自著を語る
『アントレプレナーシップ入門
――ベンチャーの創造を学ぶ』を執筆して
神戸大学大学院経営学研究科教授 忽那憲治〔Kutsuna Kenji〕
1.アントレプレナーシップって何?
アントレプレナーシップという用語を初めて目にした読者も多いかもしれない。アントレプレナーは企業家(起業家)、シップは考え方や精神、およびそれらを基礎にした活動を意味することからすれば、アントレプレナーシップは企業家精神もしくは企業家活動を意味する。
とりわけ1980年代以降は、アントレプレナーシップは各国の経済を語る上でキーワードの1つになっており、大学の教育プログラムにおいても重要な位置を占めるようになってきている。アメリカの大学が主導してアントレプレナーシップ教育の充実が急速に進展してきた。最近ではヨーロッパやアジアの大学、さらには発展途上国の大学教育においても充実したプログラムが提供されるようになってきている。
アントレプレナーシップ教育の先進国であるアメリカでは、学部、大学院、ビジネススクール(MBA)向けに、アントレプレナーシップ関連の多様な講義が提供されている。アントレプレナーシップ教育に特化した大学もある。成功したアントレプレナーであるロジャー・バブソンが1919年に設立したバブソン大学は、世界のアントレプレナーシップ教育を主導する大学である。同大学の歴史を見ると、1967年に大学院向けにアントレプレナーシップ教育が提供され、その12年後の1979年には、学部のプログラムに初めてアントレプレナーシップの専攻が設けられた。
現在、バブソン大学では、アントレプレナーシップ領域を研究・教育する教員は、同大学のウェブによれば約50人にも達する。アントレプレナーシップ関連の開講講義は、学部生を対象に20科目、MBA生を対象に25科目、大学院生を対象に49科目も提供されている。豊田章男(トヨタ自動車株式会社代表取締役社長)や岡田元也(イオン株式会社取締役兼代表執行役社長)など、日本を代表する大企業の経営者もバブソン大学の卒業生である。
2.なぜアントレプレナーシップを活発化させることが必要なのか
なぜアントレプレナーシップを活発化させることが必要なのか。それは、グローバルに事業活動を展開する急成長企業がイノベーションを主導するのみならず、雇用を創出し、経済成長に多大な貢献を果たすからである。
ハーバードビジネススクールのクレイトン・クリステンセン教授も述べているように、イノベーションには従来製品の価値を破壊するかもしれないまったく新しい価値を生み出す破壊的イノベーションと、従来製品の改良を進める漸進的イノベーションの2つのタイプがある。漸進的イノベーションには大企業が大きな役割を果たしているが、破壊的イノベーションにはアントレプレナーが大きな役割を果たしているのである。
雇用創出に対する貢献も大きい。会社設立から短期間で急成長をとげたアメリカのイノベーション企業は、それらの多くが会社設立から数年で新規株式公開を達成し、公開後にさらに成長を加速させている。会社設立から10年程度で膨大な雇用を創出している。
3.日本のアントレプレナーシップの現状は?
スイスのビジネススクールIMDが毎年発表する国の国際競争力ランキングによれば、日本は調査対象59カ国中で1993年までは第1位の位置を占めていた。しかし、その後徐々に低下し始め、2011年時点でのランキングは26位、2012年時点では27位、2013年時点では24位である。残念ながら、もはや国際競争力がある国とは世界から見られていないのが現実である。
こうした国際競争力の低下の主要因として同調査で指摘されているのが、アントレプレナーシップ(2011年時点:59位で最下位、2012年時点:54位)である。ロンドンビジネススクールとバブソン大学が中心になって1999年から実施しているGEM(Global Entrepreneurship Monitor)においても、世界各国のアントレプレナーシップ活動の現状が報告されているが(http://www.gemconsortium.org/を参照)、日本は最低ランクの評価が与えられている。
4.起業する人だけの学問ではない
しかし、アントレプレナーシップを学習する意味は、会社を起こすために必要な知識の習得に限定されるものではなく、したがって会社を起こす人(アントレプレナー)のみを教育の対象とするものではない。
たとえ起業するという意味でのアントレプレナーというキャリアの選択をしなくても、異なる視点で物事を考える(Think Different)ことの重要性を知ることがアントレプレナーシップ教育の重要な意義である。スタンフォード大学のティナ・シーリグ教授が著書『20歳のときに知っておきたかったこと』の中で紹介している興味深い例を紹介することにしよう。
伝統的なサーカスの特徴を挙げるとどのようなものになるだろうか。「大きなテント」、「動物による曲芸」、「安いチケット」、「土産物売り」、「1度にいくつもの芸」、「けたたましい音楽」、「ピエロ」、「ポップコーン」、「肉体自慢の男たち」、「フープ(リング)」といったものである。それでは、これらとまったく逆の特徴をもたせたらどうなるだろうか。「動物は登場しない」、「高額のチケット」、「物売りはいない」、「1度に上演する芸は1つ」、「洗練された音楽」、「ピエロはいない」、「ポップコーンもなし」といった特徴となろう。
それでは、伝統的なサーカスが持っている特徴と全く反対の特徴を持つようなサーカスが成り立つ可能性はないと言えるのであろうか。伝統的なサーカスが衰退しつつあった1980年代に、カナダ(ケベック)の大道芸人ギィ・ラリベルテが新しいサーカス団を立ち上げた。「伝統的なサーカス」とは全く異なる、「シルク・ド・ソレイユ風のサーカス」の誕生である。
異なる視点からものごとを考え、新たな視点から価値を付与できる能力の向上が、まさに今、日本人に求められている。しかし、新奇性が高いものを創造しようと思えば、単に専門力を深めるだけでは不十分で、専門力と同時に総合力が問われる。アントレプレナーシップはまさにそうした性格を持った学問である。他の専門領域との接点や融合が、社会的・経済的・文化的にインパクトのある意外なものを生み出す創造力の基礎になる。
よく知られているように、イタリアのメディチ家は15世紀に、まさにこうした異業種領域の交差の場、融合の場を提供しようとした。フランシス・ヨハンソンが自書(『メディチ・インパクト』ランダムハウス講談社、2005年)の中で「メディチ・エフェクト」と呼んでいるように、こうした試みは、ルネッサンスを花開かせ、現在にも多大な影響を与えている数多くの創造物を生み出すことに成功した。大学に入学した1年生から多様な視点で物事を考える能力を養い、専門性を深めながらも理科系・文化系といった枠組みを超えて学生が接し、意見を交わし融合すれば、それが今後の日本経済にとっても、将来大きな変革を起こす原動力になるものと執筆者一同信じている。アントレプレナーシップは座学ではなく、実践がともなってはじめて意味を持つ。4年間の学生生活で、まさにアントレプレナーシップを学びそして実践してもらいたい。
5.本テキストの試み
アントレプレナーシップというタイトルが付けられた講義が、学部生向けに提供されている大学はまだ少ないかもしれない。大学院やMBAを対象としたアントレプレナーシップのテキストは、海外で広く利用されている定番のテキストの訳書を含めて、広く利用できるようになってきているように思う。しかし、高校を出て大学に入学したばかりの大学生にアントレプレナーシップを教える入門書となるとかなり限定されている。
大学に入学した早い段階で、アントレプレナーシップという学問領域に是非触れてほしいという強い思いを込めて、本書を執筆した。執筆者の5名は所属する大学も違えば、研究テーマや教育の主たる対象としている学生も異なる。しかし、これまで長い期間にわたって、アントレプレナーシップの研究や教育に情熱を持って取り組んできたメンバーである。学部生向けの入門書の執筆は、われわれにとっても創造性を持って取り組むべきチャレンジングな課題である。今回の出版にあたり、1単位の講義でアントレプレナーシップのエッセンスを教えることができるように、14からなる章の流れや構成、織り込む内容について何度も議論を重ねてきた。まず、本書は、実際に起業する際にはおそらく考えることになる項目の流れに沿っている。また、各章の構成についても、学部生向けの入門書となるべくいくつかの工夫をした。
第1に、各章のイントロダクションでは、学ぶことのポイントを明確に示した。大学に入学したばかりの大学生を対象にしたテキストなので、できるだけ内容を絞り込み、各章について4つ程度のテーマを明示している。
第2に、イントロダクションの次には、各章で学習する内容を織り込んだ具体的なケースを紹介し、学習するテーマの理解が深まるように工夫している。各章で取り扱う内容をまず学習した後で、これらのケースを議論することによって、習得した知識をもう1歩深いレベルにまで定着させることができると思う。
第3に、重要と思われるキーワードは太字とし、各章の最後には、まとめとして理解すべき点を箇条書きで要約している。これらのキーワードやまとめを参照しながら、各章の復習をしてもらえれば、さらに理解を深めることができるであろう。
第4に、各章の最後にはチャレンジ課題を設定し、ここで示した課題に取り組むことで、各章で学んでほしい内容の予習や復習ができるように工夫した。また、基礎知識を習得することで、知識を深めたいと望む学生が出てくれることを期待し、さらに学習するための文献として、各章のテーマに関わる興味深い文献を数冊紹介している。これらの文献についても是非チャレンジしてもらいたい。
もちろん、上で述べたわれわれの試みが成功しているかどうかは読者の方々の判断に任せることになるが、アントレプレナーシップの入門書として本テキストが広く利用されることを祈念する。