書評
民事訴訟における手続運営の理論
中央大学法科大学院教授東京大学名誉教授 高橋宏志〔Takahashi Hiroshi〕
三木浩一教授の渾身の論文集『民事訴訟における手続運営の理論』が上梓された。まことに慶賀すべきことであり、民事訴訟法学界は珠玉の宝を増やしたこととなる。本誌から、その書評を依頼されたのであるが、客観的な書評をする力も余裕もないため、個人的な主観的感想を綴ることでお許しを頂きたい。
論文集であるので既に公刊された論文を収めるものであるが、公刊されたとき、私が最も衝撃を受けたのは第2編、第1章「一部請求論の考察」(初出2001年)である。読み進んでいて息が苦しくなったという記憶がある。この論文は、日本・ドイツ流の一部請求論がアメリカにないので当然ながら三木教授はアメリカ法に言及されていないけれども、日本民訴法学史上、アメリカ民訴法学の方法論を換骨奪胎して日本法の解釈論に応用し最も成功したものの1つである。実は、三木教授もはしがきで引用されている座談会「比較のなかのわが国の民事訴訟法」(民訴雑誌45号、1999年)に私も参加し、アメリカ民訴法はアンチテーゼとしては面白いけれど日本には合わないという暴言を吐いている。というのも当時、アメリカの論文を読んでいると、ここから先はセオレティカルな問題だと書かれていることがよくあるが、セオレティカルな問題だというのでどんな進展があるのかと大いに期待すると何も書かれていないことが多い、セオレティカルな問題だというのは論じなくてもよい問題だという意味である、理論を求めてアメリカ民訴法学を見ると失望させられる、という意識が背後にあったからである。当時の私は、身の程を顧みず、ドイツ民訴法学とアメリカ民訴法学を止揚する民訴法学を夢見ていたのであり、両者をうまく噛み合わせることができずに苦悶していたため、アメリカ民訴法学は日本には合わないという暴言を吐いたのである。その後、私は野望を捨て、日本民訴法学の普通の研究者となった。そういう私に三木教授の論文「一部請求論の考察」は、日本法の論文でありながらアメリカの優れた論文を読むような衝撃を与えたのである。三木教授は、日本の一部請求の裁判例を丹念に渉猟された上で分析され、理念型として試験訴訟型、総額不明型、資力考慮型、相殺考慮型、費目限定型、一律一部請求型の6つがあることを析出され、それぞれのタイプによって一部請求とする目的・趣旨が異なるのであるから、それに応じた解釈論を立てるべきだと論じ、かつ、実践されたのである。たとえば、いずれのタイプでも一部請求であることを明示すべきであり(明示責任)、それを怠ると残部請求は遮断される、一部請求とする理由も相手方・裁判所に開示すべきであり(理由開示責任)、理由明示責任を果たさないと相殺考慮型では外側説の利益を考慮できない、さらにタイプによっては手続の途中で請求を拡張すべきであり(請求拡張責任)、これを怠る場合、総額不明型や、例外的に相殺考慮型等では、控訴の利益を認めない、とされるのである。厖大な判例を丁寧に分析し、地に足の着いたその作業からタイプに応じた柔軟な解釈論を展開することは、翻って考えればコロンブスの卵であるけれども、アメリカ民訴法学の方法論を活用して日本民訴法学を充実させることの見事な成功例である。私がかつて夢想し挫折したところで三木教授が見事に成功されたことに感動し、衝撃を受けたということである。しかも、それをいともたやすく軽々と仕上げられていることにも圧倒される思いであった。ちなみに、アメリカ民訴法学の神髄を会得された三木教授のこの一部請求の論文と、わが国の現在において最もドイツ民訴法学を吸収されている松本博之教授の一部請求の論文が、民訴雑誌の同じ47号に順を追って(松本論文が先)掲載されたことは、偶然であろうが、わが国民事訴訟法学の思考の双璧を象徴的に示すものとしてまことに興味深いところがある。
しかし、本論文集が美事であるのは、アメリカ民訴法学からも三木教授が自由であることにある。すなわち、昭和中期までに見られた外国法の直輸入でないことにある。アメリカ民訴法は、20世紀に入りコモンローの系統でなくエクイティの系統で発展するが、その結果として多数当事者訴訟に寛大であり、奨励する傾向にある。重装備の民事訴訟を提供する方向に舵を切り、その裏側として、1度の訴訟で多くの事柄を解決することに力点を置くと理解することができる。私などは、アメリカ民訴法学を学んで単純にこの発想のもとにあった。しかし、三木教授は、審理サイズの拡張の方向ではなく、縮小の方向で理論を構築されるのである。第3編、第2章「多数当事者紛争の審理ユニット」(初出1997年)がそれである。しかも、田尾桃二判事のような日本のすぐれた裁判官も実際の手続運営の不便・苦労から審理ユニットの縮小を提唱されていたが、三木教授は拡大を志向する原告ないし裁判所に対して縮小を志向する被告ないし当事者の利益を対置させることにより、実務的な不便・苦労の問題から理論的な審理サイズ縮小論に問題を深化された。アメリカでも、行き過ぎた拡大への反省から一部の学説として審理サイズ縮小の議論があり、三木教授もそれを参照されている。しかし、アメリカ民訴の体質は審理ユニットの拡大に寛容なのであり、外国法・外国学説の直輸入を超えているところに三木教授の真骨頂がある。研究者は、留学すると、その留学先の法律学の体質に終生の影響を受けやすい。そこから自由であることは、三木教授の強みであり、自分の頭で考える研究者であることの証左でもある。
そして、三木教授は、むろん、日本の民訴法学者である。外国法を理解して議論を展開するのも大切であるが、日本法固有の問題にも切り込まなければならない。この領域での三木教授の傑出した業績は独立当事者参加の原理的否定である。第3編、第3章「独立当事者参加における統一審判と合一確定」(初出2001年)である。この発想は、すでに前述した第3編、第2章「多数当事者紛争の審理ユニット」(1997年)に現われているが、根本において、独立当事者参加を通説の三面訴訟では説明できないことを明らかにする。ある動産の所有権確認をめぐって独立当事者参加があったとしても、原告と被告との間ではどちらが正当な相続人であるかが争われ、参加人は原告から正当に買い受けたと主張して争う場合、これは三面訴訟ではなく二面訴訟の複合に過ぎない、すなわち、擬似的な独立当事者参加に過ぎないという卓抜した例を挙げられる。また、既存当事者の訴訟行為を掣肘する参加人の権限が強すぎることを指摘される。三木教授は、独立当事者参加が紛争の一体的解決の手段として有用だという通説を次々と覆してゆかれるのであるが、具体的な問題として、原告と被告の間で和解が締結された場合、それを反映して独立当事者参加は分解し以後は参加人と原告・被告との間の通常共同訴訟となることを論証される。原告・被告の二者間だけでの和解は、独立当事者参加においては無効だとする判例・通説に真っ向から挑戦されるのである。ここで、三木教授は原告・被告の二者間だけでの和解は参加人の権利・地位に法的に不利益に及ぶことがないことを梃子として、ドイツ法学顔負けの精緻なドグマーティクを展開されるのである。日本法の解釈学者としての優れた力量をあますところなく示された論文ということができる。しかも、菱田雄郷教授の研究によって明らかとなったのであるが、ドイツ法でも主参加において日本の独立当事者参加に似た解釈論が通用していたところ、19世紀からの精緻なドイツ民訴理論の展開の中で(またローマ法源を持たないというドイツ独特の不利な事情の中で)独立当事者参加的な解釈論は消滅していった、具体的な問題点としては参加されてしまうと原告・被告の二者間だけでの和解ができなくなることが批判されていたという(菱田「第三者による他人間の訴訟への介入(1)」法協118巻1号、2001年)。これは、驚くべきことである。三木教授は、失礼ながら多分ドイツ法の主参加を研究されていないと思われるにもかかわらず、自身の考察の中でドイツ法の流れを見通していたということだからである。三木教授の頭の中に、ドイツ法学の成果が先験的に入っていたということだからである。得がたい学者というほかはない。日本法固有の問題への優れた解釈論として他に、第5編、第3章「民事訴訟法248条の意義と機能」(初出2008年)、第6編、第4章「文書提出命令の発令手続における文書の特定」(初出2002年)等がある。また、第4編、第1章「重複訴訟論の再構築」(初出1995年)も、後訴優先がありうるという従来にない解釈論を自由に展開された優れた論考である。
三木教授自身は、はしがきにおいて、事件管理ないし手続運営の考え方を重視した理論の再構築を目指したと言われる。その視点で眺めてみると、本論文集はその視点が一貫して活かされた内的緊密度の高い論文集だということができる。書評としては、その視点で論ずべきである。しかし、私にはその余力がなく、アメリカ民訴法学の方法論を換骨奪胎されたもの、アメリカ法学を参考にしながら自由に考察されたもの、日本法固有の問題に精緻な理論を展開されたものの3種のものがあるといった私の主観的な感想の羅列に終わっている。しかも、これら3種に必ずしも包含されない巻頭論文「裁判官および弁護士の役割と非制裁型スキーム」(初出2004年)のような話題作もあり、第5編、第1章「確率的証明と訴訟上の心証形成」(初出1990年)、同第2章「民事訴訟における証明度」(初出2010年)、第6編、第5章「文書提出命令における『自己利用文書』概念の現在と将来」(初出2008年)という優れた解釈論、ドイツ法学を批判したと見られる第1編、第4章「訴訟物概念の意義と機能」(初出1998年)という貴重な力作、等々があり、それらについては割愛した。三木教授および本誌読者にお詫びする次第である。