自著を語る
『エコノリーガル・スタディーズのすすめ
――社会を見通す法学と経済学の複眼思考』
エコノリーガル・スタディーズの目指すもの
神戸大学大学院経済学研究科教授 柳川 隆〔Yanagawa Takashi〕
神戸大学大学院法学研究科教授 高橋 裕〔Takahashi Hiroshi〕
この春、『エコノリーガル・スタディーズのすすめ』と題する書籍を私たち2名と大内伸哉教授とを編者として、有斐閣から刊行することができた。同書は、神戸大学経済学部と法学部が共同で行ってきた法経連携専門教育プログラム(通称「エコノリーガル・スタディーズ(ELS)プログラム」)の中で開講されるオムニバス授業「法経総合概論」の教科書としてまとめたものであり、神戸大学への所属経験を持つ20名の法学者と経済学者が執筆したものである。この本の刊行が既存の授業科目の枠を超えようとする挑戦であることは、その書名からも窺われることだろう。『書斎の窓』の誌面を得たこの機会に、神戸大学法経両学部が取り組んでいるこのプロジェクトについて簡単に説明させていただくことが、本小稿の目的である。
神戸大学法経連携専門教育
プログラムとエコノリーガル・スタディーズ
本プログラムの根幹をなす「エコノリーガル・スタディーズ」の設立に向けた準備が神戸大学法経両学部の数名の教員のあいだで始まったのは2007年春のことであり、現在のコンセプトが概ね固まったのは2008年初頭のことであった。その際の問題意識は、立法・行政・司法、ないし一般消費者・企業によって行われるさまざまな判断について法学者と経済学者の意見がしばしば異なることがあることを前提に、どのようにすれば、その乖離の理由を探ることができ、さらには両分野が協力できるのか、ということにあった。現代の社会・経済問題に対して、法学者と経済学者の問題関心が異なったり、分析する手法が異なったり、時には価値観(評価軸)が異なっていると思われることがある。また、同じことを異なる言葉で表現したり、同じ言葉を用いていてもその意味が異なったりすることさえある。経済学者から見れば法学者の判断は合理的(効率的)でないと思われるところがあり、法学者から見れば経済学者の考えは現実を単純化し過ぎるところがあるとしばしば感じられる。しかし、現実の社会に目を転じれば、そこで起こる問題は複雑であり、法学だけあるいは経済学だけでは解決できず、協力が必要であることは明らかである。そこで、法学と経済学の思考の違いを理解し、どのように協力できるかを探ろうとしたわけである。当初は学内予算および科研費を受けて共同研究を行うことから始め、やがてその成果を教育に生かすべく本プログラムの開始へと至った。
2010年度から開始された本プログラムは、両学部の新2年生から計30名ほどの学生を選抜し、同じクラスで演習科目を中心に法学と経済学を一緒に学ぶものである。もちろん従来からも学内外において、学際性を意識した授業ないし教育カリキュラムはあった。しかしそれらはたいていの場合、学生が他学部で開講されている授業を履修して学ぶことを想定したり、あるいは複数分野の教員が1つの授業に参画するとしてもそれはオムニバス講義の形式をとったりと、教える側からすれば各専門の研究者がそれぞれの専門分野の説明を――他分野との関係を強く意識することは少ないままに――行うというものだったのではないか。要するにそこでは、学際的な思考法の習得は学生の責任に委ねられていたわけである。しかし、研究者ですら理解していない他分野との間の発想・思考・問題関心その他に関する異同を、学生が独力で理解することは容易ではあるまい(実際、2年生を対象とした授業においてですら、既に法学部生と経済学部生の思考法はそれぞれの分野の特徴を面白いほどに反映するものになっていた)。そこで、本プログラムでは、授業に際して、法学者と経済学者が一緒に指導にあたることとした。具体的には、学生の前で共通のテーマをめぐって法学の視点と経済学の視点の双方から講義を行い、また、学生の作成する論文に対しても法学の観点と経済学の観点から助言を行うこととしたのである。学生の質問に対し、法学者と経済学者がそれぞれの観点から答えることももちろん我々の予定したところである。こうした経験を積み重ねるなかから、学生が――そしてまた教育にあたる研究者自身も――法学と経済学両方の思考法を身に着けることができると考えたわけであり、本プログラムは学生にとっても研究者にとっても1つの異文化交流の場となった。
特に本プログラムの基幹科目の1つというべき「法経総合概論」という授業では、毎回2〜3名の法学者と経済学者がともに教壇に立ち、学生の前でそれぞれの考え方を示しながらあたかも漫才のように交互にやり取りをする、というスタイルをとった。授業を通じて、さまざまな問題について法学と経済学の共通点と相違点を提示するとともに、相違点がどこから来るのかを受講生に対してヴィヴィッドに表現しようとしたわけである。そのような試みの成果をまとめて、広く社会と共有しようとしているのが今回上梓した『エコノリーガル・スタディーズのすすめ』であり、したがって同書では全ての章が共著、それも1つの章を除いてはいずれも法学者と経済学者の共著という、教科書としては異例のスタイルをとっている。
「エコノリーガル・スタディーズ」という言葉について
以上述べてきたところをまとめるならば、「エコノリーガル・スタディーズ」とは、法学と経済学の問題関心・思考法・分析手法や成果の共通点と相違点をともに理解し、暗黙の前提とされている価値判断の差違にまで立ち戻って、2つの領域・思考を複眼的かつ総合的に行き来することで、複雑な現代社会を見通して問題解決に役立てようとする学問である、ということになる。しかしそれにしても、「エコノリーガル・スタディーズ」とは耳慣れない言葉だとお感じになる読者も多いことだろう。そしてまた、「法と経済学」とどのように違うのかという疑問をお持ちになるかたもあるかもしれない。『エコノリーガル・スタディーズのすすめ』では詳しく記すことができなかった、この言葉の由来についても、ここで少しご説明させていただこう。
法学と経済学との関係の順接性は、本誌本年1月号に掲載された座談会「法律学と経済学をめぐって」でも詳しく論じられたところである。ただ、その順接性と同時に見据えてよいことは――同座談会においても折に触れて言及されているように――両者の間に強い緊張関係があるということであろう。そのことは、私法の基本をなす民法学の研究動向が、(少なくとも日本においては)一部の例外を除いて経済学と親和的ではないようにみえることに端的に現われている。神戸大学経済学部・経済学研究科と法学部・法学研究科が協働的に研究教育活動を開始しようとした際にも、むしろそうした法経間で縷々生じる逆説性を前提にしながら関係を築きあげようとしていったことは前述のとおりである。
にもかかわらず我々が法経両分野の連携の豊かな可能性を信じた理由は、1つには神戸大学の来歴にあった。神戸大学がそもそも神戸高等商業学校として発足し、それ以来久しく法・経済・経営3分野が――タコツボ的に分離するのではなく――協働しながら研究教育活動を積み重ねてきたということは、神戸大学の社会科学系の教員の多くが共有している集合的アイデンティティではないかと思われる。その伝統を再び賦活化させようというプロジェクトが、「『市場化社会の法動態学』研究センター(CDAMS)」(法学研究科)と「新しい日本型経済パラダイムの研究教育拠点」(経済学研究科・経済経営研究所)という2つの「21世紀COEプログラム」であり、そしてその後継的性質を持つこのエコノリーガル・スタディーズであった。
しかしCDAMSをさらに発展させようとする際に我々は、市場への強い関心を有しつつも、既に存在している「法と経済学」のアプローチを取り入れる道を選ばなかった。前出の座談会においてJ・マーク・ラムザイヤー教授が示された「『法と経済学』と言うと、これは経済学のアプローチを使って法的現象を分析する研究、法的制度が人間の行動にどんな影響を及ぼしているかを分析する研究」であるという理解は、法経両学界においてかなり広く受け入れられているものだと思われる。しかしその理解に従うならば、とりもなおさず、「法と経済学」とは経済学である、ということになる。「法と経済学」とは経済学的手法と思考とを単一方向的に法学に当てはめるアプローチだということだ。しかしそうであるならば、法学が経済学に対して示唆と刺激を与える余地はもとより少ない。私たちはそのような一方通行性には大きな魅力を感じなかった。翻れば既に1987年の時点で、故平井宜雄教授が次のように述べられていたではないか――「伝統的な法律学は、社会現象を扱う他の諸分野と決定的に異なった特殊なかつ重要なアプローチを確立するに至っており、このアプローチの核心を把握しないままに『科学』に憧れるならば、『科学』にふりまわされてしまうことにならないか(中略)。最近隆盛をきわめる「法と経済学」に、このような傾向がうかがわれなければ幸いである」と(平井宜雄「『社会科学』と法律学」、『書斎の窓』368号6頁)。法学と経済学とがお互いに協力し合える、そのような研究と教育のアプローチを目指そうではないか――それがCDAMSの経験を経て法経連携の可能性をさらに探ろうとした私たちの共通の問題意識だったのであり、「イコール・フッティング」は我々の当初の合言葉であった。
そうであるとすれば、私たちは「法と経済学」という言葉からも離れなければならない。平井教授が「法と経済学」という訳語をLaw and Economicsに与えたその所以自体が、経済学から法学への一方的関係ということにあった(平井宜雄「『法と経済学』という言葉について」、『時の法令』1412号[1991年])ことに思いを致すならばそれはなおさらであった。そうして、議論を重ねた末に辿り着いたのが、「エコノリーガル・スタディーズ」という言葉だったのである。
その議論のなかで私たちの念頭にあったことの1つは、英国における「法と社会」研究の潮流がしばしば、古典的な “Sociology of Law” でもなく、米国で1960年代以降有力な研究動向となった “Law and Society Movement” でもなく、 “Socio-Legal Studies” という冠を掲げたことだった(オックスフォード大学にCentre for Socio-Legal Studiesが設置されたのは1973年であり、1990年には英国に拠点を置く法社会学研究学会としてSocio-Legal Studies Associationも設立されている)。法と社会を “and”でつなぐのではないアプローチと同様に、法と経済/法学と経済学もまた “and” でつなぐのではない可能性を、“Econo-Legal Studies” という言葉に託そうとしたのである。この言葉をめぐっては、法経連携の可能性をめぐって当初よりさまざまな助言をいただいていたクロード・メナード教授(パリ第1大学)から2008年初頭には「概念としておかしくはない」という――いささか微妙な表現の――コメントをいただいたこともあったが、その後、神戸大学の研究・教育活動に強い関心を持ち続けてくださっているジェフ・レオン弁護士のご尽力のもとマレーシアにおいても関心が共有されるなどし(たとえばwww.jlpw.com.my/wp/wp-content/uploads/2013/02/JLPW-Legal-News-Alert.pdf参照)、内外において次第に定着していくのではないかと考えつつある。
かくして、我々としては「法と経済学」の発想と方法とを大いに活用しているけれども、しかし「エコノリーガル・スタディーズ」は、法や制度に関わる問題について、法学の視点と経済学の視点を用いて複眼的・総合的に解決しようとする点でコンセプトが異なる。日本でも「法と経済学」が積極的に受け入れられている分野もあるが、あまり受け入れられていない分野もある。そうした状況のもと、エコノリーガル・スタディーズでは多くの分野で複眼思考が行われることを目指しているのである。
エコノリーガル・スタディーズ教育の有用性
エコノリーガル・スタディーズ・プログラムという教育プロジェクトは2013年度末で4年目を終え、第2期生までの卒業生が出たところであるが、文部科学省の経費を受けた事業として、2年目に中間外部評価、4年目には最終外部評価を行った。最終評価の中で、さる大手企業の法務部長から、法学部卒業生と経済学部卒業生の特徴と本プログラムへの期待として、次のような指摘をいただいた。「法学においては、実定法が目的とする規範の実現を大前提にすることから『存在するルール』を体系的に理解しようとするところに力点が置かれるのに対し、経済学においては、資源配分の効率性や所得分配の公平性など利得状況の認識を深めることにその意義を見出し、『あるべきルールや制度』をどう考えるかという点が強調されるという点にある。(中略)学問的な立ち位置の違いを反映して、新入社員などをみていますと法学系の人は『存在するルール』に固執する傾向があり、現状の分析は得意ですが、次の展開についての意見に乏しいという見方があります(法務担当者の集まる会でも同様の指摘がなされています)。他方、経済学系の人は、『あるべき姿』を意識する傾向があり、その一方『存在するルール』の下でどうなのかという視点はあまり重視していないように見受けられます。いずれにせよ、企業のどの業務においてもその双方の視点が必要でありますから、大学教育の場で複眼的思考ができる人材の育成事業に、企業が大きな期待を寄せるのは論を俟たないところです」。これは法学と経済学の役割の相違点と両者を学ぶことの1つの大きな意義を示している。プログラム履修生がプログラムの締めくくりとして執筆することを求められる「修了研究」論文について、私たちは法学的視点と経済学的視点の両方を必ず取り入れるようにと指導を行い、その結果、法学部生でも数理的理論分析や計量的実証分析を行ったりし、また経済学部生でも判例研究を行ったりしながら論文を作成しており、複眼的・総合的に研究することが積極的に推進されている。履修学生を対象に行ったアンケートでも、プログラムを通して複眼的・総合的な視点に触れたことに新鮮さや意義を認めるものが多かったので、学生諸君のそうした知的な関心・期待に応えることがいくらかはできているならば嬉しい限りである。
学際的教育を通じて見えてきたこと
最後に、エコノリーガル・スタディーズを実践する過程で見えてきたことをいくつか挙げておきたい。
第1に、やはり異文化交流で一般的に見られる相互理解の難しさである。もちろん大人数のプロジェクトであるし、しかも一般論として研究者には個性的な人間も多いので、同じ専門分野であってすら、1つのプロジェクトを行うことはなにかと難しい。しかしその点、本プロジェクト参加者には協力的な人が多いことは、大変ありがたいことと感じている。神戸大学でこうした学際的プロジェクトが可能となっているのは、協力的志向性を強く有する研究者の集団であることが大きいだろう。しかし、2007年春に検討を始めた当初は、法経双方の意見をすり合わせることに非常に大きな困難が伴った。(古い表現だが)3歩進んで2歩下がる、ならまだ良いくらいで、努力しても1歩も進めない、あるいは2歩進んで3歩下がる、ということもあった。時には振出しに戻ることさえあった。1+1が2にならないという感じであった。そのような苦労が最初はあったものの、そうした期間を過ぎ次第に相互に相手の考えることが相当分かってきたので、今では1+1が3以上になるという実感を持っている。本プロジェクトは実際のところ教育する側にとってもかなりの負担になるので、現時点ではむしろ支えあうことで何とかプログラムを続けられているといっても過言ではなく、相互に信頼と敬意の念を持ち、大変なことも多いなかで充実感を得ている。
第2に、共同での教育が共同での研究をサポートする、ということである。我々は当初は、共同研究の成果を教育に活かすと考えていたけれども、実際には共同での教育活動が研究活動を推進していると言ってよい。授業は定期的に行わなければならないわけだが、そうした講義や演習の際に学生を指導するなかで教員が学ぶことが実は多い。予算申請などの機会に教育の方向に関する話し合いを法経両学部の教員合同で行う場も多くあり、こうした中で研究すべき点が明らかになって、さらに共同研究を推進することにもつながる。また、教育活動における日常的に密接な交流から人間関係が深まり、そのことも共同研究を推進する大きな力となるのである。
第3に、こうした特別プロジェクトを継続・維持していくのがとても困難だということである。本プログラムでは、4年間にわたり毎年、特命教員2名・事務補佐員1名分の人件費に相当する額の予算を文部科学省から受けていたが、期間が終了した今年度からはいずれも採用していない。我々としてはもちろん次の資金を求めて、引き続きいくつかの予算の申請をしてきているが、文部科学省・大学の基本的な態度は「同じものにはお金を出さない、いったん資金を受けたら、その終了後は自助努力せよ」というものであり,言いかえれば「初期投資の期間は支援するが、あとは知らない」というのが原則である。もとより我々のプロジェクトは収益事業体ではないので、人を雇う資金を稼ぐことができない。結局、これまで特命教員が担当してきたことも専任教員が行わねばならず、プログラム担当教員や両研究科の負担は大きい。共同研究であれば研究費が取れなかった年は一休みして次年度に再挑戦するということもできるが、教育では常に学生が入れ替わってくるので予算がないからといって休むわけにはいけない。しかし、現状の文部科学省の方針に沿って、大学は常に新しいプロジェクトを策定し外部資金の獲得を目指すということになり、既存のものを育てるという意識が弱い。これまで我々よりはるかに巨額の文部科学省の資金を得て行ってきたCOE事業ですら、結局は資金がなくなると事実上継続が困難になる。現プログラムを改善しようとした提案は一顧だにされず、法経連携を越えたより大きなプロジェクトを企画・申請しても、やはり資金を得ることは難しい。文部科学省特別経費の資金がなくなったいま、どのようにして本プロジェクトを継続していくかが、実は最大の課題である。
なお、このプログラムでは4年間で計4名の若手研究者を特命教員として採用し、その皆さんには、学際的教育という――多くの教員に求められるのとは性格が異なるであろう――要請のもとでかなりの苦労を強いたことと思うが、最終的にこの4名はいずれも期限付きでない大学教員職に就くことができた。昨今の厳しい就職状況を考えれば大変に喜ばしいことであるし、しかもそのうちの1名は法経学部、もう1名は経済学部経済法学科での採用であるから、神戸大学での経験が生かされたのかもしれない。本プログラムが、タコツボ型でない若手研究者の育成にも貢献できたのではないかと自負することをお許しいただけるだろうか。
このように『エコノリーガル・スタディーズのすすめ』の完成までは楽もあれば苦もある道のりであったが、この本を読まれた方に法学と経済学の複眼思考の魅力を感じてもらえれば嬉しく思い、またこの本を用いて複眼思考の習得を目指すような教育が他の大学でも行われるならば私たちとしては本望である。