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連載

経済学史の窓から

第10回(最終回) 未来の経済学はどうなるか?

早稲田大学政治経済学術院教授 若田部昌澄〔Wakatabe Masazumi〕

経済学の経済学

 今回で本連載は終わる。9回でまだ19世紀半ばにしか到達できていないのは、筆者の誤算である。もっとも経済学の歴史も意外に長く、ここまで取り上げてきた分だけでも現代にも通じる多くの課題を扱ってきたという感はある。

 経済学史は経済学の歴史、すなわち過去について論じる学問だ。だが最終回では経済学の未来について論じてみたい。といっても、未来予測ほど当たらないものはないし、そもそも科学の科学が可能なのかという問題もある。例えば科学哲学者カール・ポパーは、人間社会の動向は、知識がいかに進歩するかにかかっているけれども、知識の進歩は予測がつかない。それゆえ、人間社会の先行きを占う学問は存立しえないと考えていた(Popper 1957)。しかし、知識の中身がどうなるかはわからないにしても、知識を取り巻く状況がどうなるかについては、もう少し議論を進めることはできるかもしれない。

 経済学の歴史を対象とする経済学史は、学問についての学問という意味でメタ学問と呼ばれる。そのためか経済学史家は、経済学の歴史だけでなく現状についても関心が強い。たとえば最近出た『経済学者の経済学』(Lanteri and Vromen 2014)という論文集への寄稿者は経済学史家が多い。ただし、彼らが認めるように経済学の経済学については方法論が確立しているわけではない。

 その序論によると、経済学の経済学は、次のような5つの形をとってきたという。第1に、経済学の応用研究の1つ(たとえば教育の経済学、労働経済学の応用)、第2に、特定の手法の応用研究(たとえば経済学者が倫理的な行動をとるかどうかについての実験研究)、第3に、学問分野としての経済学の比較研究(たとえば経済学者、ジャーナルのランキング)、第4に科学の経済学から派生した研究(たとえば経済学知識の内容と生産の研究)、そして第5に科学的知識の社会学と経済学の哲学・方法論から派生した研究である。各種の研究方法が並立する現時点では「経済学の経済学」はまだまだ開発途上としかいいようがない。

第2次機械時代の経済学

 ただ、中には経済学の未来を予測する人もいる。タイラー・コーエン(ジョージ・メイソン大学)は新著の『大格差』(Cowen 2013)で、これからの経済学の姿を描写している。かつて『大停滞』で技術革新の枯渇による経済成長の鈍化を憂えたコーエンは、これからは知能を備えた機械の時代がやってくると論じている。言ってみれば連載第8回で紹介したブリニョルフソンらの議論を受け入れた形だ。政策的対応は別として、機械との補完性が強い仕事に就く人々はこれまで以上の繁栄が得られるが、機械との代替性が強い仕事に従事する人々の将来は暗い。コーエンは、さらにこうした機械化された知能が科学、とりわけ経済学に与える影響を予測している。これからの科学はますます専門分化が進み、経済学については、次の3つの事態が進行するという。第1に、データの質が高まる。第2に、実証的な実験の質が高まる。そして第3に理論の複雑性は強まるが、そうした理論の影響力は強まらないだろう。専門分化の進行は、アダム・スミスやハイエクのいう、文明社会では分業が進展するという議論の応用である。

 連載第2回で示したように、コンピュータの発達により経済学のデータサイエンス化が進行している。現代の経済学は実証分析の時代である(森田 2014、Einav and Levin 2013)。『ヤバい経済学』(Levitt and Dubner 2005)で著名になったシカゴ大学のスティーブ・レヴィットは、この傾向を代表しているといえる。データサイエンス化の進行の一方で、使われる理論はますますシンプルになっていく。ここには相関がある。コーエンは最近の経済学博士号取りたての経済学者たちが、かつてのシカゴ大学の学部のミクロ経済学で聞かれたような質問にも答えられない状況を報告している。レヴィットも、そしてポール・クルーグマンもシンプルな理論を用いることを好む。使える理論はますますシンプルなものになっていくと、コーエンは予測する。

 変わるのは論文の内容だけでないとコーエンはいう。「新しいパラダイムの話になると、第2のマルクスや、第2のケインズ、第2のハイエクのような大理論家の新理論を予想する人が多いだろう。しかし、実際に訪れる変化は、そうした新理論の登場以上に劇的な影響を生む。科学者と学問分野の関係を根底から揺るがす変化が起きる。人間の研究者が研究のプロセスで従属的存在になるのである」。論文という形態は残るかもしれない。しかし、本当に重要なのは実証分析のプログラムコードになるかもしれない。そしてそういうプログラムコードを本当に「理解する」ことができるのは機械化された知能になるかもしれない。

 専門化は逆にコミュニケーションの必要性を上げる。直観的な方法を好む一部の経済学者たちは他の研究者の生み出した研究成果を消化し、一般向けに紹介する仕事に携わるだろう。コーエンはこういう経済学者を「フリースタイル経済学者」と呼び、「経済学的な主張の妥当性を判断するためには、かならずしもみずからがトップレベルの研究業績をあげている必要はないが、きわめて高度な技能が求められる。ノーベル賞受賞者の多くよりも高い技能が必要だ」とさえいう。

経済学教育の専門化と大衆化

 経済学者を取り巻く制度的環境はどう変わるだろうか。連載でここまで取り上げたサラマンカ学派からJ・S・ミルに至る経済学者たちには特徴があった。サラマンカ学派、ウィリアム・ペティ、アダム・スミスは大学教授ではあったものの、経済学講座を持っていたわけではなかった。T・R・マルサスは経済学教授ではあったが、東インド会社のカレッジに所属していた。F・ケネーは医者、D・リカードウは引退した株式仲買人・国会議員、K・マルクスは職業的革命家・ジャーナリスト、F・エンゲルスはジャーナリスト・実業家、J・S・ミルは1858年に抗議して辞職するまで東インド会社の社員であった。要するにこの時代は、物理学や生物学などの他の学問分野でもかつて見られたような、専門分化がまだ進んでいない、偉大なるアマチュアの時代であった。

 アマチュアの時代は過ぎ、その後の経済学者は大学人が圧倒的になる。たとえば、「限界革命トリオ」と呼ばれる3人の経済学者(W・S・ジェヴォンズ、C・メンガー、L・ワルラス)はいずれも大学の経済学講義を担当している。経済学という学問分野が制度化され、経済学者はどこかの時点で経済学部・大学院を制度的に通過し、学会に属す存在になる。経済学者のキャリア形成もますます専門分化をするだろう。

 しかし、より広範な裾野の部分の教育については別の可能性がありうるかもしれない。ネットとコンピュータの発達により、教育の在り方は大きく変わりうる。大学教育は現在でも中世時代の大学の講義スタイルをモデルにしている。しかし、それもオンライン・コースの普及で変わるかもしれない。また、経済学を学ぶのには教科書よりもクルーグマンやコーエンのブログのほうが有効かもしれない。教科書だと無味乾燥としている記述もブログならば生き生きと現実の問題を歯に衣着せぬ調子で論じることができるからだ。

 もちろん、オンライン・コースは履修を完遂する人が少ないなどまだ可能性にとどまっているし、本格的に経済学を学ぶには教科書的知識と指導者が必要不可欠ではあるものの、これまでになく教育にも技術革新の波が押し寄せているのは事実だ。実際、ブリニョルフソンやコーエンも第2次機械時代の行く末を決めるのは教育の在り方だと考えている。ただし、機械化された知性の時代には教師の役割も変わる。知識を授ける、というよりは生徒・学生の意欲をいかに持続するかという、コーチとしての役割に力点は移る。

経済学者の影響力と責任

 経済学者の影響力はどうなるだろうか。影響力というと、まず思い浮かぶのは実際の政策にどれだけ反映されているかだ。この点で経済学は意外にもというべきか、世界的にみるとかなり浸透している(Backhouse 2010)。たとえば、電波周波数についてはオークション理論が、臓器移植や研修医のインターン先の決定についてはマッチング理論がそれぞれ用いられている。またヨーロッパ連合の成立によって競争政策は各国を横断して適用されるようになっている。さらに税制面での給付付税額控除はミルトン・フリードマンの「負の所得税」のアイディアを応用したものだ。今回の経済危機での政策対応にどれくらいマクロ経済学が生かされているかは大いに議論があるところだが、大恐慌の再来を未然に防いだのはこれまで培われてきたマクロ経済学のおかげといえないこともない(竹森 2014)。

 具体的な事例よりも重要だと思われるのは、経済学が政府、中央銀行、国際機関での公式言語になりつつあることだ。政策である限り、政治が関与し左右する。しかし政策論戦の言語は経済学の影響が強くなっている。

 影響力には責任が伴う。連載第1回では、人間としての経済学者のバイアスの問題を指摘した。第2次機械化時代でも人間がいる限りバイアスの制御は依然として課題である(Zingales 2012)。

 コーエンの予測は当たるのだろうか? 最初に述べたように、未来予測ほど難しいことはない。第2次機械時代のありようをめぐっても、賛否両論意見は分かれている。「フリースタイル経済学者」はコーエンが自分自身の目標を述べているように感じられる。もっとも未来は不確実であるからこそ面白いともいえる。確実なのは経済学者(あるいは人工知能)にとっても仕事に終わりはないということだろうか。19世紀中葉から末にかけて活躍したJ・E・ケアンズ(John Elliot Cairnes, 1823─1875)の言葉が依然として妥当するだろう。「しかし、基本的な事実が確かめられ、その意味するところが十分に展開されたのちでも、経済学者の仕事が終わると考えてはならない。たとえ、事実の取り扱いが包括的であり、論理の運び方に誤りがないと考えられたとしても、である」(Cairnes 1888/1965, p.57)。

 

【参照文献】

竹森俊平(2014)、『世界経済危機は終わった』日本経済新聞出版社。

森田果(2014)、『実証分析入門――データから「因果関係」を読み解く作法』日本評論社。

Backhouse, Roger (2010), The Puzzle of Modern Economics: Science or Ideology, Cambridge: Cambridge University Press.

Cairnes, John Elliot (1888/1965), The Character and Logical Method of Political Economy, Second edition, London: Macmillan. Reprinted in A.M.Kelly.

Cowen, Tyler (2011), The Great Stagnation, New York: Dutton.(池村千秋訳『大停滞』NTT出版、2011年)

――(2013), Average is Over: Powering America Beyond the Age of the Great Stagnation, New York: Dutton Adult(池村千秋訳『大格差――機械の知能は所得と仕事をどう変えるか』NTT出版より近刊予定)

Einav, Liran and Jonathan D. Levin (2013), “The Data Revolution and Economic Analysis” , NBER Working Paper 19035.

Lanteri, Alessandro, and Jack Vromen eds. (2014), The Economics of Economists: Institutional Setting, Individual Incentives, and Future Prospects, Cambridge: Cambridge University Press.

Levitt, Steven D., and Dubner, Stephen J.(2005), Freakonomics: A Rogue Economist Explores the Hidden Side of Everything, New York: William Morrow & Co.(望月衛訳『ヤバい経済学――悪ガキ教授が世の裏側を探検する』東洋経済新報社、2006年)

Popper, Karl (1957), The Poverty of Historicism, London: Routledge and Kegan Paul.(岩坂彰訳『歴史主義の貧困』日経BP社、2013年)

Zingales, Luigi (2012), A Capitalism for the People: Recapturing the Lost Genius of American Prosperity, New York: Basic Book.(栗原百代訳『人びとのための資本主義――市場と自由を取り戻す』NTT出版、2013年)

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