連載
イタリア アカデミック・ツアー
大学をめぐる散策
東京大学大学院総合文化研究科教授 丹野義彦〔Tanno Yoshihiko〕
日本からの直行便もあるミラノはアカデミックな都市である。ルネサンス期、バロック期、ナポレオン期、イタリア統一期など、各時期のアカデミックな名所が残っている。いずれも地下鉄で回れる。今回は、レオナルド・ダ・ヴィンチや奇人フィラレーテが活躍したルネサンス期のミラノを歩こう。
ルネサンスを育てたスフォルツァ家
地下鉄1号線と2号線の交わるカドルナ駅で降りると、ダ・ヴィンチゆかりのスフォルツァ城がある。ここはスフォルツァ家の学問の中心であった。ミラノの学問を知るためには、スフォルツァ家を知る必要がある(表参照)。
表 ミラノのルネサンスとレオナルド・ダ・ヴィンチのアカデミー
フィレンツェのルネサンス |
ミラノのルネサンス |
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後援者 |
メディチ家 コジモ ロレンツォ |
スフォルツァ家 フランチェスコ ルドヴィコ |
アカデミー (中心人物) |
プラトン・アカデミー (フィチーノ) |
レオナルド・アカデミー (レオナルド・ダ・ヴィンチ) |
志向 |
プラトン的神秘志向 |
アリストテレス的科学志向 |
スフォルツァ家のミラノ支配は、フランチェスコ・スフォルツァ(1401〜1466年)に始まる。『イタリア・ルネサンスの文化』の中で、ブルクハルトはフランチェスコを天才と讃え、メディチ家よりも高く評価している。マキャヴェリも『君主論』の中で彼を高く評価した。彼の宮廷がルネサンスを育てた。フランチェスコの後を継いだのは息子のルドヴィコ(1452〜1508年)であり、この時代にスフォルツァ家は最盛期を迎えた。彼は人文学者のフィレルフォを家庭教師として育ち、自身優れたラテン語学者であった。
ダ・ヴィンチのアカデミー
ルドヴィコの宮廷にはレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)がやってきた。ルドヴィコとダ・ヴィンチは同年齢である。ダ・ヴィンチは、フィレンツェで徒弟時代をすごし、30歳でミラノに赴いた。30〜48歳と54〜61歳という円熟期に25年間ミラノで仕事をした。彼の周りに「レオナルド・アカデミー」ができ、建築家ブラマンテ、数学者パチョーリなどが集まり、スフォルツァ城やダ・ヴィンチの家で議論がおこなわれた。「レオナルドのアカデミー」と書かれたロゴ・マークが今でも残っている。このアカデミーが学校のような組織であったのか、ただ交友関係を表したものにすぎないのかは不明である。
ミラノは、フィレンツェと並んでルネサンスが栄えたが、共通するのは大学がなかった点である。フィレンツェにはピサ大学、ミラノにはパヴィア大学があったので、中央には大学が作られなかった。そのかわりに、宮廷内のアカデミーが学者を育てた。この点も共通する。
違いもある(表参照)。フィレンツェのプラトン・アカデミーはプラトン主義的な神秘志向が強かった。一方、ミラノでは、アリストテレス派が優勢で、医者、科学者、技術者、数学者、軍事工学者などが集まり、科学志向が強かった。ケネス・クラークによると、フィレンツェとミラノの宮廷は相いれなかった。例えば、フィレンツェのピコ・デラ・ミランドラは「数学は真の学問にあらず」と言っていたのに対し、ダ・ヴィンチは「数学を好まぬ者はわが文章を読むべからず」とした。
絵は科学である――図学の起源
ルドヴィコはダ・ヴィンチに3つの芸術プロジェクトを与えた。第1は、スフォルツァ城の「アッセの間」のデザインである。これは今でも城で見ることができる。第2は壁画『最後の晩餐』の制作である。『最後の晩餐』のある世界遺産サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会は、スフォルツァ城の近くにある。第3は、フランチェスコ・スフォルツァ記念騎馬像の制作である。この騎馬像は、戦争でブロンズが不足したため、完成しなかった。なお、この像は日本で復元されて、名古屋国際会議場に飾られている。
ダ・ヴィンチの絵画はまさに奇跡であり、史上最高と言ってよいだろう。ところが、ダ・ヴィンチにとって、絵画は芸術ではなく、科学であった。彼の『絵画論』によると、絵画は科学である。なぜなら、絵画は遠近法や幾何学にもとづいて数量的に組み立てられるからである。学問の基礎となる自由七科(セブン・リベラル・アーツ)は、文法、修辞学(詩)、論理学、数学、幾何学、天文学、音楽からなる。ここには音楽が含まれている。これに対して、『絵画論』では、音楽より絵画の方が科学的であるから、「自由七科から音楽を取り消すか、絵画を含めろ」と主張する。現代の図学のようなものを構想していた。
絵画と科学の結合として、人体解剖図をあげることができる。ダ・ヴィンチは約30体の解剖をした。パヴィア大学の解剖学者トッレと解剖図を出版しようとしたが、トッレの病死により中止となった。ダ・ヴィンチの解剖図は歴史の中に埋もれ、再発見されたのは、18世紀になってイギリスの解剖学者ウィリアム・ハンターによってであった(拙著『イギリスこころの臨床ツアー』星和書店参照)。
ミラノ大学本部(旧マッジョーレ病院)を歩く
地下鉄3号線ミッソーリ駅で降りると、ミラノ大学の本部がある。ミラノ大学は、1924年創立で比較的新しいが、学生数65,000名のマンモス大学である。ミラノ大学本部は、旧マッジョーレ病院の建物である。この病院は、前述のフランチェスコ・スフォルツァによって1456年に着工された。ルネサンス時代に作られたので、「ルネサンス・ビル」とも呼ばれる。第二次世界大戦の空爆によって大破したため、病院の機能は、通りをはさんで東側にある新マッジョーレ病院に移された。壊れた建物は修復され、大学校舎として使われている。
奇人フィラレーテが設計した病院
旧マッジョーレ病院を設計したのは、建築家フィラレーテ(1400頃〜1469年)である。この名前は、師からつけられた「徳を愛する者」という意味のあだ名である。実際は徳を愛するどころでなく、ローマで盗みを働いて追放され、ミラノにやってきた。
フィラレーテは、『建築の書』25巻を書いてフランチェスコ・スフォルツァに捧げた。『建築の書』は、スフォルツィンダという架空の都市を設定し、理想の都市計画や建築について語る形式をとる。ユートピア物語のはしりである。理想都市スフォルツィンダは、八角形をしており、周囲は円形の城壁に囲まれている。「美徳と悪徳の館」という建物もある。これは「正方形の基壇の上に円形平面の建物が10層の高さにそびえ、最上部に美徳の像を戴いている。低層部には講義室と売春宿が、上層部には研究アカデミー、最上部は占星術の研究所が想定されている」(『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ』長尾重武、中公新書)。
スフォルツィンダには病院もある。その建物がマッジョーレ病院として実現したのである。実際の病院の配置は図に示すとおりである。この図を見ながら、フィラレーテが『建築の書』で述べる理想の病院の記述を読んでみよう。
この病院は、2つの大きな病棟があり、一方を男性用、他方を女性用とする。男性棟と女性棟は、それぞれ十字型の建物を正方形に取り囲む形をしている。つまり「田」の字の形である。病棟が十字形をしているのは、キリスト教的な意味がある。男性棟と女性棟の間は、大きな中庭がつないでいる。上から見た形がちょうど図に示すような形である。建物の各辺は疾患別の病棟である。ヴァザーリは『ルネサンス彫刻家建築家列伝』の中でこの病院を高く評価した。
ルネサンスの中庭をめぐる
旧マッジョーレ病院(ミラノ大学本部)の中は、出入り自由なので、歩いてみよう。以下、本文中のアルファベットは図中のアルファベットと対応している。
ペルドノ通りに入口(A)がある。壁の全面にたくさんの彫刻や繊細なレリーフがはめられている。どれもすばらしい美術品である。
入り口を入ると、「名誉の庭」(B)がある。中央に植え込みがあり、その中は芝生になっている。回りは2階建ての回廊になっている。回廊には、哲学、歴史学、考古学などの研究室や教室、図書館が並ぶ。
図に示すように、南に4つ、北に3つの中庭がある。それぞれ個性があるので、中庭めぐりは面白い。「薬局の庭」(C)は、昔は薬局があったのでそう呼ばれる。今は法学部の研究室である。美しい芝生の庭で、小さな生け垣がある。「氷室の庭」(D)には、食物などを保管した氷室があった。庭の隅に、松ぼっくりのような石が置いてあるが、これは氷室の頂上にあった飾りである。中央には遺跡があり、透明の円形の容器で覆って保存している。周りは哲学科で、部屋の中は本で埋まっている。奥には「浴場の庭」(E)と「まき小屋の庭」(F)がある。後者の真中には、円柱の遺跡がある。北側には、3つの中庭がある。「18世紀の庭」(G)は芝生が生えた中庭である。北側の中庭は、名前がないが、池もあり草木が生えた庭園である。
なお、Googleマップのストリートビューによって、BとCとGの中庭を周遊できる。
ルネサンスの裏を知る楽しみ
ルネサンス・ビルの東側に回り、フランチェスカ・スフォルツァ通りに出る。ビルの東側は、旧病院の正面で、地味なレンガ造りである(H)。
中央にはアヌンチアータ教会がある(I)。この教会の地下には墓地があり、1472年から200年間、病院で亡くなった遺体が埋葬されていた。推定で50万人とも言われる。
教会の横には、旧病院の門の遺跡がある(Iの左側)。半分壊れた門が保存されている。イタリアでは、町中でも廃墟がよく保存されている。ルネサンス・ビルの入口のある西側は派手で美しいのに対して、東側は地味で、一部廃墟になっている。廃墟の独特の趣を味わえるのも、大学散策の楽しみのひとつである。
このアヌンチアータ教会は愛国者の聖地でもある。1848年には、ウィーン体制に対する市民革命がヨーロッパ各地でおこった。ミラノはオーストリアに支配されていたが、市民が蜂起し、臨時政府を樹立した。しかし、オーストリア軍に鎮圧された。「ミラノの5日間」と呼ばれる。軍に包囲されて、戦死者を郊外の墓地に運べなかったので、遺体はこの地下墓地に埋葬された。このため、この教会は1861年のイタリア統一運動では聖地となった。
次回はバロック期以降のミラノを巡る。