を生み出していたことになる)。

 コウノトリの野生復帰は、農家というミクロの面でも、地域経済というマクロの面でも、経済的に利益を生むものだったのである。

 その1年後、国連生物多様性条約締約国会議が名古屋市で開催されたのを契機にして、豊岡市のコウノトリの野生復帰は、成功例として世界的に知られるようになった。そして、論文で示した経済効果も、繰り返し言及されることになり、予想もつかなかった大きな反響があった。また、公刊した論文を通じて、さまざまな人と出会うことになる。こうした出会いは、今でも続いている。

 

 この国連会議の半年ほど前、論文が出てしばらくして池田さんは亡くなった。できあがった論文はお礼とともにお送りしていたが、返事はなかった。池田さんは、入院してから、もう研究所に復帰することはなかったのだ。自身が尽くしてきたコウノトリ野生復帰が、一気に国際的に脚光を浴びることも知ることはなかった。

 考えてみれば、池田さんと会ったのはわずか2回だけである。池田さんにとっては、私は、その人生を一瞬だけ通りすぎた1人の研究者に過ぎなかったと思う。

 しかし、池田さんとの出会いは、私の研究人生にきわめて大きな影響を与えてくれた(自分の人生が、池田さんのように、ほんの数回の出会いであっても他人に大きな恩恵を与えられるものであったら、どんなに素晴らしいことだろう)。

 それは、コウノトリが、どこか遠くから運んできてくれたようなものだったのである。

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