自著を語る
『講義 物権・担保物権法 第2版』
同志社大学大学院司法研究科教授 安永正昭〔Yasunaga Masaaki〕
1 改訂版の上梓
昨秋、拙著『講義 物権・担保物権法』の第2版を上梓することができた。この本の初版は、学生向けの法律雑誌である法学教室に2006年4月から2年間24回にわたって連載した「入門講義 物権・担保物権法」の稿が元になっている。
1つの分野についての教科書を書き上げるには執筆の時間だけでなく動機と根気とが必要である、と思う。過去にいくつか別の教科書執筆の話を頂きながら結局実現できなかった。雑誌の連載の場合、毎月毎月一定の日に締め切りがやってくる。その区切りまでに1つの単元について原稿を書き上げる義務を負っていることで、無理して時間を作りだし書き続けることができた。連載を引き受けるかどうか大いに迷ったが結局引き受けてよかった。途中からは楽しみながら24回分執筆を続けることができ、さらに望外にも1冊の教科書にして頂いた。従って、この本が世に出るにあたっては、法学教室連載のオファーを頂いたことが決定的である。当時の企画担当の先生、編集担当の方々には感謝である。
本書初版の出版は神戸大学を定年で退職した2009年3月で、それから5年が経ち、改訂の話をいただいた。本書にも一定数の読者がおりなお需要があるという証である。出会った学生から「先生の本を読んだ。とても分かりやすかった」などという感想を聞くと、分かりやすく書くことを旨としたので、正直うれしい。
今回の改訂に当たっては、この分野における5年半ほどの間における判例等の変化を取り込みつつ、他方、10年間の法科大学院での教育から得たものを加味し、また、叙述の一層の分かりやすさを追求し、かなりの変身を遂げた。
本書は、民法(物権・担保物権法――以下物権法という)について現在通用している解釈論を、判例を多く引用しながら、分かりやすくこれを学習する学生に伝えようとするものである。このようにありふれた教科書ではあるが、編集部の注文があったので、第2版改訂版を含めてやや気恥ずかしいが本書自体について自己紹介をしておきたい。
2 分かりやすく説明する
法学教室の連載では、物権法の学習を始めようとする学生に読んでもらうことを念頭に、稿を書き進めた。従って、この連載を下敷きにしている本書も、もちろん分かりやすさをモットーとしている。
初学者にとって民法の解釈論の分かりにくさの原因は、主として2つあると考えている。1つは社会経験が浅くそもそも民法のルールが適用される社会の仕組みについて十分な知識がないこと。第2は、他の法分野、他の民法領域についての知識が必ずしも十分ではないことである。
そこで、第1に、単に制度、条文の解釈を説明するのではなく、法により整序されるべき社会の実態についての知識を、典型例をモデル化しつつ、また、判例を多く取り上げて説明することとした。また、なぜ条文の解釈をめぐっていろいろな議論があるのか、その社会的背景を説明することにも意を用いた。たとえば、時効取得と登記の問題では、主として適用が問題となる2つの類型、すなわち、二重譲渡における第一譲受人が未登記でしかし占有を基礎とする時効取得を主張する類型と、境界争いで越境して占有する部分について時効取得を主張する類型とを主要例として提示したうえで議論を始めた。また、不動産の占有による抵当権侵害の場合における妨害排除の問題や、賃料債権に対する抵当権に基づく物上代位の問題などではそのような問題がなぜ登場したのかその社会的背景、経緯をまず説明したうえで解釈論におよぶ様に工夫をした。
第2に、物権法のある制度を説明するについて民法上の他の制度あるいは他の法分野に関する知識が必要である場合には、なるべく、その知識をその場所で簡単に補充しながら説明することとした。たとえば、対抗問題における相続と登記の議論では、相続財産中に不動産がある場合にどのようにして相続人に権利が移転し、これにどう移転登記が対応していくのかを説明した上で、対抗問題となるかどうかを論じた。また、担保物権法の説明においては、担保権の実行の局面での手続的なルールの知識が不可欠であるが、そのことについての知識をごく簡略に補充しながら説明した。
この関係で、叙述の順序にも配慮した。本書の叙述の順序は、民法典の条文順序とは大きく異なっている。物権分野では占有を1番最後にもってきており、また、担保物権分野では、より社会において重要である抵当権についての叙述を先に取り上げ、続いて譲渡担保など約定非典型担保を取り上げ、法定担保権は最後にもってきている。自分自身の講義でもこのようなスタイルを採用している。これも、このような順序で話をすることが学生諸君の物権法の理解をよりスムーズにするものと信じているからである。
3 判例の扱い
本書の大きな特色は、物権法の解釈論を理解する上で不可欠と思われる最高裁の基礎的な重要判例のエッセンス(事実の概要と判旨)を、本文の中に組み込んで取り上げていることである(民法判例百選採録のものは判例番号で引用した)。このようなかたちにしたのは、連載を1書(教科書)にまとめたときである。判例重視のスタイルを採用したのは、要するに、初学者はもちろん民法を学習する者にとって、判例の学習が、以下指摘のように、有益かつ重要であると考えたからである(1970年初版の有斐閣双書民法シリーズが類似の方法を採用)。
まず、判例の学習は、ある民法のルールが、社会で実際に生起するいかなる事実にとって意味があるのかを具体的に知ることができるという意味で、また、民法に書かれた条文文言の意味内容を具体的事実に即して理解することができるという意味でも重要である。
つぎに、現行法の解釈において最高裁判所の判断は高権的、決定的なものであり、学生(とくに法科大学院の学生)に教えるに当たっては、安定的な解釈論の内容としてこれを説明しておくことが必須である。しかも、現代にいたり判例の集積がすすみ、民法の解釈論において判例がもつ比重はどんどん大きくなってきていることを考えると、判例知識は解釈論を展開するに際しては欠くことのできないものとなるのである。
以上の意味から、判例の取り上げ方としては、単に、判旨のみではなく、簡略化はしているが前提である事実関係を紹介し、それに判旨を対応させるというかたちにしている。判例の事実関係と判旨との対応関係を丁寧に読むことによって、どのような社会関係に対して当該民法のルールが実際上意味を持っているのかを具体例に理解することができる。他方、事実との対応で判旨を理解(パターンを認識)することは、逆に、解決すべき社会での生の事実を目の前につきつけられたときに、その事実に対して適用して解決に導くべき法条・制度を発見する力となると考えている。
4 学説のとりあげかた
という具合であるから、その分だけ解釈学説についてはあまりそのディテールには立ち入ってはいない。判例がない場合、判例の考え方につき有力な批判がある場合などを中心に、解釈学説に言及しているにとどまる(このような趣旨から、自説の展開もほとんどしていない)。
昔は判例の数も少なく、民法の解釈論の中でもつ学説の比重が高かったので、あれやこれや解釈可能性(学説の分布)が重視された。しかし、今日、初学者の学習においては、いろいろな考えがあり得るが、私は、とりあえず割り切って、現在この世の中で通用している民法はどんな内容のものかを学習することが肝要であると考えている。このような考えは、師匠林良平先生の編集にかかる「注解判例民法」シリーズ(青林書院)のお手伝いをさせていただいたときに、そのコンセプトに影響されたこともある。同書は、民法の解釈における判例の役割を重視し、判例実務の解釈の現状を一覧することを目的としているものであった。
5 本書の読者
以上のような次第であるから、本書は、平易な連載ものとして書き始めたときの内容と比べると、少しレベルの高い内容も含むものとなり、頁数も全体で500頁となっている。したがって、本書は、入門書として初学者にもなお適合的であると思うが、法科大学院の法学未修者の教科書としても、さらには、既修1年の学生レベルの演習の教育にも使える内容となっていると考えている。
6 研究関心
物権法に関する教科書を書いたせいか(おかげか)、学生から安永は物権法の研究者かと聞かれることがある。他領域に比して物権法領域の問題により関心をもってはいるが、しかし、民法研究者に「物権法学者」というのはいない、と思う。私自身の主たる研究関心は、「民法における信頼保護の諸制度の研究」であり、これまで表見代理制度、動産の善意取得制度、不動産取引における民法94条2項類推適用法理(および110条併用法理)、債権の準占有者に対する弁済保護の制度などにつき論文を書いてきた。これらの制度につき、それまでは、動的安全、取引安全が重視され、法律構成としては権利外観に対する信頼保護という側面に力点が置かれがちであった。私の問題関心は、反面、権利を失うことになる真の権利者の利益への配慮にあり、その利益を考慮する判断枠組みとして真の権利者にその権利喪失につき「帰責性」「帰責事由」を必要とするのではないかと考えた(その内容は各制度毎に異なると考えている)。今日では、信頼保護の制度を議論するにあたって、帰責性・帰責事由という言葉が当たり前のように使われ、これが保護の成否を判断する1つの重要な判断枠組み・考慮要素として定着しているように思うが、私は、比較的初期にこの問題を指摘した1人として(たとえば「越権代理と帰責性」というタイトルの論文を1982年に公表した)、このような事情についてはうれしい気持ちではある。そのような問題関心が本書の一部の叙述にもにじみ出ていることはもちろんである。